第26話:錬金術は研究室の香り
錬金室の中は、乾いて砕けた薬草の匂いと、煮立つ薬液から立ちのぼる甘苦い湯気、それにどこかで小さく鳴る金属音が幾重にも重なり合い、独特の「実験室の空気」に満たされていた。
石造りの壁と床は、長年の薬液でところどころ変色しており、淡いシミがまだら模様を描いている。こびりついた薬草の香りと、湯気に溶けた金属と硫黄の匂いがじっとりと室内の空気に染み込み、ひと息吸い込むだけで喉の奥が少し熱くなる。
鼻をくすぐる香りは、漢方薬局と理科準備室を無理やり一つに押し込めて、さらに魔法をひと振りしたような、不思議な匂いだった。窓の少ない部屋の天井近くには、魔法の光球がいくつも浮かび、湯気に霞んだ淡い光を落としている。
しかし、その内装は意外にも、誠二が知っている現代日本の研究室とどこか似通っていた。
部屋の中央には、長机が一本どっしりと鎮座している。煤けた木目の天板には古い薬品の跡がいくつも染み込んでいるが、その中央を仕切るように背の低い棚が置かれ、棚板にはさまざまな色の液体が入ったガラス瓶が所狭しと並んでいた。瓶の一つひとつにはきっちりとラベルが貼られ、流麗な文字で薬品名や調合番号らしきものが記されている。小さなラベルがびっしりと並ぶその様子は、どこか試薬棚を思わせた。
視線を横にずらせば、部屋の端には背の高い本棚が、壁一面を隠すように立っていた。革張りの分厚い魔導書から、紙束をひもで無造作に括っただけのノートまで、さまざまな「知」の束がぎゅうぎゅうに押し込まれている。乾いた紙とインク、革表紙の匂いがほのかに漂い、ところどころ古びた羊皮紙がはみ出していた。そこには細かい魔法陣や図解がびっしりと描き込まれており、複雑な線と記号が蜘蛛の巣のように絡み合っている。
さらに奥には、床に描かれた魔法陣の中心に据えられた、大きな土色の甕があり、その中身がぐつぐつと泡を立てている。魔法陣の紋様は、かすかに紫がかった光を帯びながら脈動しており、その内側からは淡い紫色の蒸気が立ちのぼっていた。蒸気は魔法陣の線に沿うようにゆらゆらと漂い、床から天井へ向かってたどり着くころには、霧のように薄れて空気に溶けていく。
壁際の棚には、ガラス製のフラスコやビーカーのような器具が整然と並び、隣には金属製のスタンドや、現代でいうアルコールランプめいた器具も見えた。魔法で灯った青白い火が、透明な器具の腹をゆらゆらと照らし出し、曲線に沿って光が滑っていく。その反射が天井や壁に揺れ動き、部屋全体が液体の中に沈んでいるかのような揺らぎをつくりだしていた。
科学オタクからしてみれば、ここは天国のような空間――そんな言葉が誠二の脳裏に自然と浮かぶ。
ただのファンタジーの「魔女の部屋」ではない。現代科学の実験器具に似たものと、この世界固有の魔法的な道具が、違和感なく同じ机の上で肩を並べている。その光景が、彼の好奇心をこれでもかと刺激していた。
部屋の最奥には、作業机とは別の、少し落ち着いた一角がある。粗末ながらも磨き込まれた木枠の小窓から差し込む月の光が、山型の書類の束とインク壺、それに羽ペンを淡く照らしていた。窓の外には修道院の中庭がかすかに覗き、遠くで小鳥が鳴く声が、厚い石壁に遮られてかすかに伝わってくる。
その向こうには、柔らかそうなクッションのついた一人掛けのソファが控えていた。深い藍色の布張りのソファは、ここだけ別の部屋から切り取ってきたように居心地のよさを醸し出している。
そのソファに深く腰掛けているのが、この錬金室の主――アルクメーネだった。
陽に灼けたような褐色の肌に、陽光を溶かしたような金色の髪がさらりとかかっている。肩口から流れ落ちる髪はゆるく波打ち、動くたびに光を弾いた。長く尖ったエルフ耳には銀の飾りが揺れ、真紅の瞳が羊皮紙の行を静かになぞっていく。
小柄な体はゆったりとした白色のネグリジェのような服に包まれているが、その袖口や裾には繊細な刺繍が施され、ただの作業着というにはあまりに品があった。
誠二は、あたかも彼女のいる最奥のスペースへまっすぐ向かうふりをしながら、実際には部屋の中をきょろきょろと物色していた。
フラスコやスタンド、金属製のトングに、見覚えのある加熱器具――現代日本の研究室で見たことのあるものも多い。だがそのすぐ隣には、魔法陣が描かれた羊皮紙が無造作に積まれ、淡く光を放つ鉱石が石皿の上で脈を打つように明滅している。
見慣れたものと見知らぬものが同じ秤に乗せられ、彼の視線はあっちへこっちへと落ち着きなく飛び回った。
(すげえ……何度かお邪魔した大学の研究室に似てる。でも、あんなドラゴンの頭みたいなの、さすがに見たことないし……ちょっと待て、あの鉱物、色がおかしくないか? 光ってるぜ! 何に使うんだ!? 気になる……!)
