第16話:川辺にて、休息。ゴブリンって食べられるの?
戦いの熱と血の匂いが残るまま、川辺で息を整える小さな幕間。
青い麦の風、冷たい清流、ちょっとした手当てと会話――二人の距離が、ほんの一歩だけ近づきます。
靴を脱ぎ、土の上に裸足を置く。まだ背の低い草と細い草花が、冷えかけた足裏をそっと受けとめた。風は、麦畑を渡ってきたばかりの匂いを運んでくる。色づくには早い――まだ青い、緑の麦の匂い。季節は日本でいえば初夏のはじめ、朝晩はまだ少し肌寒い。
誠二は浅瀬へと歩み寄り、指先ですくった水を頬に当てた。冷たさが火照った皮膚を締め、こめかみから首筋へと、熱をほどいていく。顔を洗い終えると、さっきまで赤に霞んでいた世界が、いきなり輪郭を取り戻した。水は驚くほど澄み、磨いた硝子みたいな水面の下を、銀色の影が一筋走るのが見える。
ゴブリンの群れを退けたあと、二人は畑のすぐ外れに流れる小川まで下りてきていた。誠二は鎧を外し、白いシャツに厚手の茶色のズボンだけという簡素な格好だ。返り血がシャツにまで薄く沁みている。
「ぷはー……」
顔をこすって張り付いた血を落とした瞬間、肺の奥までようやく新しい空気が入ってきた。
「初めての戦闘は、どうだったかしら」
とことこと足音。ヴェンデッタが誠二の隣――下流側の平たい岩に腰を下ろす。彼女は外套だけを脱いで腕に抱え、革の胸当ても頭巾もつけたままだ。靴を脱いで、小川へ素足をそっと浸す。頭巾の影からのぞく横顔は、さっきまでの緊張がわずかに解け、柔らかい。
「なんとか、なった……けど、体のあちこちが痛い。腹は……肋骨、いってるかも。息するだけで刺さる。あと頭」
「そりゃそうよ。熟練の狂戦士でも、あんな頭から突っ込む戦い方はしないわ。こう――ゴーン、ゴーンって」
彼女は冗談めかして額を指で小突く仕草をする。その目には、呆れと安堵が半分ずつ宿っていた。
「死にたくない一心で、気づいたら体が勝手に……喧嘩なんてほとんどしたことなかったし。格好悪かったな」
「その怪我、戻ったら神父様に診てもらいなさい。すぐ治してくれるはず」
ヴェンは足先で水を蹴る。宙に散った粒が日の光をつかんで、きらきらと弧を描き、水面に幾重もの輪を広げた。川沿いには人の手が入っているのだろう、草は適度に刈られ、低い木々が影を落としている。遠くでは青い麦の海が風に波打ち、葉裏が裏返る音がさわさわと続いた。
「なあ、ゴブリンの死体。片付け、手伝わなくていいのか?」
「それは御者さんの仕事。私たちの依頼は討伐と護衛まで。周囲にも魔物の気配はないし、もう安全よ」
「それに、その姿で街に戻ったら通報されるわ。まずは血を落とさないと」
そう言って、彼女は岩から軽く跳び下りた。膝のあたりまでしか来ない浅瀬に、水しぶきが花のように咲いては消える。
「変な病気もらっても嫌だしな」
「病気といえば――この川の水、絶対がぶ飲みはダメ。スライムの幼体が紛れてることがあるの。舐めるくらいなら平気だけど、たくさん飲むと、内側から食い破られるわよ」
「マジか……」
誠二の顔色が引き、さっきまでの高揚が嘘みたいに現実が戻る。彼の世界でも川には厄介な生き物の幼体がいる――と、そこまで思い出して、口をつぐんだ。
ヴェンデッタは腕に抱いた赤い外套を水に浸し、返り血を落とそうと布同士をこすり合わせる。鎧についた血は流れで薄まっていくが、布地はそうもいかないらしい。赤い布は、赤い汚れを隠してしまうのも厄介だ。
「ヴェン、その外套、貸してくれないか?」
誠二はズボンの裾を膝までたくし上げ、彼女のそばに寄った。近くの石を何個か持ち上げ、重さと形を確かめては、ぽちゃんと別の場所へ放る。やがて平たい一枚を見つけると、よろけながらも小川の流れの真ん中へ運んだ。
「いたずらしようってわけじゃないよ。やり方を見せるだけ」
