#145 心の在り方 Ⅰ
「邪神に感情を引っ張られている……?」
「はい。お言葉ですが、らしくない戦い方になっている印象です。――リュリュ、唯希。時間稼ぎを」
「承知しました」
「はいっ!」
ジルの声に呼応するようにジルの足元に伸びた影から飛び出してきたリュリュと唯希の二人が、騎士種の群れと対峙した。
ただただ頭の中をジルの言葉がぐるぐると回ってしまい、その光景を呆然と見つめてから、僕はジルへと顔を向けた。
――僕が、邪神に引っ張られている……?
どういう意味でそう言ったのか、その真意を訊ねるように視線を向ければ、ジルは微笑んだ。
「我が主様の戦いは冷静に、ボードゲームを俯瞰し駒を進めるような戦い方をなさる印象でございます。しかしながら、今は盤上の駒のように前しか見ていない印象。焦っておられる……否、苛立っておられるのではありませんか?」
「……そう見えるかい?」
「はい。どうにも感情が先行しているように見えております。常に泰然とされていらっしゃるお姿とは全く異なる印象ですな。ルーミア様の作る舞台に内心では同情こそすれど、冷静に状況を見つめてこなす事ができたのは、偏に我が主様が常に物事を俯瞰してきたからこそできた芸当であるはず。しかしながら、今の我が主様はどうにも力んでいる、とでも言いましょうか。故に、らしくない、と」
「……それは……」
「相手が邪神であり、貴方様がかつて死力を尽くし、信頼できる仲間と共にようやく倒せた相手であるから、でしょうか?」
「……ッ」
……そうかもしれない。
前世でシオンとルメリアという、勇者と聖女という信頼できる仲間と共に倒した魔王。
そんな存在が、かつての魔王と同等、それ以上に邪神そのものであるという事もあり、戦いに対して気負っている部分がなかったと言えば嘘になる。
何故ならここには……――
「――何故ならここには、勇者も聖女もいないから、と?」
――まるで僕の心を読んでいるかのように告げてみせたジルの言葉に、思わず目を剥いた。
そんな僕を見て、ジルはどこか眩しいものを見るかのように目を細め、微笑んだ。
「貴方様は、勇者と聖女を信頼しておられたのでしょうな。だからこそ、格上の相手であろうと怯まなかったのでしょう。信頼できる仲間を生かす為にこそ、貴方様は常に冷静で在り続けようとなさってきた。しかし、今の貴方様のお傍に勇者も、聖女もおりません」
「……そうだね」
「人の上に立ち、部下を従え、信頼して託す、という事に貴方様は不慣れなご様子。しかし、それも仕方のないこと。これまでは『何かがあれば自分が動けばいい』と、貴方様はそう考えておられた。信頼して託すというよりも、むしろ失敗を取り戻す事ができるからこそ、貴方様は我々に託すという方法を取っておられたのですから」
ぐうの音も出ないとは、まさにこの事なのだろうな、と思う。
今まで僕は、ジルの言う通り『何かがあれば自分が動けばいい』と考えていたし、方針転換をしようと何をしようと、取り戻せばいいと考えていたのは事実だ。
もちろん、ルーミアについてはある程度の信頼は寄せている。
けれど、ジルやアレイア、リュリュに対して僕は常に『ルーミアが信頼しているから』という理由で仕事を任せるだけに留まってきて、僕自身が信頼して託す、という訳ではなかった。
唯希に対してだってそうだ。
彼女は僕にとってみればまだ子供で、実力だってまだまだ成長途中。
見守ろうとは思うけれど、託そうとは思っていない。
「しかし今、邪神という超越した存在を前に、貴方様は焦っておられる。心から信頼した仲間がいない状況、かつてどうしようもなく苦戦した相手。そのような状況であるが故に、無意識に感情が揺らぎ、邪神の力の一部を身に受けた事もあって心が乱されているのでしょう」
……なるほど。
だから『邪神に引っ張られている』という訳か。
信頼できる勇者も聖女もいない。
そんな僕の前に現れた、かつての魔王の姿をした邪神。
心のどこかで、『僕がなんとかしなくちゃいけない』という考えがあって、勇者も聖女もいないこの状況に焦っていたせいで、僕の力の一部ともなっている邪神が抱く怒りに引っ張られ、焦っていた。
「もともとの性分でもあるのでしょう。我が主様、貴方様は他人を受け入れるにあたって、表向きに見せている一線の更に深いところに、もう一つの線引きをされていらっしゃるように思えます。そのもう一つの線引きを越えた勇者と聖女と、その線を未だ越えられない我々に対してでは、扱いが異なるのも道理、という訳ですな」
――あぁ、そうだった。
僕が現代日本という国で生きていた頃、毒親というどうしようもない人間の下に生まれてしまった僕は、家族であろうと、血が繋がっていようともする人間がいる事を知り、他者を信頼できずに徹底的に他者に対して線引きして過ごしていたのだから。
思えば、前世の世界で出会った師匠のおかげで人並み程度の付き合い方、線引きというもの知り、シオンやルメリアに対しても最初はその線の中でのみ接していた。
そんな捻くれた性格をした僕を拾い、育て、様々な事を教えてくれた師匠。
そしてそんな僕に対しても真っ直ぐにぶつかってくるシオンと、そんなシオンを支えようとしながらも、自分もまた真っ直ぐ突き進もうとするルメリアという二人だけが、僕にとっての本当の線引きの内側にいる存在だった。
けれどもう、僕には本当の一線の内側にいると言えるような存在はいない。
