第24話:耳無し狼少女のヴェンデッタ
第24話は、誠二がきれいさっぱり気絶している裏側で、ヴェンデッタがひとり宿に泊まるお話です。
いつもの掛け合いはお休みして、雰囲気重視の小休止回+ちょっとだけ彼女の素顔と過去がにじむような内容になっています。
赤頭巾の下の「本当の姿」や傷跡など、今後に深く関わってくる最重要要素を仕込んでいますので、ゆっくり味わって読んでいただけたら嬉しいです。
田中誠二が眠りについた――否、気絶したのとほぼ同じ頃、赤頭巾の少女もようやく今夜の宿へとたどり着いていた。
冒険者ギルドのマスターであるガンガスが手配してくれた、ギルド提携の宿だ。
外観は長い歳月をくぐり抜けてきたことを物語るように、梁や壁のあちこちが日焼けし、角には小さな傷がいくつも刻まれている。それでも、正面に掲げられた丸い木製の看板や、入口脇に置かれた小さな植木鉢からは、どこか「客を迎え入れよう」とする気遣いが感じられた。
通りはすでに夜の帳に沈み、石畳の隙間には冷たい夜気がたまっている。宿の窓から漏れる橙色の明かりだけが、ぽつりぽつりと通りを照らし、その光に吸い寄せられるようにして、ヴェンデッタは扉を押し開けた。
一階の小さなロビーは、冒険者ギルドの喧噪が嘘のように静かだった。カウンターの内側で帳簿をめくっていた宿主に、彼女は無言で金色の冒険者カードを差し出す。宿主がそれを確認し、慣れた手つきで鍵束から一つを抜き取ると、きしむ木の階段の方へと顎をしゃくった。
「二階の一番奥、角部屋だ。ガンガスさんからの予約だよ。粗末な宿だが今夜はゆっくり休んでおくれ」
そう言われ、彼女は小さく会釈すると、背中の大きな荷物を揺らしながら階段を上っていく。一段踏みしめるたびに、乾いた木のきしみが、きゅう、きし、と細く鳴った。階段を上がるにつれ、古い木材の匂いと静けさが濃くなっていく。
二階の一番奥。角に位置するその部屋の前で、彼女は足を止めた。鍵を差し込み、古い木の扉を押し開ける。
ふわり、と廊下とは違う柔らかな木の香りが鼻孔をくすぐった。
年季の入った建物でありながら、嫌な湿気や埃っぽさは感じられない。つい先ほどまで誰かが窓を開けていたのか、夜気と一緒に外の冷たさがうっすらと忍び込んでおり、それがかえって部屋を清潔に感じさせる。
他の部屋よりも少しばかり広い、特別室だ。床にはカーペットの類は敷かれておらず、磨き込まれた木の板材がそのまま現れている。節目の模様や細かな傷が、ここで過ごしてきた無数の夜を語るようだった。
壁際には、木製の古びたクローゼットとチェスト。窓際には、簡素なつくりのベッドと小さな木製の丸机。分厚い一枚ガラスが嵌め込まれた窓は外の音をよく遮り、その代わりに、夜空からこぼれる月明かりだけを室内に受け入れていた。
ベッドは決して大きくはないが、ヴェンデッタの体には十分すぎる大きさで、灰色の布団と枕がきちんと整えられている。粗末な宿にありがちな、湿った藁の匂いもなく、そこに横たわればすぐにでも眠りへ落ちてしまえそうな、ささやかな安らぎがあった。
とりあえず、といった様子で、ヴェンデッタは丸机の上に置かれた蝋燭に視線をやる。蝋燭は、浅い真鍮色の皿の上に立てられていた。皿の縁からは細い金属の腕が一本伸びており、その先には、鈴を伏せたような小さな金属の蓋がぶら下がっている。今は脇へよけられるように持ち上げられているが、蝋が短くなれば重みでゆっくりと倒れ込み、火を覆って消してしまう――旅籠によくある、防火用の仕掛けだ。
蝋の塊の先には、まだ燃やされたことのない真新しい芯が、ひっそりと立っている。金属と蝋、二つの質感が並ぶ様子は、ささやかながらも、この宿が「火事だけはごめんだ」と願っている証のようにも見えた。
彼女は蝋燭に歩み寄ると、指先を芯の上にかざし、小さく息を吸い込む。
「プティ・フー」
か細い詠唱とともに、指先から小さな炎がぱちりと生まれた。オレンジ色の光が、彼女の白い指と、その先の薄い爪を淡く縁取る。ゆっくりと指先を蝋燭の芯へ近づけると、火はするりと蝋燭へと移り、途端に部屋に温かな明かりがともる。
指先の炎は、彼女がひらりと手を振ると同時に、何事もなかったかのように掻き消えた。
揺らめく蝋燭の光が木の壁や床に柔らかな陰影をつくる中、ヴェンデッタはベッドの方へと歩み、その背から大きな鞄をようやく下ろした。