棚の上には、本物の骨としか思えない巨大な頭骨――牙の並び方からして、明らかに人間ではない――が、無造作に置かれている。その眼窩には、淡く青い光をたたえた宝石がはめ込まれ、じっとこちらを見つめているようだった。
別の棚には、緑色の液体に浸された巨大な蜥蜴の尻尾が、ガラス容器の中でゆらゆらと揺れている。液面に浮かぶ泡が、ゆっくりと弾けるたび、かすかに薬品臭と獣臭が混じった匂いが漂ってきた。
そんなこんなで、半ば夢見心地のまま室内を眺め回しているうちに、誠二の足はいつの間にかアルクメーネの作業机のすぐ手前まで来ていた。どうやら、この錬金室自体は、それほど広い空間ではないらしい。四方を本棚と棚、器具と魔法陣に埋め尽くされた、小さな箱庭のような部屋だ。
ふと、鋭い視線を感じて誠二が顔を上げると、アルクメーネの赤い瞳が、彼を真っ直ぐ射抜いていた。
彼女の視線は、あちこちに泳ぎ続ける誠二の目の動きと、ひとつひとつの器具をなめるように追うその様子を、じっくり観察している。
「ずいぶんと興味津々じゃのう、人間」
低く抑えられた声が、紙をめくる音に重なる。澄ました口調とは裏腹に、その褐色の指先は机の縁をとん、とん、と規則正しく叩いていた。
(わあ、本当にドラゴンの頭蓋骨っぽい……あれ、標本? それとも素材? ていうか、あの光ってる鉱石、蛍光鉱物か? 紫外線ランプ的な魔法陣で励起してるとか……いや、でも、色が……)
「……」
完全に自分の世界に入り込んでしまった誠二の耳には、アルクメーネの声は微塵も届いていなかった。
滑らかな褐色の額に、ぴきり、と一本の青筋が浮かぶ。
「おいおい……わしを無視するとは、よい度胸しとるのう」
(あれ……あそこで加熱してる鉱石、表面が虹色にくすんでる。硫化鉱っぽい光沢に、あの温度……いや、これ絶対――)
アルクメーネは貧乏ゆすりを始め、いらいらとした様子で、手に持った羽ペンの先で机をかつかつと叩き出す。乾いた音が、薬瓶の静かなカタカタという揺れと混ざり合って、狭い部屋によく響いた。
「三秒以内に返事せんか! せんのなら、その頭、吹き飛ばす!」
明らかに機嫌が悪くなっている声音だったが、その脅し文句すらも、今の誠二には半分も届いていない。彼はようやく口を開き、彼女とはまったく別方向のことを言い出した。
「あの……」
誠二は、部屋の隅で小さな魔法炉にかけられている器具を指さした。
そこでは金属皿の上に載せられた黒ずんだ鉱石が、魔法の炎にあぶられ、じわじわと赤熱しかけている。立ちのぼる煙は、わずかに緑がかった灰色を帯びていた。煙は天井近くで薄く広がり、魔法灯の光を受けて、どこか不吉な色合いを浮かび上がらせている。
「あそこで炙ってる鉱物、あれ、今すぐ火ィ弱めた方がいいですよ」
ぽかんとするアルクメーネの前で、誠二は、いつもの情けない調子とは違う、妙に理知的な声音で続ける。
「表面の虹色の膜、あれ、多分こっちの言い方だと“硫黄をかんだ銅鉱石”みたいなやつですよね。あの温度まで直火で加熱すると、硫黄と金属が一気に飛んで、えっと……要するに、ここにいる全員の肺が死にます」
彼は指先で吸い込む仕草をしてみせた。
「この部屋、換気悪いですし。あの煙、色からして相当ヤバいガス混じってますよ。頭痛どころか、神経やられて、最後は楽しい錬金術どころじゃなくなるんで」
にこりともせずに淡々と告げる誠二の横顔に、アルクメーネの手がぴたりと止まる。
羽ペンの先から、インクの黒い雫がぽたりと羊皮紙の上に落ち、じわりとにじんで小さな黒い花を作った。
「お主……何者じゃ?」
赤い瞳を細め、彼女は情けなくぽかんと空いてしまった口を即座に閉じて、鋭い目つきで誠二を見つめなおした。
「……あ。すみません、完全に自分の世界に入ってしまってました。ごめんなさい! 今日の分の仕事ですよね」
「そんなことは今はどうでもええ。わしの質問に、きちんと答えるのじゃ」
そう言って指をパチンと鳴らすと、煙を出していた赤く赤熱した魔法炉の色が、すっと黒色へと変化する。炎が消え、金属皿の赤光も徐々にくすんでいく。どうやら、もう過熱をやめたらしい。
彼女は組んでいた足を組みなおして、誠二の目をじっと見つめる。赤い瞳が、わずかに興味深そうに揺れた。




