小夜中の月
空の二つの月が明々と地上を照らすある夜。
僕は医師として、この国に従軍していた。
我が国とこの国は祖先を同じくする民だった。だが王族の失策が続くこの国が、目眩しか切羽詰まったのか我が国に戦争を仕掛けてきた。圧勝した我が国はこの国を属州にすることになったが、その正当性を訴えるためにも、この国で甘い汁を吸っていた連中や黒い噂のある貴族たちを討伐しているのだ。今夜も、とある大物貴族の捕縛だ。怪我や病気を負っている者がいる可能性が高かったため、医者の同行が必要とのことだった。
「あたし、何にも知らないんです!侍女長様はいつも、奥様とお子様は二階の奥の部屋にいるって……」
「捕えろ」
捕縛チームの団長は壮年の軍人だ。彼らは下働きの女と思われる使用人をあっという間に捕えて黙らせた。
部屋を一つ一つ開けて探していく。誰もいない。こんなに誰もいないとは、捕縛計画が伝わっていたのか?
だが、僕たちが、ことさら広い二階の奥の部屋に踏み入ると、そこにはベッドに横たえられた女性に覆い被さるような使用人風の男と、女性に縋りついていて殴られ、吹き飛ばされていた子供の姿があった。
「おい!」
団長が叫ぶ。女性にのしかかろうとしていた男は、たちまちのうちに切り捨てられた。混乱に紛れて使用人が奥方に乱暴でも働こうとでもしていたのか。女性は意識が無いようだ。皆が女性に近付こうとしたその時。
「かあちゃんにさわるな!」
子供が叫んだ。
「かあちゃん……?」
軍人の一人が唖然と呟いた。僕も、驚きすぎて声も出ない。
何故なら、本当にこの屋敷の子息なり令嬢なら、この館の奥方である母親をそんな風に呼ぶはずがないからだ。せめて「母様」とか「母上」と呼ぶだろう。
「かあちゃんに触るなって言ってんだろ!早くおいらたちを家にかえせ!」
「……君。この屋敷の子供ではないのか?」
団長が聞いた。聞いたというより尋問しているようだったが。
「かあちゃんとおいら、あのおじさんたちに無理矢理連れてこられたんだ!かあちゃんは病気なのに!」
「……本当でしょうか、嘘なのでは?」
兵士の一人が呟いた。団長はかぶりを振った。
「本当にこの屋敷の子供ならば、あんな言動はあり得ない。その女性だって、貴族の奥方とはとても思えないしな」
団長は、女性の短い髪や、ひどく痩せこけた顔、粗末な服に包まれた姿を見下ろした。そして僕を振り返ると「手当してやってくれないか」と声をかけた。僕は頷いて子供に近寄った。
「坊や。僕は医者だよ。お母さんの手当てをしたいんだ。お母さんに触れてもいいかい?」
「ダメだ!またかあちゃんにヒドいことするんだろ!
「……ヒドいこと?」
「病気のかあちゃんを……、嫌だって言ってるのに殴ってここに連れてきて、ずっと目をつけてたんだって……!おいらにも女の子の服を着せようとしたりして!でも暴れたら、かあちゃんを殺すって!!」
「……そうか。もう大丈夫だよ。僕たちは君たちを助けに来たんだ。お母さんは、いつから目を覚まさないのかい?」
僕が聞くと、子供はみるみる泣き顔になり、「殴られてからずっと……」と呟いた。
僕は女性の手を取って脈を見る。弱々しい。女性の頭を覆っていた布をそっと外すと、こめかみに赤黒い殴られた痕がくっきりと現れた。どうやら、頭を打っている。元々病気で衰弱していたらしいし、このまま意識が戻らなけば、おそらく……。
僕はため息をついて立ち上がった。
「このままできるだけ動かさず、目覚めるのを待つしかなさそうです」
僕の言葉に団長が頷き、子供がわっと泣き出した。
「君も、殴られたんだろう?見せてごらん?どこが痛いんだい?」
子供はしゃくりあげながら僕を見上げ、「肩……」と呟いた。ボロボロの上着を取らせてみると、下着もただのボロ布同然で、ようやくぶら下がっている状態だ。子供は肩の打撲だけでなく上腕にも人の手形がはっきりついており、こんなにも強く掴まれたのかと哀れに思った。
「この屋敷の奥方はどこだ」
団長が兵士に尋ねた。
「見つかりません。あるいは本当にその女性と子供が?」
