閑話 組織設立 Ⅲ
何かから逃げなくちゃ、と心が叫んでいるようだった。
逸る気持ちに衝動的に押し出されるように、駆け出した。
何処から逃げればいいのか、何処に向かって逃げればいいのかも分からない。
私の足が先へと進んでいるのかも分からないような、光のない真っ暗な闇の中を駆けていく。
そうして私は、突如として襲った浮遊感に捕らわれた。
落ちる、と感じた途端に、目を覚ました。
呼吸が乱れ、身体も汗ばむ中、夢だったのかと安堵してゆっくりと呼吸を整えていく。
「――やあ、目が覚めたみたいだね」
声がした方向を慌てて振り返ると、そこには一人の男の子が椅子に腰掛けて、スマホをいじっていたのか、スマホを手に持ったままこちらに目を向けていた。
――キレイな子だな、とそう思った。
銀色の髪に深く濃い藍色の瞳を持った少年は、まるで作り物めいた美しさを持った子だった。
性別がどうとか、何者か誰何するよりも以前に、その印象が何よりも強くて、つい言葉を失った。
「僕のこと、思い出せるかい?」
「……だい、じょうぶ、です……。おぼえ、て、ます……」
そう、そうだった。
私は両親に売られて、捕まっていたのだ。
あの時は滲んだ視界の中でぼやけた輪郭しか見えなかったし、意識が朦朧としていたけれど……、その声を、私は憶えている。
目の前にいる子こそが、私をあの時助けてくれた子だ。
「別に敬語じゃなくていいよ。それより、はい、お水」
「あ、りがと……」
「返事はいいから、飲むといいよ。大丈夫、ゆっくりでいいよ」
安心させるように優しく告げてくれる声にこくりと頷いて、渡された水を口に運んだ。
一口、ほんのりと甘さのある爽やかな風味があるんだ、と思って飲み込んだ。
その瞬間――私はコップに残っていたそれを勢いよく、気がつけば一気飲みするような勢いで飲み干していた。
乾いた砂地に水が沁み込むような、そんな感覚とでも言うべきだろうか。
止まらず、ただただ身体が欲している事を訴えて、意思とは裏腹に勢い良く飲み干してしまっていたらしい。
名残惜しさすら覚えながらコップを下げて顔を向けていると、再びキレイな子が口を開いた。
「魔法薬って言ってね。とある薬草を媒体にして水に魔力を溶け込ませ、治癒の効果を付与して作るんだ。身体の調子はどうだい? 少し手足を動かしたりしてみてもらえるかな?」
言われるままベッドから立ち上がろうとして、私は気が付いた。
私の身体につけられた外傷はもちろん、魔法少女に成り立てだった頃にルイナーとの戦いで傷ついてしまって、右足に残っていたピリピリとする麻痺したような感触すら消えている事に。
戸惑いながらも立ち上がってみせたところで、思わず言葉が零れた。
「……治ってる……」
「うん、なら良かったよ。食事を持って来てもらうから、それまで少しお話しようか」
そう言うと、口調や態度から多分男の子だと思うキレイな子は、僅かに魔力を込めてパチンと指を鳴らしてみせた。
魔力……やっぱり、夢じゃなかったんだ。
私を縛っていた鎖や足元に描かれていた魔法陣をあっさりと消し去ってしまった時も思ったけれど、この子、魔法を使えるんだ。
そんな風に考えていると、すぐに扉からノックの音が聞こえてきた。
男の子が返事をすると、扉が開かれ、そこからロマンスグレーという言葉が似合いそうな執事服を着ているモノクルをつけた男性と、それに付き従うメイド服を着た女性が部屋に入ってくる。
……執事と、メイドさん……?
いかにもコスプレと言いたくなるような服装の二人がいきなり姿を現したと言うのに、その二人のあまりにも堂に入った所作や態度に、何故かは分からないけど二人が本物だと、確信と言うべきか、納得させられてしまう。
「我が主様、お呼びでございますかな?」
「あー、その呼び方で定着するのは勘弁してほしいんだけどさ……」
「それが御命令とあらば」
ピンと指先を伸ばして心臓に当てるように胸に手を当てながら頭を下げてみせる執事の男性に、少年は困ったように苦笑を浮かべた。
すごい、なんか本当に本物っぽい……。
アニメなんかで見た事ある執事が、本当にいるとこんな感じなんだ。
「いや、命令というか、まぁ好きにしてくれればいいけどね……。とにかく、この子に何か食べられるものを用意してもらえるかい?」
「そちらにすでに準備は整っております」
「えっ、ちょっ、早すぎない? というかいつの間に……」
執事服の男性がすっと手で示した方を見れば、いつの間にか扉の前にいたはずのメイドさんがそちらに移動を済ませていて、テーブルの横に佇んでいた。
テーブルにはすでに食事はもちろん、カトラリー類までしっかりと用意されていて、まるでここでずっと待っていたかのように自然と立っている。
そんな姿に驚いてしまったけれど、でも、この男の子は主様と呼ばれているのに驚いている。
どういう事なんだろう?
