#058 水面下の交渉 Ⅱ
机の上に置かれたアタッシュケースは、女性でも運べるような比較的コンパクトなサイズのものだ。
大きな円形のテーブル上に飾られていたウェルカムフルーツはすでに避けられているおかげで、その中央部にアタッシュケースを置いてもカップの邪魔になるような事はなかった。
アタッシュケースに視線を向ける奏と大野の二人を前に、しかし中身を見せる前にジュリーが口を開いた。
「凛央魔法少女訓練校の生徒の成長はなかなかに順調なようだね、鳴宮女史」
「……そうですね。彼女たちのおかげで、多くの人々が救われています」
「多くの人が、ね。くくっ、いや、すまない。腹の探り合いをするつもりはなかったんだが、ついこんな言い方をしてしまった事を謝罪しよう。私が指している成長とは、葛之葉の活躍の話だとも」
「な……、そ、そこまで調べていたのですか……?」
奏は驚愕に目を見開き、大野もまたぴくりと眉を動かした。
「……おいおい。そいつは連邦軍の中でもトップに当たる機密情報だ。堂々と調べていたなんて言われちまうと、さすがに見逃せなくなるが?」
「さて、調べていたなんて言った覚えはないね。私は風の噂で耳にした、ただそれだけの一般人だとも」
「……ったく、これだから頭の回るヤツは……」
「褒め言葉として受け取っておくよ。――それよりも、だ。葛之葉の一件を公表しなかったのは失敗だったね。ルイナーの大量発生、アレを黙っておくなんてどうかしていると思うけど?」
ジュリーの指摘はもっともで、大野も、奏もまたその事実に言葉を詰まらせた。
実際、大野は葛之葉の一件の裏側を捏造してでも、ルイナーの大量発生については大々的に発表とはいかずとも、それらしい情報を小出しにして世間へと情報を浸透させていこうと考えはしたのだ。
しかし、葛之葉という土地に手を出していた、という情報が出るだけでも今の軍部に対する批判は高まるのではないかと考えられ、大野以外の上役は葛之葉の一件を隠し通すという選択を選んだのである。
これには大野も渋々ながら了承せざるを得なかった。
その一方で、ルイナーの大量発生に関する情報をどのように公表していくべきか、それを考える日々が続いている状況であった。
「キミ達の背景というものが問題を抱えている事ぐらい、半年程前のあの騒動を見ていれば理解できるとも。けれど、あの葛之葉の地中、大量にルイナーが湧き出てきた大穴から強力な魔力の反応が生まれている事を、キミ達は掴んでいるのかい?」
「なんだと……?」
驚愕した様子を見せる二人の前に、今度はいつの間にやら隣までやってきていたアレイアがタブレット端末を利用して、波形グラフの比較図を表示させた。
「そこにあるグラフは私が独自に解読した、魔力の力の波、私は魔力波と呼んでいるが、その測定値を示すグラフだよ。三つグラフがあるだろう? 一番左が通常の地域、真ん中がルイナーが出現した際の計測値。そして、一番右側が、葛之葉の大穴から観測できた数値だよ」
「魔力を、計測できると……?」
「……あぁ、やっぱり報告は上がっていないのかい? 魔力波の可視化とその装置の仮説だけなら、そちらの研究所にいた時から出来ていたよ。もっとも、私の上司であった老害は信じようともしなかったけどね。実践できたのは三葉に身を寄せ、棄民となってからの話だよ」
「……聞いていないぞ、そんな仮説があったなんて」
愕然とする大野と奏の二人とは対照的に、計測器すら実用化されていないという事実を知り、呆れと嘲笑が入り混じるという複雑な胸中であった。
計測器については過去に報告し、論文も提出している。
要するに、仮説の論文を理解し、流用さえできているのであれば、とっくに実用段階まで進められているだろうという認識であったのだ。
しかし、結局のところ論文は流し読みだけされ、そのまま存在を忘れ去られてしまっているらしいのだから、これには呆れてしまう。
ルイナーの出現予測が可能になれば、事前の避難、魔法少女の手配ができるというのに、それすらも未だできていないのかと呆れずにはいられなかった。
「まあ、信じるかどうかはキミ達に任せるとして、信じてもらった前提として話を続けさせてもらうよ。そこに表示されたグラフが示す通り、葛之葉の大穴の直上で計測したデータが示す魔力波の数値は、ルイナーが現れた場所に比べても圧倒的に高い事が窺える。つまり、あの場所には何かがあると考えるのが妥当だろう。調査するなら調査した方がいいとは思うけど、どれだけの危険があるかは想定できそうにない。魔力の濃度が濃ければ、常人はそれだけで倒れてしまうはずだしね」
