【4】 レヴナント
浮足立った気持ちに、私は久しぶりに、「生きている」って感じがしていた。
映画館を出てから、私はすぐ解散せずに、他の男子たちの要望に乗っかって、ファミレスでの二次会……もとい感想会に付き合ってやった。機嫌が良かったからだ。
磨いたコミュ力を発揮して、男子のそれぞれとなんとなくワンラリーくらい会話して、それなりに私も楽しめたと思う。なんか、やたらと林が私とラインを交換したがっていたけど、それは丁重に断った。
あと……林くん、自然な流れを装って私の隣に何度か席移動して、意味もないのにこっちに距離つめて座ったりしてたけど、女子ってそういうの気づいてるもんだからね。
──と、そうこうしているうちにいい時刻になったので、ファミレスの前で解散の流れになった。
「今日はみんな、来てくれてありがとう。お金の割り勘も終わったし、ここからは現地解散で」
友貴が音頭を取ると、男子たちはそれぞれの帰路についていった。そのうち三人くらいが、すっごく名残惜しそうに、私にピロートークみたいなお別れメッセージを述べてきたので、まあ愛想よく返してあげた。
そうして、駅前近くのファミレス店の前には、私と友貴だけが残された。いや、私だって、そこで駅に向かっても全然問題なかったんだけど、もうちょっとだけ、友貴と……今日気づけた大切な気持ちと、一緒にいたかったんだ。
十月末の、冷え切った大気と、暗い夜空と、歓楽街の明かりの下に、私と友貴が立ちすくんでいた。
私は、少し気合を入れておしゃれをした、もこもこのニットダウンにワンピース。彼の方は、白地のゆったりしたアウターに、幅の広いジーンズみたいなやつ。
アスファルトに映った自分たちを影を見ていたら、友貴の方から話しかけてきた。
「今日は楽しかった」
「ね、私もそう」
「映画、見れてよかったよ。……ソノちゃんは、面白くなさそうだったけど」
「えっ、バレちゃってた?」
「ごめん、映画見てるとき、ちょいちょい表情見てた」
「ええーっ」
私は幸せな悲鳴を挙げた。なんだ、この男ったら、いかにも草食系な顔してるのに、こういう一面もあったりするんだ。
でも今は、間違いなく私がそれを独占している。そのことが、たまらなく幸せで、頬が緩んだ。
「友貴くんは、面白かった?」
「うーん、まあ色々と、考察はしたかも。あの監督、毎回こういう作風でさ、見ながらずっと『これをソノちゃんに勧めてた俺、センスねー』って反省してた」
「もう、次はもっと、大衆向けのに連れてってよね」
「善処いたします」
またひと笑い、幸せだ。でも流石に、これ以上長引かせたら、私が友貴に気があるってバレちゃうかもしれない。
「ねえ友貴くん、今日は……」
「ソノちゃん、これから少し、時間ある?」
思いもよらない言葉が、私の言葉をさえぎった。この期に及んで、まだ衝撃的なことが起こるのかと、私は面食らってしまって、目をぱちぱちさせてしまった。
「どういう意味……?」
「実はさ、これからちょっと個人的な買い物があって、もし良かったらそれに付き合ってくれないかなーって……思って」
一も二もなく、っていうのは、こういう事を言うんだろう。私はすぐに、ダウンを羽織り直して、気合じゅうぶんに頷いた。
「うんっ」
駅ナカの商店街の中を、友貴と一緒に歩いていく。
どこからともなく流れてくる、甘くて美味しそうなスイーツの匂いや、眩しい暖色のライトの光が、私の心をざわざわと落ち着かなくさせた。そのコントロールできない感じが、くすぐったくて、たまらなかった。
学校のこと、部活のこと、休みのこと……色々話しているさなか、友貴はある雑貨屋の前で足を止めた。品揃えは魅力的だけど、高校生にはちょっとだけ手が出しにくい価格帯の商品が多い、有名なチェーンのお店だった。
「ここでいいかな」
「ねー、そろそろ友貴くんが何買おうとしてるのか、教えてよー」
彼に気が緩んできて、すっかり猫ちゃんみたいな声色で語りかけるぶりっ子な私に、友貴は真顔で答えた。
「母さんへのプレゼント」
それを聞いて、私も思わず真顔になった。彼の後をついていくと、その言葉の通り、何か女性が好みそうなものを探しているらしかった。
「ソノちゃんも、選ぶの手伝ってくれると助かるんだけど」
「それは全然いいけど、どうしてお母さんに?」
