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第6話:火山地帯

 

 ◇◆◇


 セリーナ・フォン・アルトシュタイン――その名は、王都の貴族社会において最も忌まわしい響きを持っていた。


「悪徳令嬢」


 人々はそう口にするたび、憎悪と嘲笑を込めて唇を歪めた。


 舞踏会では平民上がりの若者を嘲笑し、慈善事業の場では「汚らわしい」と寄付を突っぱね、父の権威を笠に着て弱き者を踏みにじる。

 氷の瞳と整った笑みは、社交界の者たちにとって「傲慢の象徴」であり、彼女の存在そのものが「悪女」の仮面であった。


 ――だが、それは真実ではない。


 彼女が背負わされていたのは「役」だったのだ。


「セリーナ、お前の務めは家の利益を守ることだ。あの青年を笑いものにしろ。縁談を潰すにはそれが一番だ」

「慈善団体? くだらん。寄付を拒んでこい。アルトシュタイン家は弱者に施しを与えぬと知らしめろ」


 父は常に冷ややかに告げ、セリーナは頷くしかなかった。

 なぜ逆らえないのか――その理由を彼女自身も知らない。

 ただ、父の言葉は耳に触れた瞬間、心臓を鷲掴みにし、喉を凍らせる。

 抗えば命を削るかのような圧。目に見えぬ鎖に心を縛られていた。


 だからこそ、彼女は命じられるまま「悪女」を演じ続けた。


 舞踏会の後ろ指、陰で囁かれる悪評、潰れてゆく婚約の話――それらを浴びるたび、胸の奥で静かに血が滲んだ。

 孤独は影のように寄り添い、夜ごと彼女を包み込んだ。


 それでも、影に沈むだけでは終わらなかった。


 セリーナには、異様なほど濃い魔力が宿っていた。

 夜更け、書庫に忍び込み、禁じられた魔術書をめくる。独学で術式を学び、指先で光を弾かせ、失敗しては燭台を吹き飛ばしながら、ただひたすらに研鑽を重ねた。

 父に疎まれ、恐れられる力――だからこそ、彼女は密かに磨き上げ続けたのだ。


 そして年月が流れたある日。

 父は冷淡な声で告げた。


「今日よりお前はアルトシュタインの名を捨てろ」


 それは命令でも叱責でもない。ただの“通告”。

 彼女は荷をまとめる暇もなく、魔族領の辺境へと追放された。


 人々は快哉を叫んだ。

「当然だ」「自業自得だ」「あの女の末路にふさわしい」と。


 だが――セリーナが抱いたのは恐怖でも絶望でもなかった。


 ――解放。


 父の鎖から外れた瞬間、胸に満ちたのは、誰にも触れられぬ自由の感覚だった。

 追放は、終わりではない。始まりだ。

 自らの力を、自らの意志で使える。人を救うために、振るえる。


 夜空を仰ぎ、彼女は唇にかすかな笑みを刻んだ。


「……追放されて、本当に良かったですわ」


 その一言に、彼女のすべての想いが凝縮されていた。


 ⸻


 ◆ 火口にて


 硫黄の匂いが重く肺を突き刺す。

 赤黒くひび割れた大地、火口から絶え間なく吹き上がる煙、地の奥底から響く鈍い地鳴り。

 ここは竜王ドラグノアの領する火山帯――まさに灼熱の地獄。


「まぁ……なんて荒々しい土地でしょう」


 セリーナは涼しげに扇子を口元へあてた。

 焼けただれた岩肌に映る光を眺め、楽しむように声を漏らす。


「とても人間が暮らせる環境ではございませんわね。ここに住まう魔族の方々は、さぞ逞しいことでしょう」


 隣を歩くリオネルの赤い瞳が鋭く細められる。

 その視線には、冷ややかさと共に――彼女への理解不能な興味が混じっていた。


「……やはりお前は常軌を逸している」


「あら、それは褒め言葉として受け取りますわ」


 ぱちん、と指を鳴らす。

 光が弾け、岩壁を照らす。赤く流れる溶岩の筋が鮮明に浮かび上がり、炎熱の空気を切り裂いた。


「わたくし、ただの令嬢ではございませんもの」


 その声音に、リオネルは足を止めた。

 半歩振り返り、真っ直ぐに彼女を見つめる。


「……もう一度聞くが、恐ろしくはないのか」


 火口の赤に照らされた横顔は、魔族の異形の美を湛えていた。

 強さと孤独を宿す瞳に、息を呑むほどの熱を秘めて。


 セリーナは一瞬だけ胸の奥がざわめいたが、すぐに笑みを浮かべた。


「恐ろしいに決まっていますわ。でも……退屈よりはずっと良いですもの」


 リオネルは短く息を吐き、再び歩みを進める。


「……理解できん」


 その声は硬い。だが、不器用に感情を隠そうとする青年の吐息でもあった。


 ◆


 岩陰で休息をとる二人。

 リオネルが串に刺した魔物の肉を火にかざし、黙って差し出した。


「……食うか?」


 焦げついた表面から血の匂いが立ちのぼる。人間なら顔をしかめる代物。

 しかしセリーナは躊躇なく受け取り、ぱくりと口へ運んだ。


「ん……悪くありませんわね。歯応えがあって、香辛料があればご馳走に化けますわ」


 楽しげに咀嚼する横顔に、リオネルは思わず眉をひそめる。


 さらに彼女は周囲を見渡し、赤黒い実を摘んで口に含んだ。


「こちらは甘酸っぱくて爽やか。昨日のものより美味しいですわけ」


「……相変わらずだな」


 リオネルの声が低く漏れる。

 赤い瞳が、じっと彼女の横顔を覗き込む。


 セリーナは小首を傾げ、扇子の陰でくすりと笑った。


「食事は環境に合わせて楽しむものですわ。嫌な顔ばかりしていては、生き延びられませんでしょう?」


 その、ふいに溢れた柔らかな声に、リオネルの胸に得体の知れぬ熱が宿る。

 それは火山に渦巻く炎のように、じわじわと心を焦がした。


 ――こうして二人は、竜王ドラグノアの支配する火山領へと足を踏み入れた。

 圧政と炎の支配が待ち受けるその地で、セリーナの瞳はなお恐れを知らぬ光を帯びていた。

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