第3話:廃墟の王城にて
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森を抜けた瞬間、セリーナの視界に広がったのは、黒々とした巨大な建造物だった。
折れた尖塔、苔むした石壁、瓦礫の山――無惨に荒れ果てているのに、なお「かつての威光」を確かに物語っている。
「まあ……これはお城の跡地でしょうか?」
セリーナはゆっくりと息を吸い込み、瘴気と魔力が入り混じる重苦しい空気を愉しむように味わった。普通の令嬢なら卒倒しかねない状況だが、彼女の瞳にはむしろ探求心の光が宿っていた。
「ふふ、しっかり荒れてますわ。ちょうど新しいお家が欲しかったところ。少し手を入れれば、住めなくもないかも……」
重い扉を押し開け、瓦解した広間に足を踏み入れた、その瞬間――。
――ギィ。
背後で扉が軋み、直後に空気が裂ける。
大剣による一閃。
セリーナは反射的に結界を展開し、衝撃を受け止めた。火花が散り、石床が粉々に砕け散る。
「っ……ちょっと! いきなり何ですの!?」
返事はなく、二撃目が迫る。
セリーナは光の粒子の中に、相手の姿を見据えた。
黒い世界に映える銀の髪、血のような赤い瞳。額には小さな角、褐色の肌に纏う力強い気配。人の姿をしながらも、人ではない。
大剣を構えた青年の眼差しには、獣のような敵意と、深い警戒が込められていた。
「まさか、人間か……?」
低く搾り出された声。
「ええそうですとも。どこをどう見ても、美しい人間でしょう?」
セリーナが微笑んで返すと、赤い瞳がさらに険しさを増した。
「……よく喋る雌だ。ならば尚更、ここに立つ資格はない」
「随分と手荒な歓迎ですわね。なるほど……いわゆる半魔族、ですか」
彼女は右手をかざし、声を響かせた。
「ルクス・プロージオ!」
白光が弾け、爆風となって広間を飲み込む。瓦礫が舞い上がるが、青年は怯まず、煙を裂いて再び突進してきた。
「魔術に長けた人間……やはり殺すべきだ」
斬り下ろし、薙ぎ払い、突き――その剣筋は鋭く、無駄がない。殺意に濁りがないのは、ただ「人間だから」という理由で敵と断じているからだ。
「ちょっと、話くらい聞いても良いじゃありませんの!」
セリーナは爆風で剣圧を弾き返し、タイミングを見て左手を掲げた。
「仕方ありませんわねーーーールクス・バインド!」
金色の鎖が空中に顕現し、青年の四肢を絡め取る。眩い光が軋む音を立て、筋肉のような力強さを押さえ込んだ。
「……っ!?」
リオネルの赤い瞳が憤怒に染まる。
「離せ……!」
「ふふ、いい加減にしてくださいませ。猪突猛進で手当たり次第に斬りかかるなんて、お行儀が悪いですわよ?」
セリーナは余裕の笑みを浮かべ、首を傾げる。
「あなた、普通の魔物とは違う……そうでしょう? わざわざ人の形をして、大剣なんて握って。……何者?」
リオネルは沈黙した。だが、その眼差しはなお疑念と敵意に満ちている。
長い間を置き、低く絞り出すように名乗った。
「……俺はリオネル。この地を支配していた……魔王の息子だ」
「まあ! 魔王のご子息ですのね!」
セリーナはぱっと笑顔を広げ、驚きと興味を隠さずに告げた。
一方で、リオネルはなお剣を握り締め、警戒を解こうとしない。
「……人間は嘘を吐く。甘言を弄して背を刺す。俺はそれを幾度も見てきた。お前も同じだろう」
吐き捨てるような言葉。その声音には、過去に裏切られた痛みと不信が刻まれていた。
セリーナは目を細めた。挑発を返すこともできたが、代わりに一歩近づき、声を柔らかくした。
「……なるほど。あなたは人間に傷つけられた事があるのね。だからこそ、わたくしを斬ろうとする」
リオネルの赤い瞳が一瞬揺らぐ。
「でもね、わたくしは違いますわ。嘘を吐くのは退屈な遊び。わたくしはただ――面白いことがしたいだけ」
にっこりと笑い、セリーナは魔力を解いた。
「っ……」
拘束から解放されても、リオネルはすぐに剣を構えなかった。ただ、赤い瞳の奥にかすかな困惑を灯したまま。
「支配していた……と言いましたわね。今はもう、違うのですか?」
問いかけに、リオネルは僅かに顔を伏せた。
「……父上は死んだ。その瞬間から魔族の秩序は瓦解した。強い力を持つ魔物達の長ーーーー四天王どもは己の欲のために争い、弱き者が虐げられている。……だが俺には、それを止める力がない」
その言葉には怒りも嘆きも混じっていたが、一番強いのは無力感だった。
セリーナは小さく息をつき、微笑みを深める。
「ふうん……つまり、魔王亡き今、この魔界という船の舵を握る者が誰もいないのね。だったら――わたくしに任せてみませんこと?」
「……人間が?」
リオネルの瞳に再び険しさが宿る。
「そう、人間が。……でもわたくしはただの人間じゃありませんわ。あなたの剣を受け止めたでしょ? 『弱き人間』なら、とっくにここで死んでます」
赤い瞳がわずかに揺れた。セリーナはそれを見逃さず、さらに言葉を畳みかける。
「あなたの父上が築いた矜持が踏みにじられていく。それを黙って見ているなんて……あなたの心は痛んでいるはず。違うかしら?」
「……っ」
リオネルの喉がわずかに鳴る。強い警戒の奥に、抑え込んできた葛藤が見え隠れしていた。
セリーナは一歩前に出て、明るく笑った。
「ならば、わたくしがこの荒れた庭を掃除しますわ。埃を払って、玉座を整える。あなたはそこに座ればいい。それでどう?」
リオネルは長い沈黙ののち、ようやく剣を下ろした。
「本気で言っているのか?」
「冗談は大好きですけれど、嘘は嫌いですわ」
「……好きにしろ。ただし――虚勢なら、一日も生き残れんぞ」
「ふふ、それなら素敵なお婆様になるまで楽勝ですわね」
セリーナは楽しげに言い放つ。
リオネルは背を向け、なお鋭い警戒を背中に滲ませながら歩き出した。
セリーナは軽やかにその背を追い、微笑む。
――こうして、追放令嬢と半魔の王子の奇妙な同行が始まった。
廃墟に差し込む光は、敵意と不信の中に芽生えた小さな興味を照らし出していた。