「実はさ、母さん、体壊しちゃって今入院中なんだ。それで今度、母さんの誕生日に見舞いに行くから、そこでプレゼントを渡そうと思ってるんだ。母さんが家にいないと、やっぱり俺は不器用で、なんもできなくてさ……そういう、ありがたみ? っていうのかな、形にして伝えたいんだ」
その言葉に、私は自分の心が、強く揺さぶられるのを感じた。
私の同級生に、こんなことを心の底から言える人間が、何人くらいいるだろう。ひょっとしたら、この殺伐とした都会の街には、彼以外に一人だって、いないのかもしれない。
当たり前のように、家族に感謝ができる。当たり前のように、他人を尊重できる。やっぱり友貴は、私たちがどんなに上っ面を磨いても手に入れらないような尊いものを、持っているんだ。
そう考えると、どうしようもなく愛おしくて、切なくて、なんとしても、彼の役に立ちたいって、私は思った。
勢い任せに、友貴の肩に手を伸ばして、「えっ」って感じて振り返ったその薄い顔を見返す。
「大丈夫だから、私が絶対、いいプレゼントを選んであげるから」
「ありがとう。ソノちゃんがそう言ってくれるなら、百人力だ」
それから、私たちは話し合いながら、雑貨店の中を見て回って、プレゼントを選んだ。参考にしようと思って、年齢を聞いてみたら、ちょうど私のママと同世代で、そういう共通点すらなんだか嬉しかった。
三十分くらい悩んで、私は食器コーナーにあった、大人っぽいマグカップを勧めた。別に女性だからって、女らしいものを買う必要ないし、友貴から貰ったものなら、きっと彼の母親は何だって嬉しいだろう。……そう考えた時、普段使いできて、それでいて彼からの愛情を感じられそうな物、そういう条件で、一番いいと思うのを私なりに選んだ──つもり。
「やっぱりソノちゃん、センスいいよ。これにする」
友貴はお世辞っぽい言葉を使って、でも嘘に感じさせない感謝に満ちた表情で、マグカップを手に取ると、そのままレジに持っていった。
「プレゼント用です」
「はい、ラッピングはどうなさいますか?」
「やって貰っていいですか」
「では、少々お時間いただきますね」
「お願いします」
若い女店員と交わされるやり取りを聞きながら、私はほっとため息をついた。
私の選んだプレゼントを、友貴が選んでくれてよかった。「〝やっぱり〟センスがある」って、友貴が言ってくれた。趣味の悪い女だと思われなくて、安心した。私と一緒に、この時間を過ごしてくれた。
神様なんて、信じていないけど、それでもこの温かい体験を運んできてくれた何かに、私は「ありがとう」を言った。
そんな時だった。
「──ゆ、優香さんっ」
背後から上がった大声が、私の名前を呼んだものだと、気がつくの時間がかかった。とっさのことで、返事をするより、振り向くのがやっとだった。
……目の前に、結構前に別れたはずの、林が立っていた。
私はびっくりして、とっさに二歩くらい後ずさったと思う。
相変わらず小デブの林は、ここまで走ってきたのか汗だくで、ひぃひぃ息を吐いていた。店の入口すぐのところで声をかけてきた彼は、そこからさらに、レジ付近に立っている私のところまですたすたと歩いてきた。
「優香、優香さん、こんなところにいたんだね」
「う、うん……でも……林くん?」
「ボク、小林」
「あっごめん小林くん、さっき別れたと思ってたから、驚いちゃって。どうしたの?」
林、あらため「小林」は、私に聞かれると、謎に顔を赤くして数秒モジモジとした。それから、間を開けて、着ていたよれよれのボーダーの裾を握りしめながら、ボソボソと喋りだす。
「あのあの、実はボク、さっき拾っちゃって……」
「拾った? 何を?」
「これっ」
急に大声をだして、これまたヨレヨレのジーンズの、パンパンになったポッケの中から取り出してきたのは、レースのついた白色のハンカチだった。
私のだ。
とっさに手を伸ばしかけて……やめる。その代わり、私は小林に質問した。
「どうしたの、これ?」
「あのっ、映画の時、落としてたのっ、拾ったの。でも、解散する時、渡すのめっちゃ忘れちゃっててっ」
本当に、小林は森に住んでる人慣れしてない巨人みたいな喋り方をなんとかしてほしい。要するに、私の落とし物を拾ってくれたということみたいだ。
「あ……ありがとう」
