第一話 前哨戦
夜の潮風を頬に浴びながら鏡子は煙草をふかした。気持ちのいい風である。昼間のジメジメとした日差しは何処へやら。涼しい風が彼女の長い髪を靡かせる。
艶やかな黒絹の髪は夜の闇とは違い見る者を惹き付ける妖艶さを持っている。顔は極めて白く髪色とのコントラストは絵で描かれた理想の女性の如くであり、リアリティに欠けた幻想的な顔立ちだ。
理屈で説明できない彼女の美しさに目を奪われると首から下のラフな格好が嫌でも目に付く。くたびれた白いシャツに足のラインが分からない紺のゆったりとしたスラックス。肩に掛けられた深い緑のジャケットから醸し出されているのは男性的な雰囲気だ。
しかし、それでも彼女のプロポーションを正しく認識できない男はいないだろう。一見男性のように見えるが、異性を惹きつけてやまない色香がある。そんな不思議な女性である。
時刻は深夜二時を超えている。海沿いの倉庫街は波の音しか聞こえない。鏡子のほかにその場所をぶらつく者はいない。鏡子自身もそう思い込むと、なんだか楽しい気持ちになった。
誰もが寝静まった夜を一人歩くというちょっとした背徳感が彼女には心地よかった。
クラシックのメロディが頭の中をめぐる。鏡子は特にクラシックに詳しいというわけではない。お気に入りの作曲家や曲があるわけでもないが、聞いているとなぜか気持ちを整理できる。
多忙な仕事を終わらせた後の気分転換に夜の潮風を浴び、一人の時間に浸り、クラシックを頭の中で再生し、ニコチンを摂取する。彼女がなしえる幸福を一気に堪能した。
ずっとこのままでいたい————
鏡子は純粋に子供が夢を見るようにあり得ない希望を抱いた。
ごり————
ごり、ごり——————
ごり、ごり、ごり———————
硬い何かが擦れ合う音。
骨が動く音に似ている。外れた骨を元に戻す音。若しくはその逆か。
鏡子が目を細めた先に黒い影がある。夜の闇に紛れることができないほどの殺気を放った漆黒の外套が。
鏡子はため息をついた。彼女は非現実から現実に強制的に引き戻される。目の前のそれは顔見知りで、処理する必要があるからだ。
「どうしてこんなところにいるのかな。武田君」
武田君と呼ばれたそれはくつくつと笑っている。人を嘲笑うことだけが許可された感情の発露だ。
「あなたを殺しに来たのですよ」
背筋が凍るほど冷えた、温度が感じられない声だった。
緻密に設計された正確無比な顔立ちにその生涯を執事として捧げたかのごとき非の打ちどころのない佇まい。平均的な身長に細い体の線。短く纏められた髪。生きた人間なら必ず持つはずの綻びがどこにも見受けられない。個性がない。死人が立っていると言われた方が決まりがいい。
一目見て男性か女性の区別をつけることができない。そんな些末な問題はすでに超越していた。
人間らしさが排除された瞳が鏡子をじっとりと捉えた。並の人間ならば心臓が動くだけで、体は固まってしまうほどの恐怖を覚えるだろう。
鏡子は飄々として、武田と同様に口元を歪ませた。
「それは嬉しいね。私とコミュニケーションを図ろうとする人間は少ない」
冗談なのか本気なのか鏡子は微笑して答えた。自分を殺すという発言をコミュニケーションの一環として捉えられるのは彼女をおいて他にいないだろう。
「人間てのはコミュニケーションを取ることが大切なんだ。一人で何でもできると思いがちだがそれは間違っている。それでは正しい人格を持つことはできない。誰かと話をし、触れ合うことをしなければ自分を正しく評価することはできないんだ。他人が見る『自分』をコミュニケーションによって獲得し、自己が持つ『自分』と擦り合わせることで初めて自らの正しい人格を獲得できるのだ。だからね、私は何時もコミュニケーションに飢えているんだ。正しい自分を獲得するためにね」
