#114 もう一つのプロローグ
連邦軍と神宣院、そして魔法少女らが魔王城への侵攻を開始しようとしていた、その頃。
とある山奥にひっそりと佇む研究所の中、薄暗い部屋の一室で一人の男が苛立ちを隠そうともせずに机の上に置かれたものを手で払うように落とし、机を殴りつけ、本棚を引き倒してと暴れ回りながら、頭を掻き毟っていた。
「ナゼだ、なぜ……何故ぇッ! ダれだ、誰、が! ワたシの邪魔をしている! せ、セせ、せっかく生み出しタ、『固定召喚門』! が! 消エていルッ! ありエなイ、有り得ないダロうッ! そんなこと、あっていいハズがなイッ!」
目覚めたと同時に己のやるべき事を理解し、指定していた日時に合わせて動いていた、下級神の分体。
薄暗い部屋の中で微かに見えたその顔はまるで侵食したように黒い皮膚を覗かせていて、その上には眩い赤色が脈動しながら根を伸ばすように広がっていた。
「ひ、ひヒ……っ! まタ、だ。また邪魔者ダ! 世界ヲ喰いたイ、のニ、塗り潰しテしまイタイのにいいぃぃぃ……また、まタ、またダ……! あのオトコ、あの男と! め、ガミ! 女神がああぁぁッ!」
お世辞にも正気を保てているとは言い難い、分体の様子。
発狂するかのように身体を引き攣らせたかと思えば、人の姿がぼこりと膨らむように歪み、また元に戻る。その度に言葉を引き伸ばしてみたり、支離滅裂な言葉を口にして怒り、そして脈絡なく笑う。
その度に身体の黒ずんだ変色は更に広がっているようで、残された人間の顔の部分だけを愉悦に染めて歪ませた。
「あ、アァ、そウ、そうだ。邪魔するなら、今度ォこそ殺す。ころすコロス殺す。絶対に殺す。あは……ぁ、あの、そ、空。空に、うか、浮かんだ、し、ししし、シロに、いる、メがみ、コロス」
「――はて、我が主様のお城に女神がいる、というのは寡聞にして存じ上げませんな」
「ッ、だ、誰、ダぁッ!?」
薄暗い室内に突然響き渡った声に、分体が声のした後方へと振り返る。
すると奥から革靴を踏み鳴らすようなコツコツと乾いた足音が聞こえてきて、薄暗い室内をぼんやりと照らしていた明かりによって、一人の老齢の男性が浮かび上がった。
「名を訊ねるのであれば、まずは御自分から……と、言いたいところではありますが、その有様では常識など残ってはおりますまい。元々己が何者であったのかも忘れてしまっていそうな気がしますが、いかがですかな?」
「は、へ?」
「ふむ。やはりその見た目、邪神によって侵食されつつある、というところでしょうな。おおかた、分体とやらに邪神の力を融合させ少しでも邪神の力を我が物にしようと企んで、逆に呑み込まれた、というところでしょうか。いやはや、愚者の末路というべきか、妄執の成れの果てとでも言うべきか」
暗闇の中から現れた老齢の男性――ジル・オルベールは目の前にいる下級審の分体、その姿と先程からの言動から現実を推察した上で、呆れ混じりため息を零した。
その表情は『月光』にいる時とはまた違う。
鋭い眼光を宿して灰色の瞳が真っ直ぐ下級神の分体を射抜くように真っ直ぐ睨みつけており、醸し出される強者の気配に下級神の分体は潜在的な恐怖を感じたのか、思わず半歩程度後退った。
「この一月ほどあなた様を見張っておりましたが、どうやら他に打てる手はないご様子。設置していた『境界門』も無限に生み出せるという訳ではなく、限りもあったようですなぁ。毎日毎日、このようなところで一人暴れまわるだけ。出尽くした、と思っても?」
「え、な、ななな、何をォォ、言ってテテルんだ。手、テ、て、テ」
「ふむ、よもや会話にもなりそうにありませんな……。――さて、いかがなさいますかな、我が主様」
虚空に向かって問いかけるようにジルが声をかけると、ちょうどそのタイミングで一人の少年が姿を現した。
白銀の髪に紫紺の瞳、およそ十歳程度の性差のあまり感じられない容姿ではあるものの、服装や態度からかろうじて男の子である事が窺える程度といったところだろう。
虚空から現れた少年――ルオに対し、ジルは恭しく頭を下げてみせた。
「……なんというか、夢の残骸とでも言うべき存在だね」
「夢、でございますか?」
「下級神が愚かにも身の丈に合わない邪神の力に固執し、妄執に取り憑かれた末路だからね。分体だったからこうなった、というよりも、本体であったとしてもこうなってしまった可能性が高いね」
「――ガアアアァァァッ!? は、なせェッ! ふ、ふふ、不敬で、あ、アァ、ル、ぞ!」
淡々と説明しながらルオは神眼を使って下級神の分体の動きを封じるべく、虚空を割って鎖を喚び出した。
かつて前世の世界で魔王を封じた時と同じ、【時ノ牢獄】を用いて喚び出された鎖は暴れまわる下級神の身体を雁字搦めに絡め取り、その口すらも封じた。
「さすがでございます」
「またまた。キミでもコイツぐらいならすぐに処分できただろ? そこまで凄いことでもないかな」
「いえいえ、私がアレと戦う事になれば、殺す事は容易くともこうも簡単に捕縛するという事はなかなか」