差し出されたハンカチを、おずおずと受け取って、ポーチの一番外のポケットの奥にしまい込んだ。結構お気に入りのだったけど、小林の手垢がべったりついてしまった以上、今日でお別れかもしれない。
用件が済むと、小林も話題を失ったのか、そこで気まずい沈黙が流れた。「じゃあ、用済みだから帰って」なんて私も言えないから、視線を変えて、黙っていることしかできそうにない。
……でも、そこへ救世主がやってきた。
「ごめんソノちゃん、ちょっとラッピングの包装紙に悩んじゃって、時間取っちゃった」
プレゼントの包装を終えた友貴が、レジから帰ってきたんだ。
友貴は私の方を見て、そして隣に立っている小林に気がついた。小林とは似ても似つかない、友貴のスポーツ焼けした褐色気味の顔に、男子が友達に対して向ける、特有の打ち解けた笑みが広がった。
「あー、小林、本当に届けに来てくれたんだ。ありがと」
その一言から察するに、友貴は小林が私の落とし物を届けに来るということを、事前に知っていたみたいだ。多分、落とし物を返し忘れていたことに気づいた小林が、友貴にラインを送って、この場所を教えてもらったって流れだろう。
なんでよ……いや、流れとしては納得できるけど、今日だけは──今だけは、小林が割り込んでこれるようなこと、友貴にしてほしくなった。
心の中で生まれたマイナスを帳消しにしたくて、私は小林からなるべく距離を取って、友貴のそばに近寄った。その距離感のまま、私は小林に向き合った。
「小林くん、本当にわざわざありがとうね。お気に入りのやつだったから、助かった」
「う、うん。優香さんが喜んでくれたなら、ボクは何より」
「ありがとね、それじゃあ」
意味ありげに、私は駅の構内に続く通りの方に目を向けた。小林、もういいでしょ、帰りなよ。私はちゃんと受け取ったし、笑って感謝してあげた、だからお願い、邪魔をしないで。出口はあっち。
でも、そんな私の気持ちを、小林が読み取れるわけもない。こっちの視線を追って、自分も一度後ろの通路を振り返って、不思議そうな顔でまたこっちを向いた。
ダメっぽい。仕方ないから、今度は頼みの綱、友貴の顔を上目遣いで見上げた。
「ねえ友貴くん、今度はさ、私の買い物にも付き合ってくれない? 今日はもうちょっと、一緒に過ごしたいかもー、なんて」
このお願いを友貴に聞いてもらって、その流れで、小林と別れようと思ってた。
けど、友貴は私の頼みに、明らかに困った顔をした。
「ええと、今日? ……ごめん、俺ばっかり付き合ってもらっちゃってあれだけど、そろそろ帰らないと、塾に遅れちゃう」
「塾……?」
「うん、来年はもう受験だし、数学のやつだけ通ってるんだ。ごめんソノちゃん、この埋め合わせは、必ずするから」
彼は腕時計をちらりと見て、もっと焦った顔になった。
「ごめん、本当にやばい。ソノちゃんと話すのが楽しくて、長居しちゃった。……まじでごめん──俺、行くからっ」
別れの言葉もそこそこに、友貴は手を振って、改札の方へと走っていってしまう。どうやら、本当に時間がギリギリらしいのが、その姿からよく伝わってきた。
勉強は大事だ、むしろ、私だってそろそろ焦らなきゃいけない。それに、それこそ友貴にしたら、大好きなお母さんに、いい大学に行って親孝行したいんだろう。だから、これは仕方のないこと。そんなことは、頭ではわかっていた。
けれど私は……まるで、いきなり頭から、氷バケツをかけられたような気分だった。今まで、どこか浮足立っていた気分が、風船から空気が抜けるみたいに、しぼんでいく。
今まで、楽しい場所だった駅ナカの道は、雑踏まみれの汚い場所に。心地よかった周囲の雑音は、ただの騒音に。友貴のとのひと時ですら、思い返してみると、ひどく陳腐なものに思えた。
魔法が解けた世界に取り残されて、なんだかひどく悲しくて、思わず涙ぐみそうになった。
そんな時、声を出してきたのが、私と一緒に取り残された、小林だった。
「あ、あ、優香さん?」
その入りの時点で嫌な気分がして、私はほんのちょっぴりだけ睨む感じで、小林を振り返ってしまった。
「なに?」
「その……さ、買い物……買い物したいなら、ボクだったら付き合えるけど?」
そんな誘いの言葉が、小林の口から出た瞬間、私は脳が沸騰しそうなくらい、激しい怒りの感情に襲われた。
何? 何? 何? 何? 何? 何? 何? 何? こいつは一体なんなの?????