鏡子は嬉々として説教を垂れた。この発言の十割が目の前のそれには理解できないと知っていながら。理解することすら放棄していると感じていながら。
武田は表情を変えない。顔色を変える機能など最初から付いていないと示すように機械的だ。一切の変化をすることはなく、許されない。決まりきった枠、規則に則って行動する物体であった。
「何の反応もなし。冷たいな。言葉によるコミュニケーションは難しいか。まあそれでも問題はない。何も方法は一つというわけではないのだから」
言葉による対話が不可能ならば残る選択肢は殺し合いという一点だけだ。そんな莫迦なことは当然避けるべきであり、現実的でない。
さらに言うと相手は鏡子を殺すことだけをプログラミングされた兵器だ。そこには殺人への躊躇や恐怖など入り込む隙間もない。殺す機会をじっと伺い、最適なタイミングで最速の凶撃が撃ち込まれる。
待つのは——死——のみである。
だというのに鏡子には恐怖も緊張も感じられない。体は今にも動き出しそうにそわそわとして落ち着きがない。まるで目の前に遊び相手を見つけた少年そのものである。
「久しぶりに体を動かすのでね。ちょっと昂っている」
鏡子がそう言うと武田はまた笑いだした。嘲笑することだけを目的とした気味の悪い笑み。
ゆらりと体が揺れる。左右に揺れる速度はそれほど早くない。それにもかかわらず目で追うことができない。
ゆらゆらと鏡子を試すかのように揺れてピタッと止まった。メトロノームの止まらぬ針が停止する。
それと同時に鏡子は構えた。目前のそれを敵と認識する。
「私はコミュニケーションに飢えている」
鏡子は繰り返した。自らを臨戦態勢へ移行するために。
「たとえその相手が人でなくてもな!」
吠えるより迅く漆黒の影が動いた。
影は一瞬で鏡子との間合いを詰める。華麗なる跳躍は誰にも捉えることはできない。
首元へ狂気が伸びる。瞬きなどするものなら一瞬で首が飛ぶ。容赦なき凶行。
一撃二撃。闇夜に紛れて鋭い攻撃が鏡子の首を襲う。鏡子は身を捩じらせ寸前で躱すと同時に煙草の煙を大量に吐き出した。煙玉のようにあたりに灰色の空気の塊が漂う。鏡子は煙を目くらましに体を後方へと退けた。
「驚いた。とんでもなく速いな。危なかった」
余裕の笑みを浮かべながら鏡子は眼前の煙を凝視する。何か揺らぎがあれば即座に対応できる位置まで下がり首をさする。
べっとりとした感触。人差指が丸丸入るほどの溝ができている。
首元を触った右手は赤く染まっていた。
——シャー——
音がした。音は煙の方から聞こえてくる。
潮風が吹き煙の塊が霧散する。
何か来る————
鏡子は煙の切れ目を注意深く観察する。そこにいる何かを見極めるために。
煙が晴れた。
———何もいない———
鏡子は辺りを見渡す。倉庫が音もなく佇んで、コンテナは無造作に置かれている。潮騒だけがざわざわと騒がしい。煙草の煙に奴が動いた揺らぎはなかった。ただ風により少しずつ流れたのみだ。
空は雲で覆われ、美しい月明りは見る影もない。世界は無慈悲にも闇に支配されていて、明かりを望むように鏡子はライタ―の火を点けた。
———瞬間何かが飛んだ
また音がした。獲物を刈り取ることに特化した獣の声。
躱そうにも獣は近づきすぎていた。首をめがけて一直線に飛んでくる。空気抵抗や重力を無視した不可避の速攻。
獰猛で邪気のない命を刈り取ることのみを求めた獣の口角が大きく凶暴に広げられている。中空を飛ぶその姿は蛇である。全長はかるく二メートルは超えるだろう。それほどの存在感が鏡子の目の前に突如として現れた。