手を出すと、ヴェンは少し警戒しつつも外套を渡してくれる。誠二はそれを石の上に広げ、血が染みた面を下流側に向け、反対側――裏から手のひらで押し流すように水に当てた。叩きつけるのではなく、繊維を潰さないように、でも血の膜を押し出す圧はしっかりと。
下流に、ごく薄い赤がふわりと溶けては消える。動きは迷いがなく、手つきは妙に慣れている。
「……慣れてるのね、あなた」
「日本でも白衣をよく手洗いしててさ。強くこすると繊維が毛羽立って、汚れが奥に押し込まれる。だから“裏から外へ押し出す”のがコツ。水の流れも使うんだよ」
ヴェンは膝に手を当て、前のめりになってじっと見ている。やがて数分――流れと圧を使って丁寧に押し出していくと、布にこびりついたざらつきが指先から消えた。元が赤だから完璧には見分けにくいが、布の表情は軽くなっている。
誠二は外套を持ち上げ、重みで滴る水を逃がす。両手で軽くねじって水を絞り、ぱっと払って形を整える。
「これで、だいぶマシになったはず。どうかな?」
「……ありがとう。前より綺麗になったかも」
ヴェンが受け取った瞬間、誠二の腹が、ぐぅ――と間の抜けた音を立てた。
「……悪い」
「当然よ。あれだけ動いたし、血も出たし。馬車まで戻って、昼にしましょう」
「飯……俺、持ってきてない」
「あなたをクエストに誘ったのは私よ。大丈夫、携帯食はまだあるわ」
二人は足を拭いて靴を履き、荷を整える。ヴェンは濡れた外套を腕に抱え、歩みを速めた。空腹は彼女にも来ているらしい。誠二は洗い終えた鎧を胸に抱え、慌てて後を追う。
「あのさ.....変なこと聞いてもいいかな」
「なに?」
「……ゴブリンって、食べられるの?」
ヴェンの足が止まり、そのまま石像みたいに振り返る。目を丸くし、口を半開きにして、眉だけが器用に寄る。
――さわ、さわ、と緑の海を渡る音が、沈黙を余計に強調した。
「ち、違うから! 別に食べたいわけじゃない! ほら、文化の違いってやつに興味があるだけで! 多文化理解!」
「……はぁ。そういう好奇心は嫌いじゃないけど、ゴブリン食の発想に至るのは、ある意味尊敬ね」
ため息をひとつ。呆れ顔のまま、じとっとした視線が刺さる。
「あのね。私たち野蛮なアルカディア人でも、自分に似た姿のものを食べるのは、やっぱり抵抗があるの」
彼女は言い切って、また歩き出した。
「いや、その……俺の世界には“猿”って呼ばれる人に似た生き物を食べる地域もあって――」
「待って、なにそれ、かわいそう!」
今度は勢いよく振り返る。頭巾の奥の瞳が非難がましく光った。
「こっちの世界にも、猿はいるわよ。あんな可愛いの、食べるなんて。あなたの世界、けっこう野蛮ね?」
「……反論できない」
思わず苦笑いが漏れる。異世界の尺度で見れば、地球は案外ワイルドだ――と、妙に納得させられた。
「それならさ、こっちの人達は何を食べてるんだ?」
「お肉なら、基本は四足の獣ね。二足のものはあまり食べない。鳥は……人による。私は食べるけど、宗教で禁じる人も多いから、その分お手頃」
木立の切れ間から、青い麦畑が一面に広がって見えた。畝の先には街へと続く土の道が一本、まっすぐ引かれている。
「干し肉、鳥のやつがあるけど、食べる?」
「食べる食べる! 鳥の干し肉なんて、初めてだ!」
ヴェンは肩をすくめ、わずかに笑う。その横顔は、戦いの後の強張りをとうに手放していた。二人は同じ方向に、同じ歩幅で。青い麦が風に揺れる道を、並んで歩いていった。
お読みいただきありがとうございました。
外套一枚を洗う所作にも、その人の素性がにじむ――そんな回でした。
次は馬車での昼食から街へ帰還、報告と治療へ。束の間のご褒美と、次の面倒の気配。
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