幕間 とある少女の物語 Ⅲ
一頻り泣くだけ泣いてから頭や身体を洗った後で、シャワールームを出た少女に渡されたのは、真新しい洋服だった。
棄民街での暮らしではまず着ないようなオシャレな服と、ご丁寧に真新しい下着一式まで用意されており、その光景に困惑していると、アレイアが中へと入ってきて、丁寧に下着の付け方、着こなし方を指導される羽目になった。
ついでとばかりに化粧水から乳液を使ったスキンケア、眉と爪の手入れまでをあれよあれよという間に済ませ、姿見の前に連れて来られると、そこにいたのは目鼻立ちのすっきりとした美少女であった。
「……え、っと……」
「やはり私の見立て通り、飾り甲斐がありました。大変よくお似合いです」
澄まし顔で語るアレイアの声を聞いて、少女は恥ずかしそうに俯きながらも、しかし鏡から目を離せずにいた。
目立たないよう、わざと炭を使って薄暗い色合いにしていた髪は今ではすっかり汚れも落ち、コンディショナーまでつけられたせいか、艶を取り戻して本来のミルクティーベージュの色合いを取り戻し、照明に照らされて輝いていた。
スキンケアまで施されたせいか肌も瑞々しさを取り戻しており、ぱっと見ればどこぞのお嬢様然とした見た目である。
もっとも、アレイアから見ればまだまだ手入れが行き届いていない、という印象だ。
長い間ケアされてこなかった肌も髪も、爪も、全てをしっかりと輝きを取り戻すまで、当人の若さも手伝ってひと月程度はかかるだろうと見込んでおり、その間に女性としての諸々を教え込むつもりである。
しばし沈黙したままの少女の意識を引き戻すように、アレイアは少女の視界が向いている姿見に映るような位置に移動して、軽く咳払いをしてみせた。
「さあ、お食事の準備もそろそろ頃合いでしょう。その前に、皆様にこの姿を見せてさしあげましょう」
「――っ、ご、ごめんなさい……! なんだか信じられなくて……」
「良いのですよ。では、参りましょう」
どこかふわふわとした夢の中を進んでいるような、そんな感覚が抜けきらないまま、少女はアレイアに促されてスタッフルームを後にした。
スタッフルームから出て店内に戻ると、カウンターに座っていたリグと、対面式のソファー席に腰掛けていた大地と灯吾が目を向け、そのままピシリと動きを止めた。
褒め言葉の一つでも口にするのがマナーだろうに、とアレイアが呆れて嘆息する中、カウンター越しに作業していたジルが顔をあげ、少女を見て柔らかく笑ってみせた。
「おやおや、これはまた。それがあなたの本来の美しさでしたか。その服もよく似合っておりますよ、お嬢さん」
「あ、あの、ありがとう、ございます……」
少女にとって、異性からの褒め言葉は、その向こう側に下心のようなものが透けているような気がして苦手なものであったが、ジルの下心も一切ない柔らかな態度での褒め言葉は、純粋に嬉しく、頬を染めて俯いた。
そんな態度が服装と相まってお嬢様然としてしまい、リグレッドを筆頭に男性陣はどう声をかけて良いのかも判らないのだろう。
目を泳がせている彼らにアレイアが再び一つ嘆息してから、役立たずと評して彼らからの言葉は待たない事に決めたようだ。
「傷んでしまっている肌や髪はまだまだ十全に、とはいきませんが、一通りのケアはしましたので当然です。これからはご自身でもある程度のケアを行えるよう、指導しなくてはなりませんね」
「ふむ、なるほど。その辺りの事は我々のような男はどうしても疎くなりがちですな」
「心配せずとも私がしっかりと指導しますのでご安心を。さあ、そちらのむさ苦しい上に気の利いた一言も口にできないような至らない者たちと同じ席では落ち着かないでしょうし、こちらへ」
「え、あの、別に一緒でも、私は……」
「なりません。あのような者達に気を使わなくて結構です。どうせ食事が始まったらそちらに夢中になるでしょうし、放っておいて結構です。地方へと行った父親が遠出のノリで買ってお土産に渡される、三日後にはただのゴミとして捨てたくなるような、意味も価値もない置き物と同等の何かと思っておきなさい」
「……ほっほっほ……」
どうやらその一言はジルの胸に何かを訴えたようであった。
聞こえていないフリをしたようではあるものの、手に持っている菜箸が小刻みに震えている事に、アレイアもまた気が付いていないフリを貫いた。
アレイアにとってはもはや少女本人の意思など聞く気はないようで、わざわざ少し離れた席へと少女を誘導して座らせると、絶対零度を彷彿とさせるような目を男達へと向けてから、すっとカウンターの向こう側へと手伝いに回った。
その様子に、リグレッドはやらかしてしまった事に苦笑し、大地と灯吾の二人は棄民街じゃまず見かけない、お嬢様然とした少女が遠くへと連れて行かれてしまった事に肩を落とした。
ともあれ、それはそれ。
保護対象として少女を連れてきた大地と灯吾にはしっかりと報酬を渡すつもりではあるらしく、アレイアは手慣れた手付きでオレンジジュースと、男たちのためにビールを準備してそれぞれのテーブルへと運ぶ。
肩を落としていた男性陣もリグレッドも、目の前に置かれたジョッキになみなみと注がれた冷えたビールに、気分を持ち直したようで、爛々と目を輝かせた。
そんな男たちと同様にジュースに思わず目を見開いている少女の様子を見てから、リグレッドが立ち上がった。