鏡子は空いた腕で首元を守る。後からいくらでも補充できる腕だ。ここで攻撃を防いで使い物にならなくなったとしても問題はない。
ガブリ——————と蛇は噛みついた。いや、噛み切った。
蛇の強靭な顎は鏡子の腕をトウモロコシのように噛み切った。腕の一部が蛇の口の大きさに合わせて凹んでいる。
蛇は地に落ちることはなく、勢いよく飛んだ感性を利用しその体を鏡子に巻き付けた。ミイラのように体全身が蛇の体に覆われる。ぐるぐると体に巻き付いているはずなのに蛇の体は異常に硬い。鉄板が体に巻き付いている。鉄板は鏡子を圧迫し内臓を噴出させるほどの力が込められた。
鏡子の表情はそれでも変わることはない。眉一つ動かすことはない。
蛇は次の攻撃に備えて頭を後ろへ振りかぶる。爬虫類の目的は鏡子の命それだけだ。確実に絶命させるため、頭を丸のみにしようと顎を尖らせる。蛇の筋肉が隆起する。鱗に血管が浮かび上がり、音を置き去りにして鏡子へと齧り付く。
「調子に乗るなよ」
手に握られたライターから炎が燃え上がった。
悪を焼き尽くす正義を灯。
灼熱の熱量を持って蛇の体を見る見るうちに焼き尽くす。蛇の頭は鏡子の眼前で焼き切れ、形を失った。
圧倒的な力の前の無力な命。獣の生命は空しく虚空へと消え去った。
ごり、ごり、ごり、ごり———————
鏡子の背後で痛々しい音がまた現れる。
即座に振り替えるとそこには巨大な手が目前にまで迫っていた。鏡子は包み込まれるように手に捕らえられると、そのまま地面へと叩きつけられた。
よく見るとそれは手ではない。四本の趾で構成された猛禽類の足である。第一趾は後方を向いており、残りの三趾が前方に伸びた三前趾足のごつごつとした足が鏡子を捕えて離さない。爪はコンクリートの地面を抉り、突き刺さっている。木の枝を掴む際に好都合な形状をした第一趾が鏡子の股の間にがっちりと挟まり隙間なく圧迫していた。
武田が上から鏡子を睥睨する。凍ったように冷たい目。
鏡子も負けじと視線を交錯させる。瞳の色が変化し、美しく透き通った黒き瞳から深く強い真紅の瞳へ。ルビーの輝きの如き光沢を持ち合わせた宝石の眼。
睨み合いを続けながら敵は体を変形させる。不気味なほどに整った体が異形へと形を変える。
ごり、ごり、ごり、ごり——————
体の表面だけでなく骨格から生まれ変わっている。腕が腫瘍のように膨らみ、次第に獅子の頭へと変貌した。荒い鼻息と低く鳴り響く喉鳴らし。獅子はこの上なく飢えていて、そして生きている。目の前の肉付きのいい餌を見て今にも飛び掛からんと王者の鬣を翻す。
「まだだ。少し待て」
獰猛な肉食獣の興奮を宥める低く優しい声。包み込む母性と恐怖による支配を綯交ぜにした奇怪な声色は武田がその身に宿す獣たちを従わせるために生み出した絶対的信号である。
——グルルルルル
獅子はそれでもプライドだけは失わない。王者としての在り方が鳴り響く殺気立った獣声に込められていた。
「気分は如何です。レディ」
サバンナの王である獅子の頭、空の支配者である猛禽類の足を侍らせて敵は鏡子に問いかける。地に伏す鼠とそれを見下す人間へと形を寄せた化物。生殺与奪の権を握った化物は慈悲の心など微塵も見せず、小動物のような惨めな返答を期待していた。
————ただただ嘲笑うためだけに
二本の趾の間で鏡子は顔を曇らせた。地面と足の間の隙間をさらに無くすために圧迫が強化される。ただ、彼女はそんな暴力は気にもしていなかった。それ以上に彼女は眼前の化物の在り方に嫌悪していた。人を嘲笑う機能しか有し得ない哀れな存在を激しく拒絶していた。
