#077 アンダーグラウンド Ⅲ
「目を瞑っていてほしい、とはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味です。貴方様は事実を知りながら、余計な口出しをしないこと。それを条件にしてくれるのであれば、私共が懇意にしているとあるコミュニティ――いえ、組織をご紹介しましょう」
「……組織、か。それはマスター、あなたの所属先ではないと?」
「えぇ、正確に言えばビジネスパートナーという立場でしょうか。棄民街に店を出すにあたって知己を得た組織でしてな。人数はさほど多くはありませんが、誰もが素晴らしい実力を持った組織と手を組んでおります」
ジルの申し出は、大野にとっても悩ましいものであった。
ジルの後ろ盾となっている主の素性が判らず、かつ協力者であるという組織という存在が、どこかの紐付きではないかどうかも判然としないとなると、二つ返事で答える訳にもいかないというのが本音であった。
しかし一方で、ジルのこの提案を一度保留にしてジルの背後を洗おうとしても無駄だろうという事も推測できた。
何せ相手は棄民街を拠点に動いている。
文字通り行政が放棄した地域での活動を調べようと人員を派遣しようにも、棄民街に紛れ込んで情報を収集するというのは現実的ではない。棄民街は閉じたコミュニティの集まりであり、人を紛れさせるという捜査がそもそも難しい地域だからだ。
過去に何度か棄民街の調査を行った事もあったが、ある者は逃げるように戻って恐怖と苦痛を訴え、またある者は冷たい姿で見つかってと散々な結末を迎えてしまったという事実もある。
そうした背景から、完全に手を出せない地域になったという経緯もあった。
要するに、大野の目的を考えればここで断ってしまうのはあまりにも惜しい選択であると言えた。
棄民街に太いパイプを有し、かつ力を持つ組織と繋がれるというのは、まさに自分が欲しているものを最速かつ安全に手に入れられる機会であるとも言える。
「……前向きに検討している。正直に言えば、俺にとっても非常にありがたい提案ではあるのだ。しかし、立場というものがある」
「それはもちろん理解しておりますとも。気になる事があれば、お答えできるものであればお答えいたしましょう」
「……まず一つ。あなたの仲間、それに取引している組織とやらはこの壱ノ葉以外の棄民街にも手を伸ばしているのか?」
「えぇ、もちろん。それぞれに潜伏、あるいは取引を行って情報を収集した上で選別中ですな」
「ほう……。ちなみに、選別とは?」
「文字通りの意味ですよ。『排除すべき存在であるかどうか』、です」
「――ッ!?」
さらりと告げるにしてはあまりにも衝撃的な一言に目を剥く大野を見て、しかしジルは一切表情も声色も変える事はなく淡々と続けた。
「棄民街の秩序は暴力によって保たれる。分かりやすい意味での弱肉強食の世界、とでも言いましょうか。そのため、棄民街では力を持ったコミュニティによってその場所のルールというものが必然的に変わるのです。女を差し出して傘下に加わり、断れば皆殺しといった組織が牛耳っているケースもあれば、秩序を維持するコミュニティが頂点にあり、暴力で支配しようというコミュニティと敵対している、といったケースもあります」
「……その前者こそが、『排除すべき存在である』と?」
「前者であれば排除は確定でしょうな。ですが、後者であったとしても場合によっては対象になります」
「何故だ? 良心的なコミュニティを壊滅させる必要性はないのではないか?」
前者については排除されるべきだと言われれば大野にも納得できた。
実際に法に照らし合わせたとしても犯罪行為を行うような者たちであり、力に物を言わせて支配しようという在り方は褒められたものではないと言えるからだ。
しかし、秩序を守るようなコミュニティであるのなら、良心的とも言えるものであるのなら、特に排除するべき対象になるとは言えないのではないか。
そう考えての質問を投げかけた大野に対し、ジルは冷たい目を向けた。
「秩序を守るコミュニティというものは厄介です。何せ彼らは『自分たちこそが正義』という信念で動いている。そういった信念を持った者たちは、自らが掲げた『正義』と違えるものを決して認めようとしないという性質である事も珍しくはありません――」