もっとも、すでに私は我らが主様のおかげで結界とやらを張って連れて行ってもらえたし、人間では『大源泉』にも辿り着けないように細工されているけどね、とジュリーは心の中で付け足す。
すでに大穴の空洞内はルオの手によって結界が張られており、もしも今すぐに連邦軍の誰かが大穴の中へと突入したとしても、そもそも魔素濃度の濃い洞窟が続いているだけで、すぐに魔素酔いを引き起こし、気絶する事になってしまって結界まで辿り着く事すらできないだろう事は予想できている。
では何故、わざわざ葛之葉の地下を指摘したのかと言えば、話は単純だ。
分かりやすく計測が可能だと、数日後に向けて証明するために口にしたに過ぎない。
いわゆる一種のパフォーマンスであった。
そんな背景を知る由もない二人は、ジュリーの言う通りに信じた前提としての話を進めていく。
「……投入できたとしても、魔法少女ぐらいしか投入できないか」
「いえ、魔法少女であっても魔素濃度が濃すぎる環境は厳しいという話だったはずです」
「となると、下手に近づくのは危険だな……。ちなみに、その魔力波とやらを計測する機器、あるいは技術そのものを我々に提供してもらうという事はできないか? それがもし、本当に計測できるというのなら、その濃度を見ながら人間と魔力少女が近づける範囲を探れる」
計測ができるという前提で話してはいるものの、実際に実地で利用しつつ検証したい、というのが大野の本音ではあるのだろう。
そう来るだろうと予測していたジュリーは、その目的を確認する意味を込めて皮肉混じりに笑みを浮かべてみせた。
「へぇ? ずいぶんと図々しいお願いだね?」
「それは百も承知している。しかし、魔法少女は魔力を持つとは言え、ただの少女でしかない。我々が手を貸せる部分は微々たるものでしかないのだ。我々の手が届く範囲を広げる事ができるのなら、俺の頭などいくらでも下げる。金についても内容が内容である以上、実践さえできれば充分に期待には応えられるだろう。最悪、有能な研究者に苦労を強いて出奔させた穀潰し共の研究費用から巻き上げればいい」
「……くくっ、なるほどなるほど。いいね、私としてもその穀潰し共に間接的に仕返しができるという訳だ。それに、そちらの欲しがる意図も理解した。私としても魔法少女にだけ戦いを押し付ける在り方には思うところがあるのは一緒だよ。軍部でキミのような人材が上層部で実権を握っていられるようになったのなら、改革の意味はあったと言えるね」
過去の軍部であれば、おそらく徴収する等と堂々と口にしてきてもおかしくはなかった。
国のために、世界のために、とでも大義名分を掲げ、徴収し、自分の手柄とでも言いたげに大々的に喧伝していただろう。
それに比べて、大野は非常に真摯な態度を貫いてくれている。
軍の上層部、大将という立場である人間がこうした態度を貫いてくれるのであれば、今後もそう無茶は言われずに済むだろう。
それだけで、軍の内部がかつてとは大きく変わったと言える。
「うむ、そうだね。無償で提供とはいかないけれど、この程度の技術なら有料で提供させてもらうよ。葛之葉だけじゃなく、今後ルイナーの出現予測だって可能になるかもしれない事を現実的に考えても、私一人で国内全域を計測するなんて真似はできないし、そこに私の興味はないからね」
――国立の研究機関ですら開発できていないものを、この程度と表現するか。
大野も、そして隣で話を聞いていた奏もまたジュリーの発言に驚愕し、息を呑む。
確かにジュリーにとってみれば、研究機関にいた時期に苦汁を舐めさせられたのは事実であり、散々な目に遭ったのは事実だ。
だが、見返してやりたい、という気持ちがなかったと言えば嘘になるが、直接復讐したい、仕返しをしたいと考えるような事はなかった。
ルオとアレイアという存在によって齎される知識を学び、現代の技術と融合し、流用できるかどうかの試行錯誤の日々が続き、そんな中で『純魔力液』が手に入り、眠る時間が惜しいぐらいに熱が入って研究を続けていた程である。
アレイアによって何をどうやってかはジュリーには理解できなかったが、強制的に眠らされた程である。
要するに、「些事にかまけていられる程、暇ではない」というのが本音なのだが、そこに降って湧いたような機会があるのなら乗らない手はない。
「実機についても提供するよ。ただ、私でも調達できた資材で作ったものだからね。潤沢な資金のある国立研究機関様なら、もっとコンパクトに、かつ広範囲をカバーできるものを作れるんじゃないかな? 支払いについては葛之葉で実験して成果を出てからで構わない。アレイアくん、金額については任せていいかい?」
