森の異変
――まずい、ちょっと予想より“でかい”。
森を震わせる地響きが、男の背中を押してくる。
飛び散る泥、裂ける木々、そして迫る咆哮。
「標準サイズだって話じゃなかったかい……? あれ、どう見ても家一軒分はあるぞ」
振り返ると、見上げる程の巨躯が森を薙ぎ倒しながらこちらへ迫っていた。
肌は灰色に光り、両腕の腱には魔力の亀裂が走っている。
そして――目が赤く、焦点を持たない。
「おかしいな、あれはただの獣の目じゃないぞぉ……っ」
男は走りながら杖を振り上げた。
「ルクス!」
光の魔方陣が彼の足元に広がる。
次の瞬間、強烈な閃光が炸裂し、トロールが短く吠えた。
目をくらませた……かに思えたが。
「無効化されてない……? いや、早すぎる」
トロールは、閃光を一瞬だけ嫌がったそぶりを見せた後、即座に突進に転じた。
巨腕が振るわれ、雷鳴のような衝撃が周囲に響く。
男のすぐ横、地面が爆ぜた。
次の瞬間――
「下がれ、セリオ!」
鋼の音が森に響いた。
甲冑を着込んだ女が滑り込み、盾を掲げ、トロールの巨腕を受け止める。
トロールの腕と女の盾がぶつかり、火花が散る。
「ぐっ……っ」
巨体の一撃に、女は後ろへ数歩弾かれた。
それでも崩れない。地面にブーツが深く食い込み、倒れずに受け止めきった。
「さすが、騎士様。だが、無理は禁物だぜ」
男、セリオはひゅうと口笛を鳴らし、素早く詠唱する。
「《Ignis Lance》炎の槍よ!」
彼の周囲に三つの火の槍が現れ、トロールの頭部目掛けて飛ぶ。
飛んできた炎槍をトロールが頭を守るために腕を払った瞬間、炎が爆ぜ、視界いっぱいに炎が飛び散った。
トロールの足が一瞬だけ止まり、叫び声が上がる。
「今のうちに!」
「了解」
ふたりは息を合わせ、左右に分かれて森の奥へ飛び込んだ。
エレノアは盾を背に戻し、疾走に移る。
セリオも杖を小脇に抱え、低木を跳ね越えて進んだ。
「あと十秒、稼げば撒ける……って、撒けるんだろうな?」
「保証はしない。でも、走るしかない」
「……まったく、騎士団時代と変わらないなあ、君は」
地面の傾斜が変わった。森が開ける。
目の前に、逃走経路の要――大きな崖下の谷が見えてきた。
森が開けた。目の前には大きな崖。
高さはおよそ50メートル以上――人なら飛び降りて済む高さではないし、トロールにとっても躊躇する段差。
「よし、あそこから一気に――」
セリオが言いかけた瞬間、背後で轟音。
トロールが薙ぎ払った木が倒れ、すぐ近くに叩きつけられた。
「っぶな……っ!」
「セリオ、飛べるか?」
「言われなくても!」
彼は走りながら、腰の革袋から丸い金属玉をひとつ取り出す。
それを指で弾いて崖下に投げる。
「《Ventus》風よ!」
金属玉が淡く光り、崖下に渦巻くような風を生む。
セリオは軽く足を蹴って飛び、ふわりと風に乗るように崖下へ飛び降りる。
「エレノア!」
彼女は無言で助走し、大盾を背負ったまま跳躍した。
風が彼女の足元をすくい、鎧の重量を巧みに吸収して着地を助ける。
「うん、重いな君。想像以上に」
「殴るわよ」
「……はい、逃げよう」
ふたりは谷を駆け抜け、湿った岩場を縫うように走る。
森の中より足場は悪いが、後ろから来る巨体には不利な地形だった。
それでも、トロールは崖の縁に現れた。
巨体を振るわせながら、迷うようにこちらを見下ろしている。
「さて、どうするか」
「来るなら、来ればいいのにね」
そう言いながら、セリオは手のひらで新たな魔法陣を描く。
「最後にひとつ、置き土産だ。《Ignis nebula explodere》炎の霧よ爆ぜろ!」
彼が詠唱を終えると、崖の縁に淡い霧が立ち込めた。
トロールがその中に鼻先を突っ込んだ瞬間――
爆ぜた。
静かに、だが鋭く。
霧の中から閃光が走り、空気が震える。
トロールは一歩、二歩と後ずさり、怒声を上げると森の奥へ引いていった。
「ふう……効くには効いたか」
「派手な割に殺傷力はないのね」
「逃げの魔法だからね。君みたいに『一撃必殺』じゃないのさ」
ようやく立ち止まることができた二人は、小さな岩陰に身を隠した。
森の騒音は少しずつ遠ざかり、代わりに虫の声と風の音が戻ってくる。
「今日はここで休憩だな」
束の間の休憩をした後、二人は野営できる場所を見つけ、腰を下ろした。
崖下から見える僅かな空の色が、日暮れを告げていた。
セリオはポッケから煙草を一つ取り出すと、静かに火をつけ、深く息を吸った。
「ふぅー、ありゃどう見ても、普通のトロールじゃなかったな」
「魔力の流れが歪んでた。あれは“誰かに作られた”存在よ」
「やっぱり、そう思う?」
「ええ。普通のトロールなら、あんな戦い方はしない」
沈黙が落ちる。
その重さに、セリオは煙草を一吸いすると小さく息をついた。
「さて、エレノア。どうする?」
「どうするもなにも、あなたまた首を突っ込むつもりなんでしょう?」
「え? 君だって、どうせ放っておけないって顔してるじゃないか」
「……否定はしない」
「じゃあ、決まりだ。次の旅の目的にしよう。また、気ままにね」
夜風が吹き抜ける谷をあとに、ふたりの影がまた森の縁へと伸びていく。
誰にも名を告げず、誰の勲章にもならない、“ふたりだけの旅”が始まった。