「あぁ、そういう意味ね。まあでも、それはコイツを過大評価してるんじゃないかな。コイツの力はせいぜいこの世界の騎士種のルイナーと同等程度しかないよ。そこに邪神の力が溶け込んでるから……まあ多少は厄介さが増したぐらいかな」
じゃらり、と鎖を揺らす音を奏でながら身を捩る分体に近寄ったルオがまじまじと分体の状態を観察すると、まるで獰猛な獣のように唸りながらルオに噛みつこうと顔を寄せようとして、その度に鎖を揺らす。
ゾンビ化した人間を相手にしてるような気分だ、などと思いつつルオは呆れたように目を細めた。
「所詮は分体だね。邪神の力に完全に侵食されて、我を忘れている有様じゃないか。まあ、これが魔法少女たちの前に現れていたら多少は面倒だったかもしれないけど」
「下級神の分体とあれば、てっきり亜神クラスの力は有しているのかと思っておりましたが……その程度なので?」
「相手は下級神だからね。その程度が関の山だったってとこだろうね」
「なるほど、神の分体と聞いて少々身構えておりましたが。ならば、私めでも充分であったやもしれませぬな」
「ま、そうだね。正式に眷属化したルーミアは今じゃ中級神に迫る力を持っているし、キミ達だってもう下級神と同等クラスの力を持っているって話だからね。ま、僕もコレがどの程度の力を持っているのか、背後に何者かの干渉がないかを確認したかったから、呼んでくれて助かったよ」
ルオが想定していた最悪のケースは、下級神の思惑に乗じて中級神以上の存在が裏で糸を引いているケースだ。
その場合、邪神だけに集中できず、多少なりとも苦労するであろうと考えていた。
しかし蓋を開けてみれば下級神が邪神の力に喰われ、かろうじて自我を保っているか保っていないかの境界上にあり、『転移門』を生み出せたのも邪神の力と下級神の分体としての力を合わせて初めて行えたのであろう事が窺えた。
――であれば、もはや大した脅威であるとは言えない。
さっさと排除してしまい、邪神討滅に集中できるよう環境を整えた方が良いかと考えたルオは、【時ノ牢獄】の続きとなる詠唱を口にした。
「――【暴獣の贄】」
かつてルーミアや魔法少女の前で見せた、【時ノ牢獄】によって繋がれた存在を喰らう、真っ黒な竜の口が虚空を突き破って現れると同時に、下級神の分体と邪神の力の融合したその存在を一息に喰らってみせ、そのまま虚空へと消えていく。
暴獣と呼ばれたソレの正体を、ルオは知らない。
しかしルオが下級神の分体、そして邪神を暴獣に喰わせるという選択を選んだことは、結果的に正解であったと言える。
何せ暴獣はイシュトア自身が生み出した『終焉の黒魔竜』と呼ばれる、全てを無に還す為の存在であり、竜の形をしている現象とでも言うような代物である。故に、邪神に侵食されている下級神の分体を『終焉の黒魔竜』によって消し去ったという選択は、下手に魔法を使って倒すよりも確実に邪神に有効な手段であったと言える。
そうした背景を知らないルオではあるが、しっかりと処分しきれたらしい事を確認して一つため息を吐いた。
「はあ。やっと片付いたよ。ジル、ありがとう」
「いえいえ、当然の事をしたまでにございます。お疲れ様でございました、我が主様」
「一応この内部の本とか、使えそうなものがあったら持って帰ってきてもらえるかな? 僕は明日の準備があるから、先に戻らせてもらうよ」
「畏まりました。そういえば明日でございますな」
「うん、作戦は事前の予定通りみたいだね。ようやく終われそうな目処が立った気分だよ」
明日、というのは連邦軍と神宣院による魔王城のある浮遊大陸への侵攻作戦を指していた。
天照を利用してその麾下にある神宣院を動かす。
それと同時に、ジュリーを使って対迎撃型ルイナーに使える兵器を譲る。
自分で自分の城に攻め込んでくる事になる人類を相手にここまでお膳立てして準備を進めているという不思議な状況に思うところがない訳ではなかったが、ともあれこうして準備は整い、全てが動き出そうとしている。
そして何より――――
「早く終わらせないと、唯希が怒るからね。眷属化を受け入れてくれたのに眷属化してもらえないままだ、って」
――――ルオにとっては邪神よりもそっちの問題の方が大きいと言えた。
というのも、ルオの眷属になってしまえば、その時点で対ルイナー戦に直接手を出して干渉する事はできなくなってしまう。
いくら凛央の魔法少女たちが騎士種にそれなりに対抗できるとは言っても、当日は騎士種のルイナーを一斉解放する予定であり、唯希のように魔法少女として動けるスパイ的な役割を果たせる人材を今は手放したくないというのがルオの本音である。
そこでルオは唯希の眷属化を、この騒動が終わったタイミングで、という形で先延ばしさせてもらっているのである。
――唯希がヤンデレみたいになるのが先か、邪神を討滅するのが先か。
後者の方が大きな目標でありゴールでもあるのに、ルオは前者の方が厄介な事態である実感しつつ、密かにため息を吐き出した。