「んじゃ、大地、灯吾。よくやってくれた。今日は俺の奢りだから、満足するまで飲んで食っていってくれ。それと、嬢ちゃん」
「え、あ、はい……っ」
「名前、教えてもらってもいいか?」
「あ……。あの、えっと、リーン、です。リーン・スフレイヴェル、です」
「リーンだな。似合ってるぞ、その格好。正直、変わり過ぎて驚いた」
「あ……、あの、ありがとう、ございます……」
「で、だ。リーンももう聞いてるとは思うが、俺たちはお前さんみたいな行くアテのない連中を保護してるんだ。多少は働いてもらうが、衣食住、それに安全なんかを提供している。リーン、お前さんさえ良ければ、ここに来ないか?」
「え……?」
そもそも保護してもらえる、という意味をまだ心のどこかで理解しきれていなかったのか、リーンはこうして直接的に投げかけられて初めてその言葉の意味を知った。
てっきり保護とは一時的なものを指していて、身寄りや仲間の所まで送り届けるとか、そういった事を指しているのだろうと解釈していたのだ。
「何を仰っているのです、リグレッド様。彼女については、すでに私が保護すると決めております。勝手に外に出て行く選択肢を与えないでください」
「いや、お前さん、リーンのこと気に入り過ぎじゃね……?」
「貴重な可愛い女の子成分ですから。私はむさ苦しい男よりもお嬢様然とした女の子のお世話をしたいのです」
「男だったら犯罪者宣言だからな、それ……」
「重々承知しております。ですが、私は女ですので」
軽口を叩き合うアレイアとリグレッドの言い合いを聞きながら、リーンは思考を巡らせる。
今はただ、この温かさを、手放したくはなかった。
一度は成り行きのままに失ってしまった温かな感覚も、気持ちも、もう一度手放したくなかった。
不安がないと言えば嘘になるが、しかしどんな事をしてでも、この温かな場所にいたいと、そう思って――リーンは口を開いた。
「あの……っ! 私、ここにいたい、です……!」
未だに続いていた応酬が、リーンの言葉でピタリと止んで、次いでリグレッドが嬉しそうに頷き、アレイアもまた「当然です」とでも言いたげに柔らかな視線をリーンへと向けていた。ジルもまた微笑みながら料理を更に盛り付け、何故か灯吾と大地まで嬉しそうにビールジョッキをぶつけ合い、笑っていた。
そんな光景が、どうしようもなく温かかった。
「では、歓迎の料理に相応しいかはともかくとして、準備が整いました。アレイア、配膳をお願いします」
ジルの声と共にテーブルに並べられたのは、厚切りのトンカツが載せられたカレーライスであった。
香ばしく食欲をそそる匂いが、テーブルに置かれた途端、唐突に強く店内に充満していく。
もっとも、店内にそこまでの強烈な匂いがしなかった理由は偶然などではなく、カレーの匂いを敢えて外に放出する事で客を呼び込む事を目的として、密かに換気口に向かって空気の流れを魔法で調整しているせいである。
その範囲外に置かれたカレーはツヤツヤと煌めいているように見えて、男性陣はもちろん、リーンまでもがお皿に目を釘付けにしていた。
そんな中、壁面に取り付けられたオーブンから皿を取り出したジルが、カウンターに座るリーンの前にお皿を置いた。
「ん、ドリアってヤツか? カレー入ってないのか、そっちは」
「いえいえ。そちらの御二人は固形物や刺激の強い料理でも大丈夫でしょうが、リーン嬢には胃に優しいものでないと、と思いまして。カレードリアと言うよりも、ドリアをメインにカレーをほんの少し入れただけのものですが、これなら食べられるかと」
大はしゃぎして声をあげる大地と灯吾を背にリグレッドが料理を見て呟くと、ジルがリーンに向かってそんな事を口にして頷いてみせる。
「あ、あの、ありがとうございます……!」
「いえいえ、熱いので火傷には注意してお召し上がりください」
ご丁寧に木のスプーンが置かれており、リーンはそれを手に持ち、皿を見下ろした。
カレードリアと言えば一般的にチーズの白金色とカレーの茶色がおよそ半々程度に分かれたものが多いが、リーンの前に置かれたカレードリアは、むしろ焦げ目のついたチーズの茶色が目立つ程度に全体的に黄色い色合いをしている。
ゆっくりと、木のスプーンを差し込んで持ち上げてみれば、香ばしい僅かなカレーとホワイトソースの混じった匂いがリーンの鼻腔をくすぐり、きゅうっと切なげにお腹が鳴った。
何度か息を吹きかけて、けれど待ちきれないとばかりにスプーンを口に運んだ。
この数年、温かな食事を食べるなんて、せいぜいがスープを作った時ぐらいのものでしかなかったせいか本人も自覚はなかったが、どうやらリーンは猫舌ではないらしく、一切熱さに驚く素振りもみせず、ただゆっくりと味を堪能するように目を閉じた。
柔らかなホワイトソースに包まれた、決して辛すぎず、けれど主張のあるカレーの風味が口の中に広がっていく。
気がつけば、店内はただスプーンが皿に当たる音と、グラスを置く音ばかりが鳴り響いていた。
口の中に広がる幸せな味を逃したくないとでも言わんばかりに、ただただ食べる事に熱中しているらしい大地と灯吾同様に、リーンもまた黙々と料理を口に運んでいた。
その表情は嬉しそうな笑顔であるのに、目尻には涙を浮かべていて。
気がつけばリーンは、大粒の涙を零していたけれど、アレイアがそんなリーンを男たちの視界から隠すように立って、座るリーンの頭を抱き寄せていた。