まるで慣れていないように見えるけど……。
そんな事を考えていると、メイド服の女性は楚々とした仕草で頭を下げた。
「我が主様のメイドとして、当然でございます。さぁ、お客様。どうぞこちらへ」
「……えっと、まぁ早いに越した事はないし、いいけどね……。という訳だから、そっちの椅子に座って食べてくれるかな。僕らは食べ終わってからまた来るから」
「え……あの、はい……」
未だ唖然としていた私に向かって、男の子は私が気遣わないようにと微笑んでそんな事を言ってくれるけれど……心細いし、できれば一緒にいて欲しいと思ってしまった。
けれど……だからって食べている姿を見られているのもなんだか落ち着かないだろうし、この男の子も退屈だろうし……。
そんな風に迷いながらも返事をすると、執事服の男性が微かに私に向かって頷いてみせた。
「我が主様も、よろしければご同席ください。飲み物と軽食をご用意いたしました」
「へ? って、ホントに用意してるし……」
そんな会話を聞いて再び私もテーブルに目を向けると、一瞬テーブルから目を離しただけなのに、いつの間にかティーカップとティーポット、それにクッキーとサンドイッチがそこには用意されていた。
ま、またいつの間にか準備してる……。
思わず唖然としてしまう私を見て、メイド服の女性が再びゆっくりと頭を下げる。
「我が主様のメイドとして、当然でございます」
「当然でもなんでもないからね? というか、キミ、ちょっとドヤ顔してなかった?」
……うん、確かにそれが当然だったら、メイドっていう存在のハードルがおかしい事になりそう。
思わず男の子のツッコミを聞いて、私もくすっとしてしまった。
そんな私を見て、男の子はふっと小さく微笑んだ。
「良かった、笑える程度には心も壊れていなかったんだね」
「え……?」
「いや、なんでもないよ。さあ、せっかく準備してくれているんだから、食べようか。まずはスープから飲むといいよ。胃がビックリするだろうからね」
「……えっと、いただき、ます……」
机の上に置かれたスープは、コーンスープだった。
甘さのある匂いに惹かれるようにぐぅっとお腹が鳴ってしまって、恥ずかしくなって顔を隠すように俯いてから、置かれていたスプーンを手に取って、口に運ぶ。
――温かい……。
胸の内側から満たされるような暖かさが広がって、芯まで冷え切ってしまっていた身体に血が通っていくような、そんな気がした。
その温もりが欲しくて、もっと感じていたくて、スプーンを口に運ぶ。
――本当は、私も理解していたんだ。
私の両親が、私をお金を生む何かのように扱っていた事は。
ルイナー討伐の報酬で得るお金が大きな金額である事を知って以来、父は働かずにお酒ばかり飲むようになっていたし、母は派手な化粧をして家事もせずに出かけてばかり。
元々、生活は苦しかった。
そんな生活でも私は、家が、家族が大好きだったから。
だから、魔法少女になった事で家族の暮らしを守っていけるならと、無邪気に喜んだ。
けれど――私が、魔法少女になった事で家族をバラバラにしてしまったんだ。
だから、私が頑張って支えなくちゃと思って、積極的にルイナー討伐に力を入れていた。
ここ数ヶ月で父と母の喧嘩が絶えなくなった。
父と母はどこかで借金を増やしてしまっていたらしくて、お金がないと苛立っていた。
なのに、二週間ぐらい前にピタリと喧嘩が止んだ。
両親が珍しく上機嫌で、私に学校の事や友達の事を聞いて、私も「悪い夢だったんだ、目が覚めたんだ」と思った。
両親の変貌に喜ぶ私に、私の契約した精霊のフォルは、やんわりと私に釘を差してくれていた。
いくら両親でも、なんでも話してしまわない方がいい、と。
でも、少しずつ話す度に、嬉しそうに笑ってくれていたから。
ずっとそうなってくれる事も、昔のように笑って話せる事を、望んでいたから。
私はフォルに言われた言葉を聞きながらも、どこかで聞き流してしまっていた。
フォルの言葉の意味も、私が致命的なミスをしていた事も、気付いた時には、すでに私は窮地に追いやられていたのだから。
あの日、私は学校から帰ったあと、友達が家に来て私を呼んでいると聞かされた。
実際に何度か、いつもの待ち合わせ場所で学校が終わってから待ち合わせして遊んだ事のある友達だったから、それは全然不思議な事でも、おかしな事でもなかった。
だから、私はいつもの待ち合わせ場所に向かった。
家から少し離れた、公園に。
