對髑髏(ついどくろ)
同じタイトルの幸田露伴の文語文の名作は「たいどくろ」と読みますが、拙作は「ついどくろ」とよんでいただくようお願いします。一人息子を戦争で失った家族のお話で、新味はあまりないと思われます。異世界ものを所望の方々は読まれても満足を得られないと思います。こちらの前書きで早々に撤退されるようお願いします。
「こうちゃん、じてんしゃくるからあぶないよ」
幼な児は蝶を追いかけて公園の端の方へ駆けていく。頭が大きくてバランスがよくない転けやしないかはらはらする。梅雨が明けたばかりで蒸し暑さはあるものの風が適度にあるせいで珍しく過ごしやすい日だった。緑の多い市民公園の広い芝生には新鮮な空気の中で休日を過ごそうという老若男女が集っていた。若いカップルが寄り添って座るそばを、大型犬を連れた裕福そうな老夫婦が通りすぎてゆく。自転車の練習をしている父子。円盤を投げ合って歓声を上げている若者のグループ。弁当を広げている一家。時間がゆっくり流れ、何でもない平和な光景の中に私も溶け込んでいるのだと感じた。
『危ねえなぁ。小せいガキは親がちゃんと見てろよ』
怒気を含んだ声が聞こえた。声のした方を振り向くと、自転車の荷台にアイスクリームのケースを括り付けた太り肉の中年の物売りが、キーと耳につくブレーキをかけたところだった。禿げた頭に載せた麦わら帽子。括りつけられた桃太郎旗に原色の文字が躍っている。みんなの注意を引くようにとカランカランと鳴らされたハンドベルの音。きつい言葉の割にアイスクリーム売りはニコニコと周囲に愛想をふりまいている。何組かの親子が鐘の音につられて集まってくるのが見える。
私の連れてきた幼な児はまだ蝶に気を取られている。アイスクリームが大好きな男の子だから、気づけばすぐにねだられるだろう。そう思うと自分も喉が渇いていることに気づいた。後ろのポケットに財布を入れてきてよかった。
さきほどの怒声を思い起こしていた。またかと思った。誰にも言ったことはないけれど、私には近くにいる人の強い感情がこころの中に流れ込んでくるところがあった。流れ込んでくるかどうか、本当のところは分からない。内側から声が聞こえてくるのだった。自分でもどうしてそうなのかは分からない。自分でも分からないから他人には説明できない。まったく不思議なことだった。次に思うのは、人は何にだって慣れることができる、ということ。不思議な日常も度重なると慣れてしまう。不謹慎な譬えだが、大災害で死者を多くみると次第に何も思わなくなっていくらしいという。それと似たようなことだろうか。私だけの説明のつかない不思議な経験も〱り返し起これば普通になる。
しかし、話をしていてる最中に私が突然、「えっ?」と辺りを見回すことがよくあるので、親しい友人などはまた始まったという顔をすることが多かった。理由を言っても理解されないことは分かっていたので、ことさら言うこともなかった。だから友人の間では私はかなりの変わり者で通っていた。それ以外はいたって普通だと当人は思い目立たないようにしてきたので、この歳まで恙なく生きてこれたのだろう。そう当人は納得している。
穏やかな喧噪の中にいた。午後から暑さを増す陽差しだった。私は連れてきた子のそばに歩み寄った。幼な児は手に 取ろうとして届かない蝶にまだ気を取られている。そこは公園の境なのか竹を編んで作られた垣根が並んでいる。黒い麻紐がまだ新しい。蝶はひらひらと中空を舞っている。垣根の根元の地面に大小の石が並べられている。公園を造成したときに地中から出てきたものかもしれない。雨風に打たれなお黒く人の頭ほどもあるふたつの石の上を、蝶は舞っている。楽しそうに―とそう思った刹那、私は忘れかけていたある出来事を思い出した。
それは今と同じ7月の下旬、夏休みの始まったばかりのころのことだった。かねてから私に優しくしてくれた大叔父のところに泊りがけで遊びにいったことがあった。郊外に住む大叔父夫婦のところには話に聞くとほんの赤ん坊のころから遊びに行っていたらしい。父も祖父も大叔父と仲が良く、今よりもう少し世の中がギスギスしていなかったころ、親戚でしょっちゅう集まって楽しんでいたという。子どものいない大叔父夫婦はいつでも誰にでもやさしかったのと、自分たちも大勢の客が来て家が賑やかなのが好きだったようだった。大叔母は料理に非凡なところがありしかも研究熱心だったので、遊びに行く度に海外の物珍しい料理を講釈つきで振舞われた。私や従弟らも好きなだけ遊んで好きなだけ食べて過ごせる特別な場だった。長期休みの学校の宿題も歳の違う子供同士で教えあうこともあり、一時期は学校の退屈な我慢比べみたいな場などよりはるかに楽しい学びの場であった。大叔父も大叔母も元教師であり、親戚の多くも大学や大学院を卒業して研究職や教職に就いているものが多くいた。自分の専門の話を分かりやすくしてくれる、学びというより知的な好奇心を満たす場が、大叔父の家に自然にある環境だったからだろうか。