「こんな様子の親子がか?贅沢三昧していると噂なのに?そんなわけはあるまい。村からでも攫ってきて、身代わりに仕立てるつもりだったのだろう。夫人らがどこから逃げたか調べろ」
団長の言葉に、兵士たちが一斉に部屋の中を探り始めた。
それにしても、ここは贅を凝らした割にはどこか悪趣味な部屋だ。この屋敷の主人は元々はこの国の第五王子だったが、素行が悪くて王族の資格を剥奪されたと聞く。それならそれで追放後もしっかり監視するべきが、王族は厄介者を金だけ与えて放置したらしい。元王子の奥方も屋敷にいて贅を尽くしていたという調査結果のため、彼女の捕縛作戦が行われた訳だが、この状況を見ると身代わりを仕立てて逃げたようだ。
国王と王太子の一族は処刑済み、第二王子は逃亡を企てたところを処刑、第三、第四王子はこの度の戦役で戦死、この家の主人たる元第五王子もすでに処刑されている。主だった有力者は軒並み捕縛か処刑、もしくは戦死しているし、有力者を匿えば処刑だ。子連れで逃げたところで行き場はないというのに。
ところで誘拐されてきてしまったこの子は、この先どうなるのだろうか?できるだけ手当てをしてやると、僕は子供と向き合った。
「君、お父さんは?」
「とうちゃんは木こりで、森に行って帰ってこなくなっちゃった。周りはみんな、もうあきらめなって言ったけど、かあちゃんは、とうちゃんを待つって聞かなくてさ。そいで病気になっちゃうし、おいらが町でパン屋のおばちゃんの手伝いをしてたんだ」
「そうか……」
僕はため息をついた。この子にしてやれることは、あまりなさそうだった。僕は懐から数枚、この国の貨幣を取り出すと子供に握らせた。
「もしお母さんが目を覚ましたら、何か食べさせてあげなさい。お母さんには栄養が必要だ」
「あ、ありがとう……」
戸惑いながらも受け取る子供に、母親の葬式代にならなければいいが、とふと浮かび、慌てて心の奥にしまい込んだ。
兵士らが見つけ出した屋敷の様子は、凄惨を極めたとしか表現できなかった。元王子は度々、若い女性を攫っては暴行していたらしく、地下牢のような場所がいくつもあり遺体も見つかったのだ。生存者はいなかった。
あまりの光景に、遺体の検分を終えると疲労が重く僕を押しつぶした。
「あの野郎、もっと苦しませてから処刑されればよかったのに」
こんなことをしでかした元第五王子のことだろう。普段は冷静な団長が拳を握りしめながら吐き捨てた。日夜戦場を駆け巡る団長にでさえ、あの光景は悲惨だと思ったらしい。僕は力なく頷いた。
目を閉じると、ふとあの子供の姿が浮かんできた。しっかりした子供だった。あんなに小さいのに病気の母親を支えて。あんなにガリガリに痩せて。
……ガリガリに痩せて?
僕は、あの子供の姿を思い起こした。そして危うく、叫び出すところだった。
何か違和感を感じる子供だと思っていたが……。
女の子じゃないか。
痛々しい手の痕に気を取られて気付かなかったが、あの首や鎖骨の骨は女の子のものだ。女の子が、何故、少年のような格好で少年のような言動を?
一つの可能性に気付き、僕は衝撃で全身の血の気が引く気がした。僕は近くにいた兵士に駆け寄った。
「先ほどの女性は!?」
「女性ですか?先生」
「無理矢理連れてこられたという、女性と子供だ!」
僕の言葉に、兵士は顔を曇らせた。
「可哀想ですが、ここに置いておくわけにもいきませんでしたので、元の家に送らせました」
「だが!あんな状態の女性を移動させたりしたら……!」
「どのみち……、ここに置いてやっていてもあの女性はもう助かる見込みはないでしょうから……。自分の家に帰らせてやった方がいいでしょう」
森の木こり小屋に連れ帰ったということだった。
僕がようやくその子供を探し当てて再会したのは、母親の埋葬が済んだ教会でだった。
「お医者の先生、お金をありがとう。おかげで、かあちゃんを教会のお墓に入れてあげられたよ」
子供はもう泣いていなかった。暗い顔をしていたが、肩や腕の傷は癒えているようだった。
「君、名前は?」
「……レノ」
「レノ。小月か。いい名だな。いくつだい?」
レノは空に二つある月のうちの小月の方の名だ。
「むっつ……」
「そうか。君……」
本当は女の子だろう?
