第6話:火山地帯
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セリーナ・フォン・アルトシュタイン――その名は、王都の貴族社会において最も忌まわしい響きを持っていた。
「悪徳令嬢」
人々はそう口にするたび、憎悪と嘲笑を込めて唇を歪めた。
舞踏会では平民上がりの若者を嘲笑し、慈善事業の場では「汚らわしい」と寄付を突っぱね、父の権威を笠に着て弱き者を踏みにじる。
氷の瞳と整った笑みは、社交界の者たちにとって「傲慢の象徴」であり、彼女の存在そのものが「悪女」の仮面であった。
――だが、それは真実ではない。
彼女が背負わされていたのは「役」だったのだ。
「セリーナ、お前の務めは家の利益を守ることだ。あの青年を笑いものにしろ。縁談を潰すにはそれが一番だ」
「慈善団体? くだらん。寄付を拒んでこい。アルトシュタイン家は弱者に施しを与えぬと知らしめろ」
父は常に冷ややかに告げ、セリーナは頷くしかなかった。
なぜ逆らえないのか――その理由を彼女自身も知らない。
ただ、父の言葉は耳に触れた瞬間、心臓を鷲掴みにし、喉を凍らせる。
抗えば命を削るかのような圧。目に見えぬ鎖に心を縛られていた。
だからこそ、彼女は命じられるまま「悪女」を演じ続けた。
舞踏会の後ろ指、陰で囁かれる悪評、潰れてゆく婚約の話――それらを浴びるたび、胸の奥で静かに血が滲んだ。
孤独は影のように寄り添い、夜ごと彼女を包み込んだ。
それでも、影に沈むだけでは終わらなかった。
セリーナには、異様なほど濃い魔力が宿っていた。
夜更け、書庫に忍び込み、禁じられた魔術書をめくる。独学で術式を学び、指先で光を弾かせ、失敗しては燭台を吹き飛ばしながら、ただひたすらに研鑽を重ねた。
父に疎まれ、恐れられる力――だからこそ、彼女は密かに磨き上げ続けたのだ。
そして年月が流れたある日。
父は冷淡な声で告げた。
「今日よりお前はアルトシュタインの名を捨てろ」
それは命令でも叱責でもない。ただの“通告”。
彼女は荷をまとめる暇もなく、魔族領の辺境へと追放された。
人々は快哉を叫んだ。
「当然だ」「自業自得だ」「あの女の末路にふさわしい」と。
だが――セリーナが抱いたのは恐怖でも絶望でもなかった。
――解放。
父の鎖から外れた瞬間、胸に満ちたのは、誰にも触れられぬ自由の感覚だった。
追放は、終わりではない。始まりだ。
自らの力を、自らの意志で使える。人を救うために、振るえる。
夜空を仰ぎ、彼女は唇にかすかな笑みを刻んだ。
「……追放されて、本当に良かったですわ」
その一言に、彼女のすべての想いが凝縮されていた。
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◆ 火口にて
硫黄の匂いが重く肺を突き刺す。
赤黒くひび割れた大地、火口から絶え間なく吹き上がる煙、地の奥底から響く鈍い地鳴り。
ここは竜王ドラグノアの領する火山帯――まさに灼熱の地獄。
「まぁ……なんて荒々しい土地でしょう」
セリーナは涼しげに扇子を口元へあてた。
焼けただれた岩肌に映る光を眺め、楽しむように声を漏らす。
「とても人間が暮らせる環境ではございませんわね。ここに住まう魔族の方々は、さぞ逞しいことでしょう」
隣を歩くリオネルの赤い瞳が鋭く細められる。
その視線には、冷ややかさと共に――彼女への理解不能な興味が混じっていた。
「……やはりお前は常軌を逸している」
「あら、それは褒め言葉として受け取りますわ」
ぱちん、と指を鳴らす。
光が弾け、岩壁を照らす。赤く流れる溶岩の筋が鮮明に浮かび上がり、炎熱の空気を切り裂いた。
「わたくし、ただの令嬢ではございませんもの」
その声音に、リオネルは足を止めた。
半歩振り返り、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「……もう一度聞くが、恐ろしくはないのか」
火口の赤に照らされた横顔は、魔族の異形の美を湛えていた。
強さと孤独を宿す瞳に、息を呑むほどの熱を秘めて。
セリーナは一瞬だけ胸の奥がざわめいたが、すぐに笑みを浮かべた。
「恐ろしいに決まっていますわ。でも……退屈よりはずっと良いですもの」
リオネルは短く息を吐き、再び歩みを進める。
「……理解できん」
その声は硬い。だが、不器用に感情を隠そうとする青年の吐息でもあった。
◆
岩陰で休息をとる二人。
リオネルが串に刺した魔物の肉を火にかざし、黙って差し出した。
「……食うか?」
焦げついた表面から血の匂いが立ちのぼる。人間なら顔をしかめる代物。
しかしセリーナは躊躇なく受け取り、ぱくりと口へ運んだ。
「ん……悪くありませんわね。歯応えがあって、香辛料があればご馳走に化けますわ」
楽しげに咀嚼する横顔に、リオネルは思わず眉をひそめる。
さらに彼女は周囲を見渡し、赤黒い実を摘んで口に含んだ。
「こちらは甘酸っぱくて爽やか。昨日のものより美味しいですわけ」
「……相変わらずだな」
リオネルの声が低く漏れる。
赤い瞳が、じっと彼女の横顔を覗き込む。
セリーナは小首を傾げ、扇子の陰でくすりと笑った。
「食事は環境に合わせて楽しむものですわ。嫌な顔ばかりしていては、生き延びられませんでしょう?」
その、ふいに溢れた柔らかな声に、リオネルの胸に得体の知れぬ熱が宿る。
それは火山に渦巻く炎のように、じわじわと心を焦がした。
――こうして二人は、竜王ドラグノアの支配する火山領へと足を踏み入れた。
圧政と炎の支配が待ち受けるその地で、セリーナの瞳はなお恐れを知らぬ光を帯びていた。




