第8話:宣戦布告
ルゥナが泣き止む頃、村の広場に人影が現れた。
毛並みの荒れた大柄な獣族――狼の血を引く男である。背は高く、分厚い毛皮のような衣を纏い、年老いた眼差しには深い疲れと慎重さが宿っていた。
「……お二人、よろしければ、わしの家に来ていただけんか」
その声は低くしわがれ、だがどこか必死さが滲んでいた。
ルゥナを抱きしめていたセリーナは顔を上げ、小さくうなずいた。
「あなたが、この村の……」
「ゴラスじゃ。長などと呼ぶほどの力もないが……一応、皆からそう仰がれておる」
リオネルは警戒の色を隠さずに視線を送った。
だがゴラスの眼差しは誠実で、敵意はない。彼は大きな掌をひらりと見せ、先導するように歩き出した。
◆
ゴラスの家は粗末な石造りの小屋だった。
中には干し肉や保存食が少しと、古びた木の椅子がいくつか。人間の目からすれば質素そのものだが、圧政の魔族の領土ではむしろ贅沢に属するだろう。
「どうぞ、座ってくだされ。……ルゥナもな」
ルゥナはセリーナの膝に寄り添いながら、眠たげに瞬きをしていた。
ゴラスはしばしその姿を見つめ、長い息を吐いた。
「……あの子を抱きしめてくださったこと、礼を申す。あの歳で母を奪われ、怯えておった……わしらには、なにもできなんだ」
セリーナは静かに微笑んだ。
「礼を言われる筋合いはございませんわ。わたくしはただ、すべきことをしただけですもの」
ゴラスの瞳が揺れる。
長年、圧政に押し潰されてきた者にとって、その言葉は眩しすぎる。
彼はやがて口を開いた。
「……火山領は、竜王ドラグノアの支配下にある。だが奴は領土を治める気などなく、ただ己の軍備を誇示するばかりよ。兵を養うために重税を課し、食糧を奪い、抵抗すれば村ごと焼き払う……」
「下級の魔族を兵士に加えることもなく、ただ踏みにじるのですわね」
セリーナが淡々と続ける。
「その通りじゃ。強き竜族だけが栄え、弱き者は食い物にされる……。わしら獣族など、ただの捨て石よ」
リオネルは腕を組んで目を伏せた。
竜族の圧政は知っていたが、ここまで徹底しているとは。
セリーナはその横顔を見やり、あえて言葉を投げかけた。
「リオネル。あなたはどうなさりたいの?」
「……」
短い沈黙ののち、彼は赤い瞳を細める。
「……見て見ぬふりをするのは癪だ」
セリーナは柔らかく笑った。
「ええ。同感ですわ」
◆
その瞬間――外から怒声が響いた。
「徴収だ! 村人ども、全員広場に集まれ!」
ゴラスの耳がぴくりと動く。
「……奴らが来おったか」
広場に出ると、数十の竜族の兵が鎧を鳴らして並んでいた。
鱗に覆われた腕、火花を散らす吐息。威圧そのものの存在感だ。
その先頭に立つのは、角を二本持つ若い竜族の男だった。
「本日は定められた納付日だ。食糧と財を差し出せ。抵抗すれば――村ごと焼く」
その言葉に、村人たちは青ざめ、肩を寄せ合った。
誰も逆らえない。
いつも通りなら、泣きながら差し出すしかない。
だが今夜は違った。
セリーナがすっと前に出たのだ。
「もう結構ですわ」
澄んだ声が広場に響いた。
竜族の兵たちが一斉に彼女へ目を向ける。
その後ろで、リオネルが無言で剣に手をかけた。
「人間だと?」
先頭の兵が嗤う。
「こんな辺境に、なぜ……?」
セリーナは一歩、また一歩と進み出る。
その姿に村人たちが息を呑んだ。
彼女は優雅に顎を上げ、指先を軽く鳴らした。
「挨拶代わりにこれはどうかしら? ……《エクスプロージオ》」
瞬間、光が炸裂し、兵士たちの視界を焼いた。
大地に亀裂が走り、熱風が吹き荒れる。
竜族の鱗すらも灼かれるほどの魔力の奔流に、兵たちは思わず後退った。
「なっ……この女……!」
リオネルも同時に動いた。
剣が閃き、あっという間に三人の武器を叩き落とす。
彼の動きは鋭く速い。赤い瞳が敵を捕らえ、褐色の腕が残像を残す。
広場は一瞬で戦慄に包まれた。
圧倒され、兵たちの士気が削がれていく。
そこに間髪入れず、静かに、しかし刺すような声でセリーナは続けた。
「……伝えなさい」
竜の兵士達の身体がビクリと反応する。
「セリーナ・フォン・アルトシュタインの名において、竜王ドラグノアへ――わたくしが宣戦布告したと」
その言葉に、兵士たちは凍りついた。
人間の娘が、魔王の後継者と並び立ち、竜王へ挑むと宣言する。
それは狂気にも似た暴挙であるはずなのに……その声には揺るぎない確信があった。
「……ひ、引けっ!」
隊長が叫ぶ。
兵たちは互いに顔を見合わせ、悔しげに唸りながらも撤退していった。
沈黙が広場を包む。
やがて、村人たちの中から小さな声が漏れた。
「……助かった……」
「本当に、追い返したのか……?」
セリーナは振り返り、微笑んだ。
「ええ。もう、泣いて差し出す必要はありませんわ」
その横でリオネルは剣を収め、低く吐き出す。
「これで後戻りはできなくなったな」
「元より、そのつもりですわ」
セリーナの微笑みは揺るがなかった。
――この瞬間、彼女は竜王ドラグノアに正面から挑むことを選んだのだ。
弱き魔族のために。ルゥナの笑顔のために。
そして、己が「悪徳令嬢」としての鎖を断ち切るために。