「趣味が悪いとしか言いようがないな。こんなにもか弱い美少女を拘束しておいて気分はどうだ、だと。笑わせる。それとも何か。こうして圧倒的に上の立場に立たなければ話すこともできないのか。とんだ言語障害の持ち主だな、お前は。自分の優位性が確立されなければ口を動かさないのは自分の臆病さを露見しているようなものだ。形だけは生態系の頂点をこれでもかと固辞しているが、空虚な強がりに過ぎない。小さな鼠が不相応な力を偶然獲得し、己の力だと勘違いし恥ずかしげもなく見せびらかす。お前はなかなかに無様だな」
鏡子は満面の笑みを湛えると、溜まった鬱憤を吐き出すように侮蔑の言葉を撒き散らした。
武田は表情を変えない。この者に怒りという感情の現出は搭載されていなかった。鏡子の発言を糺すように穏和に語り掛ける。
「それはあなたの負け惜しみに過ぎませんよ。私は通常会話も人並みにできます。今回はあなたの殺害のみが目的であったために会話の必要性が感じられなかったのです」
「その割には今、この状況で嬉しそうに話しかけているじゃないか」
武田は微笑する。裡に何思うのか。判然とは分からない。
「ええ、私の主があなたの死に際輪の言葉を録音しろと命じましたので。こうして意味のない会話を始めたというわけです」
黒い外套の懐から黒い箱———ボイスレコーダーを取り出した。
「全く、あいつは変わらんな。もはや救いようがないぞ。天があの男見逃しているのが怠慢に思えてならん」
一瞬の逡巡の後、武田は答えた。
「それはあなたにも言えるのでは」
アハハハハ——————鏡子は高らかに笑った。それほど意外性に富んだ言葉であった。
「お前皮肉を言えるのか。少し見直したぞ。人間味が垣間見えて安堵した」
「誉め言葉として受け取っておきましょう」
「武田君。君は今成長したのかもしれない。今までは主が与えた感性——まあ恐らくは人を嘲笑うとかそんなところだろう——しか持ちえず、そのフィルターを通してでしか言葉を発することができなかったはずだ。それゆえ君の発言はいつも扇情的で、人に同意を求められたとしても疑惑を持って接してきたのだろう。会話の整合性を求めることはしない。むしろ積極的に破綻させようとしてきたのだろう?だからね、私はお前との会話はできたとしても支離滅裂なものになると思っていたんだ。それが今はどうだ。会話の流れを汲み皮肉を持って答えた。そんな人間的な会話が出来るなんて思ってもみなかった」
「何をそこまで驚く必要があるのです。私にとってこの程度の発言は与えられた範囲を逸脱するものではありません。私の主に従って言葉を発しているのと同じことです」
「いやなんだ。お前が気にしてないならば必要以上に言うまい。私にとって今の会話は心地よいものだ。いきなり自覚を取り戻して破綻させられたのでは身も蓋もない」
「となると私は今からこの会話を破壊せざるを得なくなったというわけですか」
鏡子は鼻で笑った。
「そうだな。君の主に従うのならばそういうことになる」
見下ろす武田に感じ取れないほど小さな喪失感を鏡子は感じた。この感情の機微だけは感知されるわけにはいかない。それは武田の主の思う壺になってしまうのだから。
「ではそろそろお別れとしましょうか」
「こんなものでいいのか」
「何がです?」
「ボイスレコーダーへの録音だよ。今際の言葉を録るのだろう。私は別に命乞いをしていないぞ」
「ええ、いいのです。そもそも録音などしていません。私にとっては今このようにあなたを下にして見下ろしていること自体が目的を果たしていることに違いないのですから」
「それはおかしくないか。主の望みをかなえず、自ら欲にのみ従うことはお前にはできないはずだ」
「いいえ、そうではありません。主が私を覗けばそれで済む話です」
