機械の心、記憶の匂い
ドアが開いた音がした。
低い、重厚な音。まるで空気そのものが押しのけられるような圧力。エリオットは反射的に顔を向けた。
光が差し込んできた。白く、刺すような蛍光灯の光。黒一色だった世界に、輪郭が現れる。
彼はようやく、自分がどこにいるのかを知った。
壁は無機質な灰色で、継ぎ目すらない金属で覆われていた。四方は閉ざされ、天井は高く、まるで巨大な実験室のようだった。
室内には、金属製のベッド、点滴のような装置、そして床に張り巡らされた配線。どれも無感情な機械たちだった。
「起きたか。」
再び声がしたが、今度はヴァレンのものではない。
女性の声。乾いているが、どこか懐かしさを含んでいる。
入ってきたのは、鋭い目をした一人の女性だった。長い黒髪を後ろで結び、軍服の上から防護ベストを纏っている。背筋を真っ直ぐに伸ばし、迷いのない足取りで近づいてくる。
目が合った。
その瞬間、エリオットの胸が微かに疼いた。
「……誰だ?」
問いかけに、彼女は立ち止まり、わずかに目を細めた。
「リリー・ドレイク。名前ぐらい、思い出せない?」
エリオットは言葉を失った。
リリー――その名前は、確かにどこかで聞いたことがある。脳の奥に沈んだ記憶の水面が、わずかに波立つ。
「私たち、子供の頃に一緒に訓練を受けてた。あなたが笑えた頃の話よ。」
その言葉に、心の奥底で何かが弾けた。
だが、それは曖昧で、掴みきれない。
「……覚えていない。」
リリーは肩をすくめた。「まあ、そうでしょうね。あんな手術を受けて、まともに記憶が残るわけがない。」
「手術……?」
「ええ。“グール化処理”。あなたも、私も。」
その言葉に、エリオットの喉が渇いた。
同じ――彼女も、同じ存在だというのか?
「私たちは、“未完の兵士”。戦うために組み立て直された肉体。人間としての価値なんて、もうどこにもない。」
言い切る声には、感情がなかった。あるいは、感情を殺す訓練を積みすぎた声だった。
「でも、あんたは特別みたいね。」
リリーは、エリオットを見下ろしながら言った。「ヴァレンが直々に起こしに来たグールなんて、そうそういない。」
「……なぜ俺が?」
「知らない。でも、一つだけ言える。あなたは“選ばれた”。戦場に戻るのが早い分だけ、壊れるのも早い。」
沈黙が落ちた。
リリーは視線を逸らし、小さく溜息を吐いた。「……あんたが目覚めてくれて、本当に良かったと思ってる。昔のあなたを、少しでも思い出してくれたら、もっと良かったけど。」
エリオットは言葉を返せなかった。
“昔の自分”――その存在が、まだどこかに残っているのか?
「訓練棟で待ってるわ。身体を慣らさないと、次の出撃で即死よ。」
リリーがドアに向かって歩き出す。だが、その背中はほんの一瞬、揺れて見えた。
その揺らぎが、彼女の中の“人間”を示している気がした。
ドアが閉まり、再び音が響く。
エリオットは、ゆっくりと手を握った。
冷たく、硬い。だが、その指の奥に、確かに血が流れているような錯覚があった。
“本当に俺は死んだのか?”
そう問いかける声が、胸の奥でささやいた。
ヴァレンの言う通り、過去に意味はないのかもしれない。
でも――今この胸に残る痛みが、ただの機械の誤作動とは思えなかった。