#155 邪神の最後 Ⅷ
――邪神にとってみれば、想定外の事態だった。
リリスの放った【禁呪】、【煌穿空閃】が光の矢となって放たれるその直前、膨大な魔力を集め始めた段階で「アレは危険な攻撃である」といった判断を下すことはできた。
しかし、いざ妨害に移ろうと動きを変える寸前、ルオがまるでその動きを読んでいたかのように防戦一方のカウンターによる多少の反撃ではなく、攻勢へと切り替え、妨害行動を逆に阻害されてしまう。
これにより、邪神側の攻撃に割くリソースを増加させるどころかいっそ減少しかけ、それでも強引に手数だけを増やしてどうにか届かせた攻撃が、ジルとリュリュ、魔法少女らによって封殺され、それもまた届かない。
そして、今。
ついに放たれた【煌穿空閃】を防ごうと両腕を一時的に防御へと回そうとして、しかしそこに涼やかな声が響き渡る。
「させないよ。――【時ノ牢獄】」
防御に回ろうと、警戒を緩めたが故に与えてしまった致命的な隙を与えたのだと涼やかな声で告げるかのように、ルオの声が響き渡った。
光を放ち、眼球に奇妙な文字を浮かべたルオの視線に応えるように中空から空間を割るような穴があちこちに開かれ、そこからジャラジャラと耳障りな音を立てて鎖という鎖が邪神の両腕に巻き付いた。
たとえばこれが物理的な鎖であれば、本来タール状の邪神の身体を縛り上げる事はできない。
しかしこの鎖は神力の形を「縛り上げるもの」としてルオのイメージが反映されただけの幻覚であり、物理的な存在ではないせいか、その粘体であるという特性すら無視して縛り上げた。
心臓部を、その核を守ろうとして腕を動かしていた邪神の動きは阻害され、完全な無防備とはいかないものの、本来想定していた力の半分程度の防御しか実行できない。
――故に、この状況は邪神にとってみれば、想定外の事態だった。
取るに足らないと魔力の量だけで判断したリリスの放つ魔法が、これ程のものである事も。
いざという時に対応しきれるという驕りが生じていた結果、ルオによってそれすらも妨害されてしまい御破算となった事も。
――何よりも、己の存在の内に想定外の事態に対する焦燥、そして今、己の存在が危機に晒されているという事実に対する恐怖を抱くという、このような思考があった事さえも。
本能、あるいは知性の芽生えか。
そういったものを抱いていない、破壊衝動のみで世界を喰らいつ続けてきただけの存在であった己に芽生えた変化。
この状況に対して当惑しつつも、リリスの放った【煌穿空閃】が突き刺さり、荒れ狂う暴風が全てを薙ぎ払わんと暴れ回り、邪神の腕を貫き、広がり、それでもなお一直線に胸元までの道を切り拓く。
しかし、邪神もまた精霊と同様に魔力の集合体とも言える存在であり、その総量は世界を喰らってきた存在であるだけに凄まじい。
ルオに――否、かつてエルトという英雄とイシュトアという女神によって半身として生み出した魔王を封印され、その力の半分近くを消し去られてしまう事となったものの、それでも圧倒的な力を有した存在であると言えた。
徐々に勢いを無くし、胸元まで届かずに消えかけるリリスの魔法。
ルキナという師の全てを懸けてまで放たれたその魔法が、徐々にその勢いを失い、束ねた風が解かれるように散っていく。
――耐えきれた、と。
邪神はその事実に安堵すら覚え、しかしその直後に炎によって生み出された不死鳥が空を舞って迫る事に気が付き、驚愕した。
迫る不死鳥はまるでリリスの想いを、託した力を引き継ぐように解かれた風を集め、より大きく、赤色から黄色へと変化していく。
そしてより高温となり、全てを焼き払い、浄化するかのような美しい白い炎によって生み出された不死鳥が顕現した。
睥睨するように上空に佇む白い炎の不死鳥は、真っ黒な邪神。
それらがまるで対の存在であるかのように睨み合い――不死鳥が真っ直ぐ邪神を貫かんと速度をあげて滑空する。
しかし邪神もまた、この状況を黙って受け入れるつもりはない。
人型の身体を変化させ、胸元にある核を守るようにタール状の肉体ならぬ粘体をより集め、核だけはどうにか守ろうと、まるで生にしがみつくかのような行動を顕著に示す。
しかし、そうして生きようとしてきた生命を喰らってきた存在を許す者など、ここにはいない。
足元から伸びた影が邪神の足元から一瞬で伸び上がり、その肉体を削いだ。
「無粋にも程があるというものよ。子供たちの願いを、想いを、そんな汚い力で妨害しよう、だなんて。――ねぇ、ルオ?」
「――あぁ、そうだね。笑わせるなよ、化け物が」
ルーミアの冷たく言い放たれた一言に返ってきた声は、己の真上からのものだった。
邪神が顔をあげれば、左手の先、【亜空間庫】から覗いた『黄昏』の柄に手を添えたルオが、邪神の上空にて魔力を一息に『黄昏』へと流し込みながら、くるくると横回転しながら引き抜いた。
前方から迫る不死鳥、耐えようとした身体を阻害する影の刃、上空から迫るルオ。
不死鳥はすでに止まる気配はない。
身体を貫く影の刃は、今にもその侵食範囲を広げようとしているかのように押し上がってくる。
そして、空から舞い降りてくる最大の敵。
この三つを前に邪神がこの場に於いて最も警戒したのは、先程から己の存在を脅かしかねないと度々感じさせるルオであった。
百歩譲って白い不死鳥をその身体に受けても生き残る事はできる。
足元の影とて、術者であるルーミアならば相手にしていても問題はない。