目の前の女の子の、気持ち一つわからずに、自分の事情だけ優先して、なんの脈もないのに誘ってきやがる。
本当に嫌い、本当にイヤ、本当に、本当に、本当に、ほんっとーっに、気持ち悪い。
胸の中で、竜巻のように暴れ狂う感情をこらえていられずに、私はついに、口を開いてしまった。
「あのさ──」
小林への返事は、自分でも驚くくらいに、冷たい声色で始まった。
「──小林くんさ、もうウザいだけだから、帰ってもらってもいい?」
「えっ」
「自分じゃ気づいてくれないだろうか言うけど、ハッキリ言って小林くん、気持ち悪いよ。今日は一日中、迷惑なのに私に付き纏ってきて、本当にだるかった。わけのわからない、哲学とか、政治とか、そういう話ばっかりで、全然楽しくなかった。自分じゃ面白いと思ってるんだろうけど、こっちはふつーに、迷惑だから」
突然、言葉の雨をぶつけられ、ぽかんとしてる小林に向かって、私はさらに続ける。とにかく、こいつに何か言ってやらないと、気持ちが抑えられなかった。
「後さ、これは小林くんだけじゃないけど、全体的に空気読めないのはなんなの? 映画じゃ私の隣に座りたいとか言うし。……後さ、服装も見直したほうがいいよ。そのお母さんに買ってもらったみたいな上下、やめたほうがいい。気合い入れておしゃれしてる相手に、そんな手抜きの薄汚い身なりで、粘っこい喋り方で、なんの工夫もなく話しかけてくるって、まずそういう、人として根本的ズレてる感覚の方を、見直したほうがいいと思うの」
私が一言、何か言う度に、小林はまるで指に釘でも打たれたみたいに、顔を歪めた。でも、それを可愛そうだとは、一秒だって思わなかった。むしろ、ざまあみろ、当然の報いだ、みたいな、ねじれた喜びだけが、私の内側を満たしていた。
「じゃあ、そういうことだから、さよなら」
一方的に言い切って、私は小林に背を向けると、駅に向かって一目散、走り出した。勢い任せに、放り投げてしまった言葉の結果を、直視する勇気がなかった。怒りに任せて、小林が報復してくるんじゃないかと思って、それも怖かった。
「カワイイ」しか機能のない、走りにくい靴で、ただただ、硬い通路の道を走って、そのまま私は家路についた。
……もう、何もかも、全部が嫌い。
* * *
休み明け、学校に登校してみると、小林が休んでいた。
理由はわからない、けれど、私のせいだったらいいなって、正直思った。私の恋路の邪魔しかしない、あんな男、不幸になって当然の人間なんだ。
その昼休み、いつもの女子メンバーたちと、クラスのゴシップをおかずに教室でお昼を食べていたら、突然ラインの通知が来た。
友貴からだった。
私は思わず、心臓が裏返りそうになって、周囲を二度三度、見回してしまった。幸いなことに、同じ机のみっちーやアキも、スマホに釘付けになっていて、私の挙動不審さはバレなかった。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
声をかけてから、教室を出たところの廊下で、私は友貴からの、映画以来のメッセージを確認した。
太陽が雲に隠れて、真昼なのに薄暗い影に沈んだ廊下の中で、スマホのバックライトの光が、ピカピカと光って眩しく見えた。
『小林から話を聞いた』
『放課後、どこかで話せない?』
息が止まった。