床板がギギギ、と低く軋み、小さく沈み込む。その音には、今日一日背負い続けてきた荷が、ようやく解き放たれたという安堵が混じって聞こえる。
そこで、彼女はふと何かを思い出したように顔を上げた。
くるりと踵を返し、今度は小走りで出入り口の扉へと向かう。鍵穴に手を伸ばし、がちゃり、と内側から鍵をかけた。金属と金属が噛み合う、乾いた確かな音が静かな部屋に響く。
その音を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がようやく切れたかのように、彼女の肩から力がふっと抜けた。
「……ふぅ」
一つ、長い息を吐き出す。
ヴェンデッタは両の手を胸の前で組み、背筋をぐぐっと伸ばした。伸びをするたびに、こわばっていた筋肉がほぐれていく。首や肩、腰のあたりから、ぴき、ぴきっと骨が鳴る小さな音がして、そのたびに疲労が少しずつ体から抜け出していくようだった。
それから、彼女は今までずっと頭にかぶり続けていた赤い頭巾へ手を伸ばす。
留め具を外し、ふわりと持ち上げると――月光の冷たい光と蝋燭のあたたかな光が交じり合う中、金の絹糸のような髪が、さらりと空気の中に解き放たれた。
ふわり、と柔らかな弧を描いて舞い、やがて彼女の肩へと落ちる。肩まで伸びたセミロングの髪は、蝋燭の炎に照らされては蜂蜜のように甘く輝き、窓から射す月光を浴びては、淡い銀色を帯びて見えた。
その、美しい一枚の絵のような光景の中に、一つだけ、鋭い違和感があった。
彼女の側頭部。そこにあるはずのもの――耳が、なかった。
赤頭巾を外した彼女の横顔には、人間であれば当然あるはずの耳介が見当たらない。滑らかな肌が、何事もなかったかのようにつるりと続いている。
次の瞬間、頭頂部のあたりで、小さな突起がぴょこんと跳ねた。
ふわりとした黄金色の毛に包まれた、柔らかそうな狼の耳だ。月と炎の光を受けて、その毛先がきらりと光る。
だが――解き放たれたその耳が、完全に立ち上がることはなかった。
根元から先のほとんどが欠けており、台形のような形に途切れている。なめらかに断ち切られたその輪郭は、鈍器ではなく、切れ味の良い刃によって奪われたのだと強く主張していた。
左側の耳にはさらに、根本付近にもう一つ、大きく抉られたような欠損跡が残っている。古く乾いた傷跡は、すでに血が滲むことはない。それでも、それが一度どれほど激しい痛みを伴ったのか、見る者に想像させずにはおかない生々しさを湛えていた。
ヴェンデッタは、その耳のことを気にする様子も見せず、そのままの勢いで外套へと手をかける。
重たい布の外套を脱ぎ捨て、革の鎧の留め具を外し、体から剥ぎ取るように床へと放る。服が木の床を擦る音がさざ波のように広がった。
シャツの裾をつまみ、ためらいなく頭から抜き去る。続けて下着も手早く脱ぎ捨て、それらすべてを部屋の端へと足で軽く蹴り飛ばす。小さな山になった衣服は、冒険の一日を象徴するかのように、そこにぽつんと取り残された。
蝋燭の明かりに照らされた、しなやかな肢体があらわになる。
戦場を駆け抜けてきた者特有の引き締まった筋肉と、年相応の柔らかい曲線が同居した身体。その臀部――尾てい骨のあたりから、そっと伸びているものがあった。
ふわふわの狼の尻尾だ。
耳と同じ黄金色の毛に包まれたその尻尾は、まるで羽を広げるように一度ふわりと大きく伸び、次いで力を抜かれたように、柔らかく地面へと垂れ下がる。耳のような斬られた痕跡はそこにはなく、丸みを帯びた先端まで、ひどく綺麗な尻尾だった。
その異形を、彼女は当然のものとして受け入れている。見せる相手もいないこの部屋では、それが「隠すべきもの」である必要はなかった。
ヴェンデッタはそんなことには一切意識を割かないまま、ベッド脇に置いた鞄へと歩み寄る。鞄の蓋を開き、ごそごそと中身を探る指先は慣れたものだ。やがて、口を紐で固く縛り上げた革袋を一つ取り出す。
続けて、先ほど宿主から受け取った木のジョッキを丸机の上にごとりと置いた。木と木がぶつかる、乾いた鈍い音が響く。
タプタプと中身が揺れて形を変える革袋の口をゆるめると、そこからふわりと香りがあふれ出した。