「――では、こちらを」
「……いや、うん。いつもながらの事だけど、いつの間に……」
「メイドですので」
「……メイドって、なんでしたっけ……」
すっと差し出された一枚の紙を見て、ジュリーが半ば呆れ混じりに笑って問いかければ、アレイアが得意の一言を返し、奏がこめかみに指を当てて頭痛を堪えるような表情を浮かべて呟いた。
常人では有り得ない周到さと優秀さを前に、ついに奏の中での『メイド』のゲシュタルト崩壊が引き起こされたようであった。
どこか可哀想なものを見るような目をする大野とは対照的に、ジュリーは奏に対して自分も通った道だよ、とでも言いたげに先駆者らしい余裕のある笑みを浮かべてみせていた。
しかし、そんな空気もアレイアから手渡された紙を見た奏は驚愕し、大野は険しい表情を浮かべるといった形で霧散した。
「技術提供料、六億円……!?」
奏が呟くような声を聞いて、実のところこの場で一番驚いていたのはジュリーであった。
そもそも値段の話など決めていなかった上に、そんな想像もつかないような金額を提示するとは思いもしなかったのである。
しかしアレイアは特に気にした様子もなく説明を始めた。
「何も吹っかけている、という訳ではありません。現在、大和連邦国が法人の魔法研究機関に対して出している補助金額は、実験設備の建設費用も含めて一社あたり一億と二千万円。その成果が必ずしも出なくとも出資される額がそれだけあるのです。であれば、最初から実績が確定している今回の一件に対してその五倍程度は払っていただかなくては割に合いません」
「ですが、それはあくまでも投資であって、個人に払うようなものでは――」
「――いいえ、これも投資の一環と言えます。それだけの資金を得たとしても死蔵される訳ではありませんのでご安心を。そのお金はジュリー様の会社を立ち上げる出資金となり、新たな技術へと繋がります」
「……会社、か。そんなものを興すつもりか。確かにそれなら膨大な金だが、出せない金額ではないな。いや、ちょうどいい塩梅だとも言える、か」
「閣下!?」
険しい表情を浮かべていた大野までもが同意してみせた事に、奏が驚愕の声をあげると、大野は険しい表情から苦笑へと切り替えて肩をすくめてみせた。
「鳴宮、個人が持つ六億円と企業が持つ六億円じゃ、その価値が違う。まして、相手は棄民。研究環境も整ってなけりゃ、資金もないだろうよ。だが、そっちのメイドが言う通り、実績があり、かつ今後も研究を続けてくれるって言うんだ。そもそも、未だソレを開けていないって事を考えろ」
そう言いながら大野が視線を向けたのは、先程からテーブルの中央に置かれたままのアタッシュケースであった。
大野のその言葉を聞いて、ジュリーがアレイアに向かって頷いてみせると、アレイアがそっとアタッシュケースの留め金を開けて中を見せると、三十ミリリットル程度の容量の試験管を思わせる筒が固定されており、その中に青い光を放つ水が注がれている事が窺える。
「これは……、薬品、か?」
「いいや。むしろこれを接種しようものなら、常人はそのまま死ぬかもしれないね。おっと、毒とかではないから安心してくれていいよ」
顔を顰めた奏と大野に向かって、サプライズを仕掛けるのはこんな気分なのかと益体もない事を考えつつ、ジュリーはその正体を口にした。
「これは魔力そのものを液体化したもの、『純魔力液』だよ。これを使って、魔法少女ではなくても魔法攻撃と魔法障壁の発動を可能にする技術を、私は研究している。この意味が、分かるかい?」
それが果たして何を意味しているのかなど、今更ながらに聞かれるまでもないだろうが、今の二人にはジュリーの声がまるで遠い世界の出来事のように聞こえていた。
何故、どうやって、こんなものを手に入れたのか。
そんな疑問すらも未だ二人の頭の中に湧いて来ない程度には、『純魔力液』という存在が齎せる衝撃は大きい。
そんな二人に、容赦なくジュリーは続ける。
「私は棄民となってしまった。が、会社を興して研究した成果を発表していくにあたって、棄民では身分証明ができなくてね。しかし、ただ表に出ていっただけでは再びあの肥溜めのような研究機関に逆戻りとなってしまう。なので、私の身分の再発行と自由の確立。それに、資金の調達をしたくて今回こうして時間をいただいた、という訳だよ」
――キミたちは私の要求を断れないだろう?
言下にそんな本音を滲ませて、ジュリーはにっこりと微笑んでこの場を設けた真意を告げた。




