#069 【魔女】 Ⅰ
「……さて、そろそろ良さそうね」
魔法少女たち、そして鹿月兄妹が立ち去る姿を見送る形となった白髪の女――ルーミアは、油断なく未だに自らを見つめるリリスを前に先程までの悪意に染まった危険な空気を霧散させつつ、ルーミアはリリスへと顔を向けた。
「あなたが表に出てきている間は身体の持ち主に会話は聞こえているのかしら?」
「……いいや、聞こえないよ」
「ふぅん? 眠らせているの?」
「この子はまだ子供で器も精神も未熟だからね。アタシの力の影響を下手に受けないように、簡易封印状態で眠らせているよ」
「そう、なら良かったわ。リュリュ」
「――はい」
「な……ッ!?」
「椅子とテーブル、あと紅茶の用意を」
短く一言名前を読んだルーミアに応えたのは、いつの間にか部屋の隅に立っていたメイドの女性、リュリュであった。
さも最初からいたかのように顔を伏せつつ佇み控えるリュリュの声を聞いて、ようやく存在に気が付いたらしいリリスではあったが、しかしリュリュはリリスに構うつもりはないようで、リリスに視線を向ける事すらなく言われるままに自らの足元の影からテーブルや椅子などを準備し始める。
――アレが破天荒だなんて話は聞いた事はある。が、それにしちゃ自由過ぎるんじゃないかい……?
今しがた命のやり取りをしていたような相手。
リリスの内側にいた存在にとって、ルーミアは決して知らない存在ではないが、それにしても先程の騒動がまるでなかった事かのように振る舞われている現状には、さすがに困惑を隠しきれなかった。
そんなリリスへと向けて、ルーミアが今更ながらに思い出したかのように口を開いた。
「あぁ、ごめんなさいね。安心していいわ、さっきのは演技よ」
「……は? なんだって?」
演技と聞いて理解が及ばず、リリスが怪訝な表情を浮かべて問い返せば、ルーミアは肩をすくめてみせた。
「普通に考えれば分かるでしょう? 私が本当に殺すつもりだったら、あの瞬間、全員の心臓を影で貫くか、耐えられない程の魔法を一撃放てばそれでおしまい。わざわざ会話に興じて脅すような真似、する必要ある?」
「……言われてみりゃそうだね……。だったら引っ込みたいところなんだけどね」
「あら、それはダメよ。せっかくなんだから、お互いの情報のすり合わせぐらい必要でしょう?」
「用意が整いました」
すり合わせとは、と問おうとしたところでリュリュの声がリリスの言葉を遮った。
言われてそちらを見やれば、先程影から出された椅子とテーブル、そして軽食が置かれ、その横に置かれたワゴンの上にはティーポットとカップが用意されていた。
いつの間に用意したのか、そもそも用意するにしてもこんな所でお茶をしようとはどういう思考なのかと半ば呆れつつ、しかしここで呆然と突っ立っているのもどうかと思いながら、リリスは勧められるがままに椅子へと腰を下ろした。
ティーカップに紅茶が注がれ、テーブルに置かれた紅茶。
その色は非常に薄っすらと淡い桜色をしていて、その色合いにリリスが思わずといった様子で目を見開いた。
「……これは」
「あら、知っているの?」
ティーカップに注がれた紅茶。
その珍しさを知る者ならば、誰だって似たような反応を示すだろうと呆れつつ、リリスは告げた。
「『仙界宝桃』、だったかい。あらゆる毒をも癒やすという桃の木の葉を使った特殊な紅茶だったね。独特な甘く爽やかな香りが特徴的で、毒も仕込めず、飲めば半日程度はあらゆる毒を無効化する事から、王族なんかの『親愛の一杯』とか言われてたはずだよ」
「ふぅん、そんな文化は知らないわね。私は単純にこの香りと味が好きだから飲んでいるだけよ?」
「はん、そうだろうね。そもそも夜魔に毒なんて効きやしないじゃないか」
「ふふ、それもそうね」
柔らかく躱されてしまったが、知っていて出してきたのだろうとリリスの中にいた存在はルーミアとリュリュの思惑を推察していた。