とりあえず、ウキウキ気分は吹き飛んで、頭の中に、色々な思考が駆け巡る。小林のこと? 話を聞いたって……どんな? あいつ、私のことを友貴に言っちゃったんだ、死ねよもう。
とにかく、何か言い訳しなくちゃと思って、ごまかしの文をいくつか打ち込んでみて、結局は諦めて全部取り消して、私はシンプルな短文を返した。
『わかった。場所はどこがいい?』
私と友貴は、五限の選択科目の授業が終わった後、ホームルームの教室で落ち合うことになった。
芸術科目、美術を選択していた私は一階の美術室から、音楽を選択していた友貴は、たぶん三階の音楽室から、それぞれ二階の教室にやって来た。
私が教室に入ってみると、友貴は先についていて、自分の机の上に腰掛けながら、私のことを待っていた。
「うーっす、ソノちゃん。急に呼び出しちゃって、ごめん」
その顔がとても深刻なのを見て、〇・一パーセントくらい、明るい話だってことを期待していた気持ちがなくなった。
私がすぐ前に立つと、彼は単刀直入に切り出した。
「一昨日、俺と別れた後で、小林と何か喋ったりした?」
彼の目を見ればわかる、これはごまかしても、もうどうしようもない状況だ。だから、むしろ私は堂々と、話題を先取りして話した。
「いいよ、遠慮しなくて。私から悪口言われたって、小林くんから言われたんでしょ」
「……ああ」
「ごめんね、あの時はちょっとイライラしてて、それを彼にぶつけちゃった──体調も悪くてさ。もちろん悪いことしたなって思ってるから、後で謝っておくね」
なるべく早く、それでいて私に有利な感じで話を終わらせたくて、実は授業中にずっと考えていた言葉を、私は返した。そこにはもちろん、色々な計算と打算がある。まずは、自分が一方的に悪いという態度を崩さない、それでいて、女の子なんだから、たまにはイライラする日だってあるってことを、ちょっとほのめかす。そうすればきっと、それ以上友貴はつっこんでこれないだろうって、考えていた。
けれど、友貴の反応は、私が予想していたものでも、期待してものでもなかった。
「俺は、例えイライラしてたとしても、人に言っちゃいけない言葉って、あると思う」
私が必死に組み上げた詭弁やごまかしを、彼は真正面から、正論で吹き飛ばしてきた。
「昨日、小林から泣きながら電話がかかってきたんだよ。『俺が陰キャなせいで、ソノちゃんを怒らせちゃった』ってさ。ごまかしながらの、冗談交じりだったけど、『もう死にたい』って、あいつは何度も言ってたよ」
「……。」
私は、言葉を失った。あの時、背を向けて、直視しなかった自分の言葉の結果を、今になって突きつけられた気がした。
友貴は、膝の上で指を組み、うつむきながら、悲しそうに言う。
「ソノちゃんが小林に何を言ったか……悪いけど、全部教えてもらったよ。俺は……酷いなって、正直思った。もちろん、その時の状況を知らないから、全面的に小林の味方をするつもりなんてない。でもさ──俺は──そう簡単には変えられない、人の行動とか外見とかを、一方的に悪く言うのは、ひきょうだと思う」
「そんなこと……」
わかっている、と言いたかった。わかっているから、それがわかっているから、私は言ってやったんだ。あの時は確かに、小林に傷ついてほしかった。だから、自分が考えられる中で、一番強くて、「ひきょう」な言葉を使ったんだよ?