と、言えなかった。
「お医者の先生?」
「君、これからどうするんだい?」
レノは下を向いたまま両手をギュッと握りしめた。
「わかんない。とうちゃんの木こり仲間が、弟子になんないかって言ってたけど……」
「行きたくないのかな?」
レノはこくりと頷いた。女の子であることを隠しているからだろう。もしかすると、女の子であることを知られていて、弟子ではなく……、いや、もういい。
「そうか、では、僕と来ないか?」
レノは瞳を大きく見開いて、僕をふり仰いだ。僕はレノの目の高さまでかがむと、レノを真っ直ぐに見た。
「僕も弟子を探しているんだ。僕も、君のためにどうするのが一番いいのかわからないが、よければ付いてきてほしい」
レノは奥歯を噛んだ。迷っているようだ。
「木こりの弟子が嫌なら、とりあえず僕と来て医者の修行をしてみればいい。僕の家は僕と奥さんの二人きりでね。もし医者が向いていなければ他の道を探せばいいし、しばらくは一緒においで」
レノはしばらく下を向いていたが、僕を真っ直ぐに見つめると言った。
「どうして、おいらを?」
「……そうだね、まずは、君が可哀想だと思うのが一番だけど、君のように身内を病気などで亡くしている人間は、医師として人を救いたいと頑張ることが多いからでもある。あんなに必死にお母さんを守ろうとしていた君なら、きっといい医者になるだろうと思ったんだよ」
レノは一度、視線を地面に落としたが、再び僕を真っ直ぐに見ると言った。
「よろしく、お願いします」
僕は微笑んだ。
真っ直ぐに見つめるレノの瞳の色を見て、僕は確信した。
あの瞳の色は、この国には珍しい、この国の王族によく現れる色。レノは元第五王子の娘だ。レノの亡き母親が、逃亡したとされる夫人だったのだ。
詳しい事情はわからないが、元王子は王宮から追放された後、政略結婚の相手だった夫人と娘を、虐待もしくは放置したのだろう。レノはあの屋敷を抜け出して、本当にパン屋を手伝っていたに違いない。だから下町の子のような言動だったのだ。「とうちゃん」と呼ぶ木こりと、下町か森で知り合ったとしか考えられない。そうやって覚えた言葉遣いや態度で下町の子供になりすまして、母親と自分を守ろうとした。
現在、生き延びている王族の子供たちや貴族のうち、恭順を示す者は本国で平民となり監視下に置かれることが決まっている。平民として生きていけるはずはないと拒否する者たちは毒杯だ。どうせ苦しく屈辱的な暮らしをするならばと、泣き叫ぶ我が子に毒杯を飲ませて自分も呷る貴族もいた。つまり、王籍のない元王子の子とはいえ、レノは王家の血筋を継いでいる残り少ない子供の一人というわけだ。監視もつかないままの。
果たして僕が知らぬ顔でレノを連れ帰ることが、最善なのかはわからない。もしかしたら彼女の立場を明らかにして、他の王族の子供たちと同様に扱うべきなのかもしれない。だが、レノは恭順を示してくれるだろうか?下町の少年に擬態するほど聡い子だ。自分の立場は承知しているはずだ。それがどんなに危ういものかも。恭順を迫られたら、彼女が毒杯を選ぶ可能性は十分にある。それを考えると、僕は踏み出せなかった。
「お医者の先生、名前はなんていう……、んですか?」
おずおずと話しかけるレノに、僕は自然と笑みがこぼれた。
「僕は、サザーレ。サジー先生と呼んでくれたらいいよ」
「……サジー先生」
僕はぎこちない微笑みを浮かべるレノの頭を、くしゃくしゃに撫でてやった。まあいい、今、あれこれ考えてもどうにもならない。レノの瞳の色は、本国ならそこまで珍しい訳でもないし、目下の僕の最大の問題は、妻になんと言ってこの子を紹介しようかということだった。
ありがとうございました。続きはゆっくりねりねりしながら、ぼちぼち書いていくつもりです。
いやー、一回書いてみたいと思って始めた流離譚もどきですが、すでに文力不足を痛感中。(でも楽しい!)