しかしルオを自由にしてしまえば、間違いなく己に届き得る一撃を見舞わせてくるであろう事は明白であった。
故に、邪神はルオを殺すと決めて、その口を大きく開き、魔力を凝縮させて黒い砲弾とも言える一撃をルオに当てる事だけに集中し、放った。
さすがにこの状況で防御を捨てるという選択をして自分を狙ってくるとは考えていなかったのか、ルオが回転しながらも目を大きく見開き――そのまま黒い砲弾に呑み込まれた。
「――ッ、ルオ!」
しっかりと直撃し、呑み込んだ事を確認して邪神は歓喜していた。
直後に白い不死鳥ががら空きとなった邪神の胸を貫かんと直撃し、大爆発を引き起こし、邪神の見ている世界を真っ白に染め上げる中にあっても、最大の敵を仕留める事ができたのだと、これで己は消されずに済む、と。
確かに真っ白な炎の威力は凄まじい。
己の身体を構成している身体の粘体――これまで喰らってきた世界の憎悪を、怨嗟を、悲嘆を魔力によって具現化してきた力の集合体すらも、まるで浄化するように溶かし、燃やし尽くそうと暴れ回る。
――しかし、これなら耐えられる。
邪神はそれを悟り、歪に微笑んだ。
数々の英雄を屠り、その記憶を奪ってきたからこそ、先程の瞬間、結末を急いだルオを殺す機会が生まれたのだと、そう思わずにはいられない。
絶好の機会を逃すまいと逃げ道のない空に飛び出し、身を隠さずに堂々と晒してみせたのは、見た目通りの子供らしい勝利を目前にして気が逸ったのだろう、と。
粘体の身体はずいぶんと剥がされてしまったが、核には僅かに傷がついた程度。
この程度であれば時間をかければ復活する事も可能だ。
――あとはルーミアを殺し、その他をゆっくりと殺していけばいい。
そんな事を考えて動き出そうと白い炎を吹き飛ばしたところで――邪神はまるで人間のように、その目を大きく見開いた。
「――妙に人間臭く物事を考え、思考し、判断するようになったみたいだけれど……それがかえって、お前の弱さになっている事に気付かなかったみたいだね。ちょっとしたフェイントの一つ、気を惹くだけで引っかかるんだから。人間の真似でもして、強くなったつもりかい?」
邪神の正面、上空に佇みながら片手を上にあげたルオが、まるで呆れを孕んだような、子供を大人が嗜めるような態度で口を開いた。
白い炎に包まれ、荒れ狂う炎の魔力の中に身を置いていたせいか、巨大な魔法陣を周囲に数十と浮かべているルオがそちらにいる事も、狙われている事にも気が付いていなかったのだろう。
瞳に奇妙な文字を浮かべ、神眼を発動させているルオによって空間を裂いて次々と現れた鎖に邪神の身体が次々と縛り上げられていく中で、獣が威嚇するよう大口を開け、その口さえも鎖によって塞がれていく。
そうしてようやく、気が付いた。
何故邪神は自我を生み出し、思考するようになったのかを。
――殺されると、恐怖したからだ。
何千年という時間、変わらずに在り続けられたのは、結局のところ変化を必要としなかったからに他ならない。
安全な場所から世界を喰らっていくという特性と、世界と世界の境界を破壊するという、理の外側にいる存在だからこそずっと安全圏にいられたのだから、変わる必要はなかった。
――しかし、最初に恐怖したのは、変化を齎すきっかけは何だったか。
それは二千年前の出来事だと、邪神は思う。
魔王という半身に力を注いだのは、謂わば驕りだ。
世界を喰らうという事にすでに慣れてしまい、人の意識を、記憶を、技術を喰らってきたからこそ、邪神はそこに刺激を求め、魔王という名のもう一人の自分を生み出し、世界を喰らおうとした。
しかし結果はどうだ。
勇者と聖女、そして奇妙な男によって倒され、女神によって自分は完全に消し去られてしまった。
――始まりは、あの時だった。
邪神という存在が「変化しなくてはならない」と思ったのは、あの戦いからだ。
そうして膨大な時間をかけて、今に至ったというのに――――
「――こうしてお前の最期に立ち会うのは、二度目だね」
胸元から露出した核は、赤い光を放って煌々と輝く燃える宝玉のようなものであった。
それを冷たい目で見つめてからその核へと向けて手を翳すルオが語った言葉が何を言っているのか、本質は理解できずとも、言葉の意味だけは理解できた。
――何を言っている、と。
邪神はこの窮地に至って、疑問を覚えて動きを止めた。
「聖女じゃなくて僕みたいな男で悪いけれど、永い永い引きこもり生活と洒落込もうじゃないか――」
――その言葉を、邪神は知っていた。
あの時、半身を封じたあの男が告げた言葉。
「――なんて、あの時は言ったけれど、今回はお前と一緒にいるつもりはないんだ。お前は一人で消えるんだよ」
――コレが、あの男だ。
そう気が付いた時には、すでにルオは魔法を完成させていた。
「……ようやく、終わりだね」
無感情に、感情の一つも見せようとはせずにルオは告げる。
時間にして二千年弱。
それだけの時間、ルオ自身も気付かずに続いていた因縁の終わりが目の前にあるというのに、しかしルオの表情は変わらない。
――神殺し。
その瞬間が今、訪れようとしている。
邪神もそれに気が付いているのか、逃れようとして暴れ回ろうと身を捩るが、しかしその身体は【時ノ牢獄】によって生み出された鎖を軋ませるだけで、大して動く事はない。
「――さようなら」
その一言と共に、浮かび上がっていた数多の魔法陣から暴獣が飛び出して邪神の思考は何もない無の中に囚われたのであった。




