7/15 声
「ハウスクリーニングの高槻ですう。入りますよ~~?」
家主は恐らく外出中だ。
それでも一応、一声言ってから私はその家の戸を開いた。
依頼人の武藤田家は一人娘を持つ夫婦だという。
夫婦揃って出勤中、娘さんは学校で留守。
古風な一戸建てから武藤田家の幸せな暮らしぶりが見て取れる。
「さてと」
依頼内容は住居全体を清掃するハウスクリーニングと、猫の餌やり。
けど、少し疑問。
え?だって………
「ワ゛ン!ワ゛ン゛!!!」
着いた時からずっと、この家で吠えているのは……『犬』なんですもの。
姿は見えないけれど、多分この家の2階のどこかの部屋で。
近所迷惑なんじゃ……って思うほど、ずっと吠え立てている。
けれど───
置いてある、のよね。
猫用のお皿、給水器、おもちゃ。
なぜ分かるのかって?ええ、ウチでも猫を飼ってるから分かるんです。
これは猫を飼育する為の用品………
「ワン!ワン!ワ゛ン!!!」
……。
……。
「さてと」
気にしない気にしない。
私は掃除道具一式を広げ、さっそくクリーニングを開始した。
リビング、浴室、トイレ、それに2階まで……やることは山積みだ。
頭にタオルを巻いて気合万端!
と、その瞬間───『ピンポーン』とインターホンが鳴る。
「ワン!」
2階で犬が反応した。
◇◇◇
「ほらここです、見えますか?」
「あー見えます見えます!」
指さされた窓へ目を向けると、なるほどそうか、ずっと吠えていた『犬』は隣家から聞こえていたものだったらしい。
ちょうど真正面に位置する隣家の窓はカーテンが開かれており、中からしきりにこちらへ吠えるコーギー犬の姿がよく見えた。
「そういうことだったんですね!」
「そうそ、よく吠えるんです。最近は特に!」
彼女は武藤田未礼。
現在17歳、花の女子高生だそうだ。
「ここ私の部屋なんですけど、こんなんじゃ勉強とかできなくないですか!?」
「あーですねえ。」
「じゃあ私、ちょっとお風呂入ってきちゃいますね!あ、掃除手伝いますか?」
「いえいえ、気兼ねなく。」
「はーい」
彼女は部活帰りか、全身がうっすら湿り気を帯びていた。
健康的で普通の女子って感じ。いい子そう。
あっ、そうだ………
私は廊下を走り去る未礼さんに一声。
「猫、どこにいますか?」
「あー、分かりません。」
立ち止まり、そして、ほんの少しだけ間を置いて。
「でも、 ”居ますよ”」
なんだか、その部分だけ少し強調したような。
というより、変に意識して喋っているような。
私の気のせいかも分かりませんが、なんだか少し違和感を覚える声色だったのです。
「さてと」
犬の謎も解けたことですし、掃除再開!
猫は臆病ですし、よそ者の私を警戒してどこかに隠れているんだきっと。
今のところ、この家に猫の気配は全く感じない。
どこか段ボールの中にでも隠れているのだろう。ほんと、猫って可愛いことをしてくれないんだから。
私は早速、未礼さんの部屋にモップを走らせる。
基本的に清掃の行き届いた家だ。
エアコンの中や風呂下や水回り以外に特に汚れた場所はなく、手間取らない。
う~~~ん、けどやっぱりちょっと違和感。
あぁ、未礼さんのことではなく。
───この、隣家の”犬”。
「ワンワン!ワ゛ン!!」
なんだか気になって………
どうして、この家に向かって吠え立てているんでしょうか。
犬にとって『吠える』とは感情表現の最もな手段。
例えば嬉しいとか、ああして欲しいとか、”怖い”とか。
「ワン!ワン!」
ええ、先程から気付いているんです。私は。
どう見ても”怯えて”る鳴き声。瞳。
あの部屋から、この部屋の何かを見て、もしくは感じて?それであんなに吠えてるんだきっと。
当然、私へって訳じゃない。
だってあの犬は私が来るずっと前から同じように吠えているのだ。
「さてと」
気にしない気にしない。
私の仕事はハウスクリーニングです。犬も猫も関係ありません。
吠え声の傍らで、床掃除は一通り終えたので、私は半開きになったその部屋の押入れに手を掛ける。
木製の家屋なので、日の当たらないところには特にカビが増殖してしまう。
その清掃もハウスクリーニングの一貫なので、もちろんそこら辺の許可も武藤田様から事前に頂いている。
私は襖を開け───
「あっ」
真っ黒い双眸と目が合った。
”居た”。……猫が、え、猫?猫じゃない───じゃあなに───小さい───いや大きさは同じくらい?───けど違う───犬?───そもそも本物?───偽物?───
一瞬、雑多な並列思考が飛び交った。
そうです。恥ずかしながら、いきなり現れたソレに大きく驚いてしまったのです。
ちゃんとよく見れば───
え、ポメラニアン?
それは薄暗い毛色の……ポメラニアン?
やっぱり私の目には”ポメラニアン”にしか見えなかった。
半分開かれていた押入れの襖、その敢えて光の入らないほんのりカビの臭いが香る半分の側に置き物のように座っていた。
まるで身動きせず、ところどころ縮れた手入れのされていないような毛並み、どこまでも黒々と塗りつぶされた瞳は糸で縫い付けられた偽物のようで───私は一瞬、それを剥製かと見紛うた。
襖を開いても、ちょうど私が影になっていて薄暗い毛色が更にくすんで見える。
なんだろう、ちょっと不気味。
まさかポメラニアンに脅かされる……なんてね。
それにしても、猫じゃない?どうしてポメラニアンが居るの?この家に。
犬の飼育用品なんて、無かった……はず。
突然現れたポメラニアンに思考を奪われた私は、その時、隣家からの鳴き声が一層強まったことをさほど意識しなかった。
ほんの少し視線をずらすと、その体表に惨たらしい傷跡が刻まれていることが分かる。
右肩甲骨から腰のあたりまで斜めに皮膚をこそげ取ったかのように赤黒く伸びた傷痕だった。
周囲はケロイド状に盛り上がって割れ目のようになっていて、まるで何かが背中を突き破って出てきそうな禍々しさすらある。
そんな中も、ポメラニアンは少したりとも微動だにしない。
本当に置き物みたいに。
ということはやっぱり、とてもリアルな剥製?
傷跡、毛並み、体表のどこからも生気というものを感じられない。
それになにより、私はその瞳が、とても生きた本物とは思えなかった。
本物のようでありながら、けれど剥製のようでもある。
もっと間近に見て確認したい。
私はそう思い、顔を近づけて確かめようとしたその時、目の前でほんの少しだけ口元が歪んで───
「わん」
➋ 声(完)