「確かにそれはそうだ。ではなぜ録音機など用意したのだ」
「それは主の悪趣味が形を得ただけですよ。これを見せつければあなたはムキになってご高説をありがたく垂れるだろうからその間に殺してしまえとね。仏の気持ちになって死ねるだろうと」
鏡子はフンと鼻を鳴らした。
「それで私はまんまと話をしたというわけか。あいつの思うままだと思うと虫唾が走るな」
そうまで言って鏡子は疑問を持った。趾の間に挟まれて動かしにくい首を不思議そうに傾げて尋ねる。
「では、なぜ君は私の話の途中で殺さなかったんだ」
「さあなぜでしょうか」
そういうと武田は空を見上げた。初めての感情が彼には芽生え始めていた。今まで持ったことのないふわふわとして安定感に欠ける、それでいて精神が高ぶるような感覚を。人はそれを愉しいと表現するが彼にはその感情を理解することはできなかった。そもそも主が与えてくれたものとは全く違う感情だ。簡単に新たな感情に身を委ねることなどあってはならない。排除すべきものだ。
しかし、不思議と悪い気はしてはいなかった。
その矛盾が鏡子を殺さなかった理由であった。
「そんな些細なことはどうでもいいのです」
「そうか」
「ええ」
鏡子は深く追及することはしない。武田自身が考えることが重要だと考えたからだ。
そして、もう一つの理由は————
獅子が痺れを切らし吠えた。咆哮は空気を振動させ、鏡子の細胞一つ一つに至るまで響き渡った。獣の口から漏れ出すと吐息は生暖かく、彼女の顔を舐め回すように纏わりつく。
「もう限界のようだ。ではさようなら、美しき紅い瞳を持つ美少女よ」
獅子の頭が振り下ろされる。金色の鬣が重力に逆らい天へと靡き立つ。ぱっくりと空いた口は鏡子の頭だけでなく武田の変形した足ごと噛み千切る勢いだ。人間一人を軽々と押さえつける異形の足も王者の顎の前では無力である。
刹那、一筋の光が現れた。
光はゆらゆらと蠢いて、一本の剣となり獅子の頭を貫いている。
意識の外から痛恨の一撃を受けた獅子は小さな呻き声をあげるとそのまま絶命した。あまりにもあっけない死の訪れであった。
剣の輪郭は陽炎の如く揺れていて、はっきりとその形を定義していない。
陽炎と業火に燃える断罪の剣。
獅子の頭蓋を切り裂いた剣の切り口が発火し、鬣を潤滑油に大きく燃え上がる。
ごり、ごり、ごり、ごり——————
武田は獅子が死んだことを憐れむこともなく直ぐにもう一つの腕を変形させた。樽のように太く、筋肉が圧縮された腕。剛毛に覆われたゴリラの腕である。
重たく、硬く、軽々と物を潰すことができる鈍器が生成され、燃え盛るもう一方の腕などお構いなしに振り下ろされる。
炎の剣はそのまま水平に移動し、振り下ろされた鈍器の軌道でかち合い、一方的に切り裂いた。炎の軌跡が両者の視線を断ち切り、境界が引かれた。
咎人と聖者を別つ境界線
裁くものと裁かれる者を隔離する絶対線
切り裂かれた腕は一瞬の内に燃え尽き、跡形もなく消え去った。
炎の剣が揺らぎ立つ。使用者は胸の前に剣を構え、寝転んでいる主に忠誠を示した。
それは一言で表すならば「炎の騎士」と呼ぶほかなかった。
屈強な戦士が火を纏っているわけでもなく、鎧が発火しているわけでもない。文字通り、純度百パーセントの炎で構成された騎士であった。
騎士には人の体と同じように厚みがあり、存在感が備わっている。決して幻想などではない。それは、騎士から発せられる熱が物語っていた。