魔王と共に眠ってしまい、二千年という時間が流れ、シオンとルメリアもまた己の人生を終えて眠りに就いている。
師匠だって、さすがに二千年経ってもまだ生きている、なんて事はないだろうと思う。不老不死ではあるけれど、あの人もどこか生きる事に飽いているような、そんな空気を纏っていたから。
今の僕にとって、その線の最も近いところにいるのはルーミアだろう。
今はその線引きをまだ越えているとは言い難いけれど、そのすぐ近くにいるのだと思う。
――あぁ、だからか。
だから僕は、ルーミアが積極的にスキンシップを図ってきても、何も思わないのか。
神になったからとか、身体が子供だからとか関係なく、ただただ感情を寄せるほど気を許しきっていない、という事だったのか。
すとんと胸の中に何かが落ちるような、そんな感覚だ。
「……ごめんよ、ジル。僕は――」
「――あぁ、謝罪は結構でございます。そもそも、これまで私共が信頼をおいていただける程の大きな事を為したとは思っておりませぬゆえ」
「へ……?」
「私共が貴方様に忠誠を誓い、眷属となった時点で私共が信頼を置いていただける機会には飢えておりましたので、今回の事は私にとっては重畳とも言えます。信頼されるに値する存在であると、見せつけてご覧にいれましょう」
「ちょっと?」
好々爺然として、人生経験豊富な人材としてアドバイスを行っていたジルとは違う、好戦的な笑みが浮かぶ。
あ、そうだった。
ジルってさっきからそんな感じだったね。
「それに、貴方様が己の抱えているものに気付いていただけたのであれば、きっとルーミア様がお喜びになる事でしょう。あの御方は眠りに就く前もずっと未婚でしたからな。あれだけの時間を生きていながらも婚姻どころか、恋愛すら――」
「――へぇ。ジルってば、私がいないからって言いたい放題言ってくれるじゃない……?」
ビクッ、とジルの肩が震えた。
まるで油を差していない錆びついたロボットのような、なんて表現が似合うようなぎこちない動きで、声の方向――己の足元から伸びていた影を見つめると、その影が一気に大きく広がって、ルーミア、そしてアレイアが姿を現した。
ジル、汗がダラダラと垂れてるよ。
「……いえ、その……」
「……はあ。冗談よ。実際、あなたからは何度もそういう類の事でごちゃごちゃ言われてきた訳だしね」
「我が主様、お待たせいたしました。まずはテーブルセットをご用意いたしますか?」
「いや、邪神と戦闘中なんだけど?」
なんだろう、一気にシリアスな感じが吹き飛んだというか、そんな気分である。
というかアレイア、テーブルを影から出さないでもらえる?
今戦闘中だよ? 最終決戦の真っ最中とも言えるような状況だよ?
なんでそんな渋々戻してんの?
「待たせてごめんなさいね、ルオ」
「いや、大丈夫だよ。むしろ色々と気付く事ができたからね」
「……へぇ? ジル、あとで報告してね」
「畏まりました」
……僕のプライバシーとかまるっと無視して伝わりそうなんだけど。
いや、まあいいか。
「それにしても、アレが邪神なのね。確かに手数というか、人手が必要そうね」
「うん、そうだね。騎士種もかなり強化されているみたいなんだけど、一体ずつの力はたかが知れている」
しれっとリュリュと唯希が戦う戦線に参戦したジルと、元々戦っていた二人。
そんな三人に殺到する騎士種の群れの向こう側で佇む邪神の姿を見ていたルーミアが、ふっと視線を切って僕を真っ直ぐ見つめた。
「そう。……それで、ルオ。私たちは何をすればいいかしら?」
「……騎士種が邪魔過ぎる。邪神との戦いに集中したいから、邪神への道を切り開いてほしい。でも、見ての通りの数がいるからね。大規模な魔法で薙ぎ払うような余裕が生まれるとは思わない方がいいよ。何せ、手数が足りない」
「分かったわ。私達に任せて、ルオは邪神に集中して」
「そうしてくれるなら有り難いけれど……どうにかなるのかい?」
あっさりと言い切ってみせるとは思っていなかっただけに、さすがに驚いた。
まあルーミアの実力、それにジル達のあの様子を見る限り、僕と邪神の一騎打ちなんていう構図を生み出すのは難しいとしても、時間稼ぎ程度ならしてくれそうではあるけれど……なんとなく彼女の物言いからは一騎打ちの構図すら生み出しそうな、そんな自信に溢れているように思える。
「言ったでしょう? 『手数にはアテがある』って。それを使うわ。――それより、良かったの?」
「何がだい?」
「魔法少女たちの事よ。事情を知らせて協力してもらえば良かったじゃないの」
「……あの子たちは、自分たちの世界の為に戦った。それがたとえ、僕らによって調整された舞台の上であったとしても、大事な人を、世界を守る為に戦い続け、そしてようやく戦いから解放される事になるんだ。この戦いに巻き込むつもりはないよ」
「……甘いわね、ルオ」
「どうだろうね。そもそも僕らは彼女たちを騙していたんだから、糾弾こそされど協力してくれるとは思えないけどね。ようやく掴み取った平和だ。何も知らず、平和の中で生きられるようになれば、それでいい。やっと年相応に生きられるというのなら、それに越した事はないよ」
「そう。――らしいわよ、あなた達」
唐突に振り返り、自分の足元から伸びている影に向かってルーミアが語りかける。
そんな影から浮かび上がるように現れたのは、凛央魔法少女訓練校の生徒たち、全員の姿であった。




