#098 魔王 Ⅱ
――まるで何かの模型や玩具のようだ。
フィーリスは自らの身体に走った衝撃によって身体が倒れるその瞬間に見た、眼前を飛んでいく腕のような何かを見て呆然としながらそんな事を思った。
「――ぐ……ッ、あああぁぁぁッ!」
どさりと倒れ込んだフィーリスが見たものは、自分の腕ではなかった。
先程まで自分がいたその場所に倒れて腕を抑えて叫ぶエルフィンが、血を出しながら表情を歪ませて叫ぶ姿がそこにはあった。
しかしどちらが傷付いたのかなど、突如として襲いかかってきた何者には関係がなかったようだ。
ルイナーと思しき人間大のソレは、振り下ろした剣をそのまま返すように掲げてエルフィンに突き立てようと構えた。
フィーリスは事ここに至ってようやく理解した。
あの瞬間、エルフィンは必死に立ち上がり、動けずにいた自分を助ける為に横合いから腕を伸ばして自分を押し飛ばしたのだと。
その結果として腕を斬り飛ばされてしまい、今、命を刈り取られようとしているのだ、と。
「――ッ! させませんわッ!」
フィーリスが咄嗟に腕を伸ばし、固有魔法を放つ。
彼女の固有魔法は不可視の衝撃を与えるというものであり、発動までの時間も非常に短い。
直接襲いかかってきたルイナーの身体を吹き飛ばした。
狙いは幸いにも上手くいった。
だがルイナーは突然自らの身体に襲いかかる衝撃に後方に身体を吹き飛ばされ、しかし数メートルと離れる前に中空で制止し、動きを止める。
さすがに一撃で倒しきれるとは思っていなかったが、しかし僅かに距離を取れたおかげで自らの体勢を整える事はできた。
「アルテさん、聞こえますか!? オウカさん、こちらの声は聞こえていますか!? エルフィンさんが大怪我を負いました、至急救援をお願いいたしますわ! アルテさん! オウカさん!」
通信は途絶えているようで、返事はない。
ただただその場にはフィーリスの声だけが虚しく響き渡っていて、この声が届いているかはフィーリスには判断できなかった。
――このままでは、エルフィンは命を落としてしまう。
しかも無様にも隙を晒してしまい、身動きすら取れなかった自分を庇ったせいで。
自らの責を負い自らが命を落とすだけならば、許容もできた。納得もできただろう。
しかし自らの所為で他者が命を落とすなど、未埜瀬の名を背負い、上流階級に生き、自らは他者を守るべき立場であるという信念を抱いているフィーリスにはどうしようもなく許容できないものであった。
責任を、他人の命を背負う事に恐怖している訳ではない。
自らの矜持が守る側でありながらも守られてしまったという、その事実を赦さない。
――故に、動揺や焦燥を噛み殺し、フィーリスはこの緊急事態においても冷静に思考を巡らせていた。
前方のルイナーを睥睨しつつ、彼我の戦力差を冷静に分析する。
最善を、最短でのエルフィンに対するカレスの治療を行えるルートを割り出すにあたり、このままエルフィンを連れて逃走するという選択肢は即座に潰えた。
何せ相手の速度は尋常ではない。
背を向ければ即座に肉薄され、自分諸共エルフィンの命すらも危険に晒すだろう。
であれば、最善とは何か。
目の前の異形の化け物を倒しきり、安全を確保することはもちろん最善ではある。
しかし、目の前の化け物の実力はまず間違いなく一人でどうにかできるような実力ではないだろうとフィーリスは悟っていた。
――先程の通信、聞き取れないものであったはずですけれど、リリスさんの名前が出ていましたわね。であれば、リリスさんは恐らくこちらに向かって来ているはず。
そこまで考えてフィーリスが取った行動。
それは――目の前の存在を少しでもこの場に縫い止め、時間を稼ぐこと。
刹那の中でその答えを導き出し、フィーリスは小さく口を開いた。