圧倒的な熱量が武田を襲った。体はすぐに発汗し、頬を大量の汗が伝う。体温を必死に調整しようと彼は有り余る生命力を最大限に活用していた。同時に目前の敵を無力化するために思考を巡らせる。熱さに強く、炎を受けても焼かれることのない体を持つ獣を<保存個>の中から検索し、混合させる。混合動物の作成は彼の中に保存された数百種の獣の特徴を精査する情報整理能力と敵の特徴を考慮に入れた最適解を導く計算力、そして、倫理観が排斥された想像力によって行われており、特筆すべきはその作業を並列化し、瞬時に敵を殺し得る混合動物を作成できる点にある。
武田は初めてこの戦いで混合動物を使う覚悟を決めた。それは怠慢であり、彼にとって唯一の失敗である。
しかし、仕方のないことでもあった。混合動物を作りだすには大量のエネルギーを消費するため、有事の際以外は使うことのできない隠された爪であり、命の危機を感じる瞬間など彼には訪れたことなどなかったのだ。
鏡子と向き合い、対峙すること自体が絶体絶命の状態であると判断するための経験が彼には足りていなかった。
炎の騎士は武田に連撃を繰り出した。卓越した剣術は敵に情報を処理する暇を与えぬ鋭さを持ち、一撃一撃が必殺の型であった。
武田は剣を躱すこと事だけに神経を注ぎ、寸でのところで躱し続ける。
流れるような太刀筋が思考を遮断し、混合動物を作り出す時間が削り取られる。
鏡子を捕らえていた三前趾足は既に元の足に戻り、彼女は解放されていた。
後退りながらも攻撃を避ける武田の思考には騎士の猛攻ともう一つの障壁が圧し掛かっていた。
腕の炎が消えることなく燃え続けているのだ。獅子の頭はすっかりと焼け落ちたにも拘らず炎は燃え上がり続け、肩口まで進攻していた。炎が燃え盛る部分は直前で熱に強い粘膜を張り防御していたが、それすらも燃やし尽くしていた。皮膚の厚さや耐久度の高い動物に変化させても無意味であった。武田の頭には最悪の状況が浮かび上がっている。
————もしや私の保管庫の中でこの炎を止められる獣はいないのか
武田はその考えを瞬時に肯定し、燃え盛る腕を肩口から切り離した。しかし、反撃する手立てはない。炎の剣には触れることはできず、逃げることのみが許された行動である。
「さて、形勢逆転だな。武田君」
鏡子は立ち上がると新たな煙草を取り出し、不敵に笑った。
清々しいほどに清らかで歪んだ笑みである。鏡子は武田の嘲笑を非難したが、彼女が浮かべる笑顔こそがまさに人を嘲笑う表情そのものであった。
武田は鏡子の顔を見ると瞬時に理解した。
自分に敵う相手ではなく、自分以上の化物であることを。
瞋恚を宿し、復讐を誓う。
————次に相見えた時こそがお前の最後だ
鏡子には分かっていた。またすぐに武田とは会うことになることを。ゆえに、彼女は彼に対して深い追及をしなかったのだ。
騎士の剣が武田を捕らえたのは彼が逃げることを諦めたすぐ後のことであった。
☆
「どうです?あなたの目に映るこの異様な光景は」
男は悪魔のように優しく囁いた。傍らに座り込んだ私はガタガタと震えている。
目の前で行われる人の領域を超えた戦い。
それは夢、幻ではない。戦いの波動が肌にヒリヒリと突き刺さる。
喉が痛い。体が熱い。熱を持った髪が汗で纏わりつき肌が焼けるようだ。
灼熱地獄。声を出すことすらままならない。
男は微笑した。自分の力を示したわけでもない。ただ傍観しているだけであるが、目前の戦いをいかにも自分が演出したように誇らしく、尊大な笑みを浮かべた。
「あなたもこれで身をもって知ることになりましたね。この世の中には理屈では説明できないことがあると」
そうかもしれないと素直に思った。映像技術の応用や最先端科学の実験などのレベルではない。そんな小さなものは蚊帳の外だ。人が積み上げた歴史や社会的価値観で推し量ることはできない。世界から逸脱した光景が広がっている。
「彼女ならあなたの夫を殺すことなど何の苦労もしないでしょう。どうです?」