人間という生き物は『正義』という大義名分を得ると歯止めが利かなくなる傾向にある生き物だ。
歴史の中でも『正義の名のもとに』という大義名分を得た大軍勢が虐殺、あるいは粛清といったものを行うケースも多く、その過激さは歴史が証明している。
そうした過激さはそうした大量殺戮だけではない。
現代で言えば、ネット社会が良い例だとも言えるだろう。
自分が正しい、自分に『正義』があるからと他者を貶め、他者を笑い者にするような者たち。
芸能人、あるいは人気者にスキャンダルがあれば、水を得た魚のように活き活きと批難の言葉を浴びせ、書き込む者たち。
悪意を正当化するための「信じていたのに裏切られた」という一方的な、勝手な信頼さえも『自分は正しい』という偽りの正義、大義名分とする者たち。
「――軽々しく『正義』を掲げる者とはただの厄介な存在であり、そこに貫くべき道理すらないのであれば、先程言った前者となんら変わらない。ただ『正義』を言い分に身勝手を正当化するだけの『排除すべき存在』なのですよ。そのように『正義』を掲げるのであれば、その掲げた『正義』に殉じるのもまた本望でしょう」
そんな『正義』がごろごろと転がっているこの世界は、ジルにとってみれば歪に過ぎる。
確かにこの世界は便利は便利ではあるのかもしれないが、そういう意味では元いた世界の方がよほど健全だとさえ思った程であった。
もちろん、ジルはそれを大野には語らないが。
「……過激、いや、苛烈だな」
「ほっほっ、しかし棄民街を纏めるというのはそういう事なのです。綺麗事だけでは足りず、凝り固まった価値観、人の手で造られた『正義』は通用しない場所でございます。故に、真っ直ぐな性根の貴方様のような御人には御しきれないでしょうなぁ」
「……ふん、言ってくれるな」
「おや、お気に障りましたかな?」
「いや、むしろ中途半端に綺麗事を言われるよりも余程信頼できるというものだ」
人間が固執するものは何も『正義』だけではない。
前例、或いは悪しき習慣に固執する無能な存在などもそうだ。
そうしたものに固執し、現状を見極めずに何も手を打たなかった者たちを排除し、軍内部を粛清したのは他でもない大野自身である。
清濁併せ呑むという意味では、ある意味大野にとっては今更の事だ。
動揺こそしたものの、ジルの言い分は理解できないものではなかった。
「……もう一つ聞きたい」
「どうぞ」
「その組織とやらは海外の紐付きではないという確証はあるか?」
「えぇ、私共が取引している組織はそういった裏がない事は判明しております。事実として、この壱ノ葉にあった海外組織から息のかかっていたコミュニティは彼らによって文字通り壊滅させられていますしね」
「そうか……」
もしもここで大野が取引を承諾したとすれば、各地の棄民街を牛耳る存在はその組織、そしてその組織と直接的に繋がっている目の前にいるジルの背後にいる存在になるだろう、と大野は考えている。
コミュニティが乱立しているが故に話が通せない今の状況より余程まとまってくれた方が有り難いのは確かだが、棄民街に住まう者たちを抱え込まれ、一大勢力となりかねない危険性がある。
だからこそ、容易に頷く事は難しい。まして、その組織が海外の息がかかった存在であれば尚の事だ。
しかし、ここで大野が手を引いたとしても、きっと目の前の男の背後にいる何者かと、ビジネスパートナーであるという組織はやり通すであろう事は自明の理だ。
何せすでに選別は開始されているというのだから。
であれば、ここで自らも関与して影響を及ぼせる方が良いとも言える。
手を引いて敵対する事も不可能ではないが、今はまず、棄民街を統制できる存在をしっかりと据え置き、その者と交渉する方が圧倒的に効率が良いとも言えた。
故に、大野は決断した。
「――いいだろう。その取引に応じよう」
大野にとっては一大決心である。
清濁併せ呑み、棄民とは言え人が多く死ぬかもしれないが、しかし今は誰かが手を出さなくてはならない状況である事に変わりない。
故に、その覚悟を決めた。
大和連邦軍の大将である大野。
そして――『暁星』が表の世界に関与する事が決定した瞬間であった。