「エルフィンさん、もうすぐ救援が来ます。それまで、布を当てて傷口をできるだけ心臓より高い位置へ」
エルフィンを背に庇ったままフィーリスは短くそれだけを告げて、即座に魔力を一気に練り上げた。
同時に手を翳し、前方の人型のルイナーに対して衝撃を打ち込み、後方へと吹き飛ばす。
少しでもエルフィンから距離を取り、戦いの余波に巻き込まないように移動するには、自らが囮になり、注意を逸らし、無視できない存在になればいい。
「――はああぁぁッ!」
練り上げた魔力を固有魔法に変換し、周辺の木々も巻き込んで衝撃魔法を放つ。
単発で押し出しきれないならばと考えたフィーリスが魔力をそのまま更に注ぎ込み、強引に見えない壁を叩きつけ、さらに押し出すような形で魔法を多重に展開していく。
感情に呼応するかのように、魔力が解放されていく。
その威力は先程リリスが放った第七階梯魔法にも近い程の規模となって、周辺を巻き込み、激しい音と共に木々が軋み、圧し折れ、ルイナーの身体をさらに後方へと押し出していく。
まさに容赦なく全てを吹き飛ばす暴威となって顕現した。
「絶対に、これ以上先には――エルフィンさんの元へは進ませませんわ!」
裂帛の気合とも取れるフィーリスの叫びと共に耐えていたルイナーもまた後方に吹き飛ばされ、フィーリスは即座に空に向かって光球を打ち出した。
「オウカさん、アルテさん! 聞こえているかは判りませんが、エルフィンさんが危険な状態ですわ! 聞こえていたらすぐに救援を――!」
「――フィーリス!」
「――ッ、アルテさん! エルフィンさんをカレスさんの元へ!」
通信が聞こえていたという訳ではなかったようだが、異常を察知したオウカの指示か、アルテがその場へと姿を現した。
経緯はともかく、今は安堵して胸を撫で下ろしている時間すら惜しいと言わんばかりにフィーリスが矢継ぎ早に告げる。
アルテもフィーリスの指差す先――腕が落ち、倒れているエルフィンの姿を見て目を大きく見開きつつも、その血の量と尋常ではない事態に思考を停止させる事だけは避けた。
まずは何をするにしても急がなければマズいと考えるなり、アルテは即座に斬り飛ばされたエルフィンの腕を拾い上げつつ、エルフィンの元へと転移した。
「ん! フィーリスも!」
退避する準備はできた、とアルテは訴える。
しかしフィーリスはそんなアルテとアルテの横で倒れたままのエルフィンには背を向けたまま動こうとはしなかった。
「わたくしはあの人型ルイナーを足止めしますわ。アレは放っておけるような存在ではありません。足止めしなければ、無為に犠牲が増えてしまいます」
「でも……!」
アルテにはフィーリスが睨みつける先に何がいるのかまでは目視できていない。
しかし、感じられる恐ろしい程の魔力の塊に、それが尋常ではない何者かであるという事は理解できていた。
このまま残れば、自分も、フィーリスも殺されるのではないか。
そんな事を本能で感じ取れる程度に、その力の差を明確に感じ取れる。
だからこそ声をかけるも、返ってきたのは鋭い声であった。
「いいからお行きなさい! 今は問答している暇なんてありません! エルフィンさんを、早く!」
それでもフィーリスは残ると告げ、その意思を曲げようとはしない。
アルテには、そんなフィーリスの叫びはただの意地でも強がりでもない、確固たる決意を持って告げられたものだと理解できた。
「――……ッ、分かった。仲間を連れてくる」
「いえ、結構ですわ。それより、一斉に攻撃できるよう準備を進めておいてくださいませ。わたくしが倒すか、倒れた時のために」
「……ッ」
「期待していますわ、アルテさん」
アルテにはそれ以上の追求はできなかった。