——なぜだろう——そうだとしか思えない
男の言葉が脳に侵入する。
体が熱い。細胞が焼き殺されるようだ。
男の言っていることに何ら確定的な証拠はない。論理的な筋道も当然ない。ただ眼前の戦いと私の夫の殺人を無理やり結び付けただけの破綻した結論づけだ。
それなのにどうしてだろう。
男の言うことは正しい。そうでなくてはならない。と思ってしまうのは。
異常性を持って判断するならば、女と戦っている化物の方がより夫を殺したものだといえる。それでもなお私はあの女以外にあり得ないと強く思った。
体が焼けるように熱い。
思考がままならない。あらゆる可能性や他の選択肢が排除される。
夫を殺したのはあの女であるという結論だけが存在し、その結論に至る過程はどこにも見当たらない。
————それでもいいのかもしれない
夫を亡くして十七年。夫は人としての尊厳を剥奪された虚しい死に方をしていた。
自殺や事故ではない。遺書は見つかっておらず、事故に繋がるような可能性は現場には残されてはいなかった。
ならばそれは殺人に違いない。
あああああ————今思い返してもこの憎悪が消えることはない
夫を殺したものは未だに分かっていない。
ぐつぐつとはらわたで黒い感情が煮詰められる。
私は十七年の月日を憎しみに費やしたのだ。忘れることはできなかった。できるはずがない。心は蝕まれ、少女のような清廉さは失われていった。
それでも、おいそれと自分の裡側を出すわけにはいかない。皮を被らなくては。
真なる願望を直隠す清楚で清らかな仮面を。
自分を偽ることが一番の苦痛である。憎悪を忘れぬようにすると同時に周りには怨とはかけ離れた少女を演じなければならない。
裡に煮詰めた黒い奔流が自らが作り出した仮初の仮面に浄化されることが最も恐ろしい。
あの女が夫を殺したならば、私があの女を殺すまでだ。
それでようやく解放される。自らを偽る苦痛から。
————この苦しみから解放されるのならば
男はにこにこと笑っている。苦しみも悲しみも妬み嫉みも絶望も何も知らない真っすぐな笑顔。私を見透かしたように微笑む。
この男は肯定しているのだ。私はそう理解した。
何もかもを見通す目で私の裡側を覗いたならば笑顔など見せることはできない。恐怖で顔を引きつらせ、体をわなわなと震わせ身じろぎしなければならない。
私の裡側には私自身が慄くほどのどす黒く、禍禍しい憎悪が渦巻いているのだから。
☆
鏡子は煙草に火を点けた。本日何本目の煙草なのかは覚えていない。ブラックロッドという謎ブランドが作り上げた奇天烈な味がする煙草。黒い線をまとめて圧縮したような煙草はブラックロッド〈黒き杖〉を冠するのに相応しい重厚さである。
煙草の色を黒に染めることに心血を注いだのか味は甘ったるいような辛いような無茶苦茶なものだった。そんなお茶目な部分も鏡子が気に入っている一つの理由だ。
しばらくニコチンを体に巡らせ、海を茫と眺める。
コンクリートで作られた地面に小さな波がその衝撃を打ち付ける。ざわざわと波打ち音が聞こえる。
倉庫街に目を戻すと真っ黒な物体が転がっていた。ぼろぼろと風を受けてその輪郭は崩れている。それは最早炭を通り越して灰になっていた。
灰は風に運ばれて塵と化し、潮風と共に夜の闇に流れていく。海の匂いと塵の匂いとが混じり鏡子の前を通りすぎる。
気分を害されたと言わんばかりに煙草を捨て靴で火を消す。
踵を返して事務所へと帰る。もう面倒ごとは懲り懲りだ。帰ってすぐに寝ることにしよう。
流れるような美しい長い髪を風に靡かせて鏡子はその場から立ち去った。
後には何も残らない。
ざわざわと潮騒が響くだけだ。