敵として現れ、殺されるかもしれないと理解したからこそクラリスの精神を封じ、自分が表に出る事で時間を稼ごうとしたぐらいだ。そんな存在から普通の紅茶を差し出されても、口にする気などなかったというのが本音である。
だが、そこでわざわざ『仙界宝桃』の木、それも若木の葉からしか出ない効能と味わいを持つため、王侯貴族がよほど信頼を得たい相手にしか出さないと言われている紅茶を出してきたという事は、本当に害意はないのだろう、と当たりをつけるには充分な理由だった。
紅茶を口に運べば、甘さは僅かに残るものの、爽やかな風味が鼻腔を抜けていく。
僅かな余韻に浸ってつい頬が緩んでしまいそうになり、リリスは慌てて表情を取り繕うが、ルーミアは目を閉じて紅茶の味を堪能していた。
その姿に毒気を抜かれていく気分で目を向けているリリスに対し、ルーミアはティーカップを音を立てずに置いてみせてから「どうぞ」と言わんばかりに質問の言葉を待つような姿勢で沈黙する。
「……ルーミア・エト・ク・ローンベルク。亡国ローンベルクの初代女王にして夜魔の真祖。しかし王位を譲った後、世界に飽いて自らを次元の狭間に封じ、眠ったと聞いているよ」
「えぇ、正解よ。私がその本人」
隠すつもりなど一切ないようで、ルーミアはまるで当たり前の事を答えるような物言いで肯定を示した。
その姿に動揺よりも困惑、困惑よりも呆れにも似た何かが浮かび上がり、リリスが溜息を溢した。
「……はあ。本当に、なんでそんなのが本当にこの世界にいるんだい」
「あら、失礼ね。そういうあなたこそ、私と大して変わらない立場にいたでしょうに」
「……ッ、アタシの正体を見破ったのかい?」
「えぇ、その物言いと態度。私の顔を知っている事も含めれば、ある程度の推測はできるもの」
「顔については肖像画を見た、と言っても?」
「それはないわね。肖像画じゃ私の魅力が劣るとかなんとか言って、この子たちが許さなかったもの」
ルーミアがティーカップに注がれた紅茶を口元へ運びつつ視線で訴えた先、ワゴンの前で佇むリュリュが当然だとでも言いたげに頷いてみせる姿を見て、リリスは苦笑しつつも納得する。
こちらの世界の写真などであれば納得したかもしれないが、如何せんローンベルクの全盛期、肖像画というものはどうしたって技術レベルが発達しきっているとは言えなかった。
ルーミアのように完成された美女を肖像画にするというのはなかなかに難しく、そうなれば必然的に画家の腕を疑われるような事態にもなりかねない。
描いた結果画家のプライドが折れ、依頼主であるルーミアの側近たちからも作品への不満が生じる。そんな負の連鎖を引き起こすかのように書き手と依頼主に発生するとなれば、いっそ肖像画を描かせないという選択は多くの不幸を招かずに済んだと言えただろうとリリスは素直に納得した。
「あなた、【暝天の魔女】、ルキナね」
「……はあ。やりにくいったらないね、まったく。見た目も違うし、魔力の質だってずいぶんと変わっていると思うんだけどね」
「その程度で誤魔化せると思ったの? 見た目と魔力が変わっても、本質というものはそうそう変わらないわ」
こうもあっさりと自分の正体を見抜かれ、断言されてしまっては隠したところで為す術もない。
投げやりな気分で言ってみれば、それにすらルーミアは得意げになって答えた。
「ふふふ、お久しぶりね。向こうの名前で呼びましょうか?」
「……アタシはとうに死んだ身だ、そんな名前も【暝天】も墓の中に埋められてきたもんだよ。何の因果か、まさかアタシが英霊なんぞになって、しかもこれまでとは全く違う世界にやって来る事になるなんて思いもしなかったけどね」
友人をからかうかのようにくすくすと笑うルーミアに対し、リリス――否、リリスの身体を操っているルキナは不快さを滲ませるような表情を浮かべながら溜息混じりに答えてみせた。
そんな二人の様子を見ていたリュリュは、表情にこそ出さなかったものの、【暝天の魔女】という単語に思わず息を呑んだ。