今、この瞬間に己がやるべき事を、理解しているからこそ。
こんな時、自分にもっと力があればと泣き出したくなる。
けれど、無い物ねだりをしてどうにかなるような状況ではないと、自分の中の冷静な自分が告げる。
自分にできること――即ち、フィーリスの稼いだ僅かな時間を無駄にはしないようにと歯噛みしながら、転移魔法を発動して姿を消した。
魔法の発動を感じ取ったフィーリスは、言葉にならずにただ「ありがとう」とだけ口を動かした。
カレスの治癒魔法がどこまでのものかは分からないが、しかし飛ばされた腕等が無事であれば治るというケースも実際にルイナーの騒動で一般人の治癒を行った際に成功している事もあったため、上手くいってほしいとは思いつつも、もしも腕が無理でも、命を落とさずには済むはずだ。
カレスの治癒魔法はそれ程までの奇跡としか言いようがない、まさしく魔法そのものと言える事を、フィーリスはよくよく理解している。実際、過去にその場面に立ち会ったのだから。
アルテとて、迷う事なくエルフィンの腕を拾っていた事からもそれをよく憶えていたのだろう。
ともあれ、これで一人、犠牲を最小限に抑える事はできたと言える。
「……さて、と。あとはわたくし自身が生きて帰る事ができるかどうか、ですわね」
舞い上がる砂塵の向こう側、軍が用意した投光器に照らされたその場所はただでさえ薄暗く、エルフィンが構築した光球によって確保されていた視界は今や最悪と言っても良い。
フィーリスはそれでもなお、まっすぐその存在を睥睨していた。
荒れ狂うような魔力の塊である先程の何者かがいる事は嫌という程に理解でき、圧倒的な重圧感を放つ存在であるおかげで、視界が悪くとも肌が存在を感じ取っているのだから。
間違いなく自分よりも強い存在だ。
何せエルフィンの腕が飛ぶその寸前、自分の魔力障壁すらあっさりと斬り裂いてきたような相手だ。
自分の攻撃も、ルイナーの一等級ですら耐えられない程の威力の衝撃の魔法も、あの何者かに致命傷を与えられた、とはどうしても思えなかった。
やがて煙の中に、赤い光がちらつき始める。
戻ってきたらしいその存在は余裕を示すかのようにゆっくりと歩いてきて、剣を下から上へと振り上げる。
刹那、もうもうと立ち上がっていた砂塵が吹き飛ばされ、その存在の姿が改めてフィーリスの前で顕になった。
その存在は剣を振るうと、エルフィンの存在を確認するかのように目を向けるも、いなくなった事が不思議だったのか、僅かに小首を傾げてみせた。
まるで感情や知恵といったものが存在しているようなその反応に、ぞわりとフィーリスの背に冷たいものが走る。
――コイツはここで殺さなくてはならない。
フィーリスは何故か、そんな確信を抱いた。
先程までは人に対する被害があまりにも大きくなるであろう事から、ただただ魔力が大きく強いと感じたから。
しかし今は、その時の確信とはまた違った意味で。
――あまりにも、危険な存在だ。
ルイナーという存在は本能だけで襲いかかってくるような存在であり、知恵も思考もない。だが、それでも人間よりも圧倒的に強い存在だ。
そんな存在が、物事を考える知恵をつけているとなれば、それは即ち何を意味しているのかと言えば、詰まるところルイナーが人間の上位種とも言えるような存在になりかねない、という事だ。
そんな存在に昇華されてしまえば恐らく抗う事すらできず、人間が滅ぼされるに違いない。
よって、ここでなんとしても仕留めなければならないとフィーリスは改めて強く決意する。
「――命を懸けたダンスの申し込み、とでも言いましょうか。是非、どちらかが尽き果てるまでお付き合いくださいな」
フィーリスの命を懸けた戦いは、先程の衝撃の魔法を無遠慮に全方位に放つという凄まじい破壊と共に幕を開けた。