そこには誰もいなくて、いつも通り公園のブランコに向かったところで、車が何台も走ってきて公園の出入り口を塞ぐように停まった。
車から一斉に降りてきたのは、奇妙な銃を持った大人の男たちだった。
そんな男たちを引き連れてやって来た男の人に、真実を告げられた。
茫然自失としてしまった私を守ろうとして姿を現したフォルが張った結界すら貫通して、それはフォルにも、私にも直撃した。
力が入らなくなって、フォルとの繋がりがどんどん薄くなっていくような気がして、私は倒れ込みながらもフォルへと手を伸ばしたけれど、フォルは、まるで溶け込むように消えていった。
◆ ◆ ◆
出されたコーンスープを口に運んでいる内に、しゃくり上げるように泣き始めた少女の姿を見て、僕は泣き止ませるつもりもなく、ただ静かに彼女自身が記憶を整理できるまで、用意された席で落ち着くまで待つ事を選んだ。
執事服に身を包んだ、ルーミアの右腕と言われる夜魔の民――ジル。
そんなジルの娘の一人である、メイド服に身を包んだ、こちらも夜魔の民であるアレイア。
二人に頼んで、夜魔の民の血を用いてもらい、記憶をわざと浅く思い出させるという方向に思考を誘導させた成果はあったようだ。
悲しい記憶や辛い記憶を忘れる事は、できない。
蓋をして思い出さないように生きていく事もできるかもしれないけれど、それでは極端に人は弱くなる。
ちょっとした拍子に心が揺らいでしまい、ひび割れて入った亀裂がどんどん広がってしまう。
胸の内にすぐにでも着火する爆弾を抱えているようなものだ。
だから、彼女には酷な事かもしれないが、呑み込んで、乗り越えてもらうしかない。
それで全てが解決する、なんて事はないけれど、連れて来た以上は乗り越えられるだけの心の強さを手に入れてもらう必要がある。
せめて泣き出してしまう時ぐらいは、誰も見ていない所で泣いた方がいいだろうと考えていたのだけれど……どうやらジルとアレイアは僕とは反対の考えだったらしい。
わざわざ僕を留まらせた二人の連携については、事前に僕も何も聞いていなかったし。
ちらりと壁際に控えている二人に視線を向ければ、くいっと顎で少女を指し示された。
しゃくり上げていた少女も、まだ鼻は鳴らしているし泣いてはいるのだろうけれど、話しかけられる程度には落ち着いていた。
……はあ。
こういうのは同性のアレイアのような存在がやった方がいいと思っていたのに。
まぁ、助け出したのは僕だし、連れてきたのも僕だしね。
慰めになるとは思えないけれど、伝えるべき事は伝えておこう。
「キミを攫った一味は、僕が殺した」
淡々と告げると、少女はピクリと肩を震わせた。
「けれど、そいつらは所詮、魔法少女を狙った組織の指示に従っただけの末端でしかない。根本的な解決には至っていないね。だから、本当の意味で根絶やしにするなら、指示を出した連中諸共を壊滅させる必要がある、という訳だよ」
机の上に置かれていたクッキーを指先でつまみ上げて口に運ぶ。
うん、美味しい。
「予め言っておくけれど、僕は決して正義の味方じゃないんだ。キミは確かに僕の手によって救われたけれど、そこは勘違いしない方がいい。僕は必要とあらば人を殺す事も厭わない」
この子にとって、僕はピンチから救ってくれた正義のヒーローみたいに思えているかもしれない。
かと言って、品行方正、清廉潔白な絵に描いたような人物像を勝手に抱かれても困る。
だから、現実を突き付ける。
「キミを助けた時にも言った通り、復讐するなら力を貸そう。行くアテがないなら、僕と一緒にいてもいい。何を選ぼうと咎めない。冷たい言い方かもしれないけれど、僕は全ての答えを与えるつもりはないんだ。キミが、キミ自身が進む道を選ぶといいよ」
紅茶を口に運んで、椅子から立ち上がってジルとアレイアへと振り返る。
「食事の世話は任せるよ。僕は僕で、そろそろ約束の時間になるしね」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
そろそろリグも仲間を連れて来ている事だろう。
二人に世話を任せ、僕は転移魔法を使って棄民街へと移動した。
――ルーミアに頼まれて地下を改装したり、ルーミアの部下を召喚したり。
魔法少女を救って面倒を見る事になったりと、慌ただしい日々は続いていく。
徐々に僕も色々と動きを本格化させるための準備を進めつつ、情勢を見守りながら裏で動いている内に、季節はすっかり夏を迎えていた。