でもそうやって開き直ったら、今度こそおしまいな気がした。
「わかったよ。……友貴くんは、どうしてほしいの?」
私は胸を抑えながら、慎重に言葉を選んだ──つもりだった。だけど友貴は、その言葉を聞いて、顔を上げると、もっと悲しそうな顔でこっちを見た。
「俺なんて……っ、関係ないだろ……! まずは、小林のことじゃないのか?」
その言葉には、はっきりと「失望」がにじんでいた。震える声の端々からは、ふつふつとした怒りや、やりきれなさが伝わってきた。
本当に……どうしてこんなことになったんだろう? 今すぐ、一昨日の日、友貴と買い物していた時に戻してほしい。
もう、我慢の限界だった。目頭がじわっと熱くなって、次から次へと、涙が溢れてきた。嗚咽が漏れて、自分でも抑えられない。
「……ぅ、……っ」
友貴の目が驚いたように見開かれ、彼は一言「ごめん」と言って、いたわるような視線を送ってくれた。こんなダメ人間にも、彼は愛情を失わず、心配を傾けてくれる。
けれど……私はきっと、まだ打算的だ。泣けば、友貴が気づかってくれるとわかっているから……そうすれば自分が可哀想に見えて、情状酌量の余地があるように映るはずだと、十分理解したうえで行動している。
この期に及んで、私はまだどこかで、きれいで美しくて、非の打ち所ない「園崎優香」を守ろうとしている。
小林にあんなことを言ったくせに、私だって、自分のことしか考えてない。おそらく、友貴が期待しているような、反省や、本心からの後悔みたいなものを、私は一生、持つことなんてできない。どんなことをしでかしても、適当な詭弁を並べて、演出して、自分を守るに決まってる。
そんな自分が心底嫌になって、私は、その場から逃げ出した。
「ごめんなさい」
たった一言、そう言い残すのが限界だった。
学校を抜けた私は、なんとなしに歩き出して、そのまま休日に訪れた映画館に向かった。
券売機を覗いてみると、午後の枠で例の映画がやっていたので、もう一度見ることにした。
平日の劇場は、本当にガラガラだった。
──こうして、二度目となる〝レヴナントの夜〟を、私は見ることになった。
相変わらず、映画自体は、とてもつまらないものだった。
スクリーンの上で、男はまた場違い蘇って、家庭に戻って、幸せだった日常をめちゃくちゃにする。それどころか、被害者面をして、妻に暴言を吐き、家で暴れて、白骨死体のくせに酒を浴びて酔っ払う。
それを見ていると、なんだか、ぽろぽろと涙が溢れ出してきた。
友貴はこれを「考えさせられる系の映画」と言っていた。事前の評だけど、それはぴったりと、当たっていたと思う。
最初に見た時も、今も、私はずっと、何かについて考えていた。
一度目は、ずっと友貴のことを考えていた。彼は、誰がタイプなんだろうかとか、私の隣りに座って、本当はドキドキしているんじゃないだろうかとか、そんなことを。
でも今日、二回目には、ずっと映画の内容について考えていた。
映画の中で、蘇ってしまった男──これは〝私のことだ〟と、そう思ったんだ。
私はたしかに、友貴に恋をしていた。でも、それは中学時代のことで、高校に入って、見た目だとかカーストだとか、そういうつまらないことにこだわり出した時点で、私と友貴の道はとっくに違えていた。
だからその時、私の恋は死んでいたのだ。
でも、それに気づかず、私はずっと友貴へのままならない思いを引きずっていた。だからこそ、彼と近づけるようなイベントが、たまたま何度かあったせいで、死んでいたはずの気持ちを、蘇らせてしまったんだ。
でも、私はもはや、友貴に釣り合う人間じゃない。そんな人間が、場違いにも恋してしまったら、それはもう、自分も相手も不幸にする結末しか残されていはいない。
私の恋心は、映画の亡者と同じく、友貴の世界を荒らし回って、自分の都合だけを押し付けて、色々なものを壊してしまった。
付き合う相手や友達を、アクセサリーみたいにえり好みなんかせず、彼の価値観を大切にして生きていた友貴からすれば、私みたいな人間に想われ、干渉されるなんて、はた迷惑なだけなんだ。
……映画には、またエンディングがやってくる。
現実を突きつけられた男が、自分の意思で、墓の下に帰っていく。
きっと私も、そうするべきなんだろう……けど、やっぱり、できないよ。
映画館を出ると、私はラインを開いて、小林に対し、自分なりの反省文を考えて送信した。既読はすぐについたけど、何かが返ってくることはなかった。
その後で、私は友貴にも、自分の間違いに気づいたことや、それでもまだ、関わってほしいという旨の内容を送信した。
これで許してほしいだなんて、小林にも友貴にも思っていない。けれど、この恋心だけは、どうしても、どうしても、殺し切ることができなかった。
きっと私は、優しい返事を期待していたんだろう。友貴が急に心変わりして、私のことを想ってくれる、私の味方をしてくれる、そんな夢を、少しだけ思い描いていた。
──だけど、現実は残酷だ。
五分後に友貴から返ってきたのは、「わかった」という四文字と、当たり障りのないスタンプ一つだった。
それを見て、私はまた、がっくりと肩を落として、泣きそうになる。
……わたしは、すでに死んでいる。けれど、死んだことに気づいていないということにして、また、友貴に送っても良さそうな、返信の内容を考える。
(終)