柑橘類のような爽やかさと、どこかスパイスを思わせる刺激的な香りが混じり合い、狭い部屋の空気を一気に酒場の片隅のような匂いへと変えていく。
革袋を傾けると、ジョッキの中へと黄金色の液体がとくとくと流れ込んでいった。一瞬だけ、蝋燭の光を受けて宝石のように輝く液体の色が見えたが、それもすぐに白い泡へと覆われていく。なみなみと注ぎ終えるころには、ジョッキの縁にはふわふわとした泡の冠が、立派にかぶせられていた。
ヴェンデッタはジョッキの持ち手をぐっと掴むと、そのまま口元へと運ぶ。
喉の奥へと、一息に流し込んだ。柑橘系の爽やかな香りが鼻孔を支配し、炭酸の刺激とともに喉を焼くように流れ落ちていく。少しでも気を抜けば咽せてしまいそうになるにもかかわらず、彼女はまるで、それを罰のように、あるいは薬のように飲み干していく。
ゴクッ、ゴクッ――。
数度、喉が力強く鳴る音が静かな部屋に響いた。
最後の一滴まで飲み干したあと、彼女は名残惜しそうに唇を離し、ゆっくりとジョッキを丸机の上へと置く。木の天板にあたって、こつん、と軽い音が鳴った。
「……っ、ぷふぅ」
少し息を乱しながら吐き出した頃には、彼女の白い頬はほんのりと桜色に染まり始めていた。
目元には薄く涙が浮かび、その涙が長いまつ毛を包み込むように滲んでいる。まつ毛に宿った水滴が、蝋燭と月光を受けてきらきらと銀色に瞬き、その一つ一つが小さな星のように見えた。
ヴェンデッタは、とろんとした目で窓の外へと視線を滑らせる。
分厚いガラス一枚越しに覗く夜空には、雲が少なく、三日月がくっきりと浮かんでいた。遠く、街の屋根の向こうに見える塔の上にも、同じ光が静かに降り注いでいる。良い夜だ、と誰かが言いそうな、静かで、冷たくて、どこまでも澄んだ夜だった。
軽くふらつきながらも、彼女はベッドの縁へと腰を下ろす。
ぎし、と小さく軋む音とともに、古いベッドが少女の体重を受け止める。布団は厚くはないが、月光が、その代わりに柔らかな布のように彼女の身体を包み込んでくれていた。
蝋燭の炎が、窓から差し込む月の光と溶け合い、彼女の輪郭を曖昧に溶かしていく中で――ヴェンデッタは、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと声を漏らした。
「……やっぱり……私は……一人なんだな」
かすかな声が、木の壁にはね返って消える。
大きな瞳がさらに潤み、まるで波打つ水面のように揺れる。そこから溢れた一滴の銀色の粒が、そっと頬を滑り落ちた。
首筋を伝い、鎖骨のあたりをかすめ、胸元へと流れ、最後には跡だけを残して、肌の上から静かに消えていく。
彼女が上体から力を抜くと、ふわりと布団がその体を優しく受け止めた。
ざらついた布地が素肌に触れ、少しばかり心地悪さを伴うはずなのに、その粗さがかえって現実感を与え、「ここにいていい」と告げてくれているようでもあった。彼女にとっては、それだけで十分すぎるほどの安心感だった。
ヴェンデッタは身体を小さく丸め込み、自分の胸元へと尻尾を巻き付ける。
黄金色のふさふさとした毛並みが、冷えた肌にふわりと触れ、体温を分け合うように温もりを伝えてくる。その姿は、まるで母の腹のそばで眠る子狼のようだった。
やがて、規則正しい寝息が部屋に広がり始める。
月光の下には――身を丸めて眠る子狼のような赤頭巾の少女も、修道院の一室でシスターの肘鉄をくらい、泡を吹いて気絶したままの転移者も、同じように、小さく、儚い存在として照らし出されていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回はヴェンデッタの一人宿回でした。
赤頭巾を外した素顔や、欠けた狼耳、無傷の尻尾、そして「やっぱり私は一人なんだな」という独白で、彼女の孤独や傷の一端を少しだけ覗いていただけたかなと思います。
誠二が知らないところで、どれだけ彼女がボロボロになってきたのか――その答えは、これから少しずつ本編の中で触れていく予定です。
今回登場した耳の欠損や尻尾、酒の好みなども、今後のエピソードで小ネタや過去話として生かしていきます。
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それでは、また次話でお会いできれば嬉しいです。