かつてルーミアやリュリュらオルベール家が生きていた時代、魔女と呼ばれる者たちは世界に数十人は確認されていた。
魔女とは即ち、魔法の極地に辿り着いた者達にのみ与えられ、魔法神より加護を受けて初めて名乗る事が許される一種の称号であり、元々人間であった者もいればそうではない者もいた。
そんな魔女には、その実力で位が分けられており、その位を示すのが二つ名であった。
下位から中位の魔女はそれぞれの得意とする魔法などを表した二つ名が与えられるが、魔女の中でも上位十名にのみ、共通して【天】の称号が与えられるのだ。
そんな【天】の称号を持つ魔女の中でも、最も高い実力を持つ上位三名こそが【破天】、【蒼天】、そして【暝天】だ。
魔女の中でも別格と称された存在たち。
【破天】のルーミア。
【蒼天】のリファ。
【暝天】のルキナ。
魔女の最高峰である【破天】とはルーミアが戴いた二つ名だ。
そして、古い同胞とでも言うべき【暝天の魔女】こそが目の前の少女だと言う。
互いに交流はあまりなく、用事があってお互いに近くに寄って時間があれば挨拶をする、という程度のもので、顔見知り程度の付き合いではあると聞いていたが、リュリュはルーミア以外の魔女には会った事がなかった。
そんな存在と、これまで自分たちがいた世界とは全く異なる世界で顔を合わせる事になるなんて、驚かずにいろという方が無理な話であった。
一方、それはルキナも同様であった。
戦う意思を見せていたかと思えば、演技だと言い放つ【破天】のルーミアを前に、ルキナは小さく溜息を吐いて意識を切り替えた。
もっとも、場合によってはリリスを死なせてしまうかもしれないと気を張っていたのに、と恨み言の一つも言いたい気分ではあるが。
「で、どうなっているんだい。なんでアンタがこの世界に、それも元の姿のままいるんだい? それに、なんで魔法少女を襲う――いや、襲う演技なんてものをしたのかも聞かせてもらいたいもんだね」
「んー、そうねぇ……。ねぇ、【暝天】の。あなた、私に協力する気はあるかしら?」
「質問してるのはこっちなんだけどね。ま、事と次第によってはというヤツだね。アンタがこの身体の持ち主に危害を加える訳じゃなく、かつこの子の為になるなら、といったところだね」
「あら、ずいぶんと可愛がっているのね」
「成り行きとは言っても、一心同体の身の上さ。それに、この子も色々抱えて育ってきてるからね。情が移ったんだろうさ」
「へぇ、珍しいこともあるわね。私たちの中で一番身近に人を寄せ付けようともしなかったのは、他ならぬあなただったのに」
ルーミアのこの言葉は皮肉ではなく本心から出たものであった。
【魔女】という存在になると、存在の格が引き上げられ、常人たちとは異なる時を生きる事になる。不老ではあるが不死ではない、という表現が最も正しく、見た目は若々しいものであっても、それが数十年、数百年という時が経とうと維持されるようになるのだ。
そのため、別離が悲しいと思い、心をすり減らしていく者も少なくなかった。
そういう意味で、【破天】のルーミアと他【蒼天】、【暝天】の三人の魔女の己の在り方や周囲との関係性は全く異なる方向性だったと言える。
ルーミアはオルベール家の忠誠を受け取り、仕え続ける事を認めた。
ここにはいない【蒼天】は弟子を多く育て、その一族と共に姿を消した。
そして【暝天】は、誰とも深くは関わり合いになろうとはせず、一人で居続ける事を選んでいた。
そんな【暝天】が特定の誰かに寄り添うような真似をするなんて、と心から驚いているルーミアを他所に、ルキナは続けた。
「……アンタが眠ってから、アタシも一人だけ、弟子を拾ったのさ」
「……えぇっ!? あなたが弟子を!?」
「あぁ、そうさ。アタシが今こうしてこの子の世話を見てやろうって気になったのは、あの馬鹿弟子の影響だろうね」
それは懐かしむような、それでいて今にも泣き出してしまいそうな目だと、ルーミアは思った。