私も大叔父と大叔母が大好きだった。慈愛というのだろうか、私を大切に扱ってくれた。私は大叔父のところで嫌な思いをしたことは一度もなかった。勉強で分からないところがあると分かるまで何度も我慢強く教えてくれた。後から父に聞いた話では、大叔父は師範学校の数学の先生だったという。
小学校の高学年から、どういうきっかけか覚えてはないものの、私は家にあった父の古い本を手に取るようになった。大半は薄茶色の表紙の岩波文庫だった。日に焼けたページに印刷された文章が正字旧かな遣いのものが多く、数学が「數學」というように矢鱈画数の多い文字だらけで、それを読むことのできる自分が少し賢くなった気がしたものだった。読めない正字を漢和辞書で調べながら読んでいくのが一時期の私の欠かせない日課になっていた。両親も私が辞書で調べつつ本を読んでいても、学校での義務的な宿題やテストをこなしている限り割と自由にさせてくれていた。
ある時、父から大叔父の家にはこの正字旧かなで書かれた書物が大量にあることを知らされた。私はどうしてもそれを読みたくなってそれを父に伝えると、もう中学生なのだから一人で電車に乗って行ってくればいいと言われた。私は小躍りして喜んだ。その私を見て父はもうすぐ始まる夏休みを利用してお邪魔していいかと大叔父に連絡してくれた。いつもの優しさで大叔父は楽しみに待っているよと言ってくれたのだった。
夏休みに入るとすぐ、生まれて初めて一人で遠出する緊張感を道連れに、私は家から電車を乗り継いで大叔父の住む町の駅に降り立った。迎えに行くという有難い申し出を丁重に断ったのは、自分もうまく言葉を選んで断りの文言を使えるほど成長したことを伝えたかったのか、お迎えなんてまるでお子さまじゃないかという背伸びがそうさせたのか、あるいはその両方が綯い交ぜになっていたのだろう。
駅の改札を出て誰も迎えに来ていないと分っている筈なのにきょろきょろする自分を心の中で叱りつけた。駅から大叔父の家までも道順は母に聞いて紙に自分で地図に描いた。目印も書き入れた。大叔父の家の電話番号も暗記している。
大叔父の住む町は夏の烈しい太陽に照らされていた。
むっとする空気の中を少し歩くと汗が噴き出した。母がしつこく持って行けと入れてくれたタオルを背負いから出して汗を拭い首に巻いた。野球帽ではなく麦わら帽子だとよかった。肩に強い陽が当たり、そこが痛いくらいだった。
駅から大叔父の家まで歩いて二十分余りあったか。家族でお邪魔するときは自家用車で行ったから、炎天下を歩いたこのときは意外に遠くに感じられた。
なだらかな上り坂が続く。逃げ水というのだろうか地面近くの景色が浮いて見える。じりじりと焼ける暑い日照りの中、通りを歩く人影を見かけることはなかった。犬ともすれ違わない。と、遠くからこちらに向かって歩く人物に気がついた。逃げ水で足元が歪んで見えた。俯き加減で歩くその人の歩みは何故か極度の疲れの色を見せていた。着ているものも埃だらけでみすぼらしく、物乞いの者でももう少しまともなものを着ていると思うほどの襤褸を身にまとっていた。これが父や母がいつも言っている「関わり合ってはいけない人」なんだと思った。そのまま歩くとすれ違う。私はわざとらしいと思いながら道の反対側に移った。その私の露骨な行動がその人の気持ちを傷つけなかったかどうかと少し心配になった。近づいてきたその人は異常なほど痩せた年若い男性で、右頬に青黒い痣のようなものがあった。俯いたまま歩む姿勢を変えなかった。私に気づいていないようだった。右手はと見ると汚れて土色になった包帯を指全体に巻いている。短い庇の帽子を被っていたもののその表情は読み取ることはできなかった。なぜか近い距離で見たにもかかわらず彼の姿はぼやけて見えた。
通りを隔ててすれ違ったまさにそのとき、とても強い悲しみと悔悟の感情が私の心に飛び込んで来た。あっと思って私は立ち止まり、その圧倒的な感情が何に由来しているのか分からず、その場に固まってしまった。悲しみの感情は胸を塞ぎ、呼吸が苦しくなった。少し時が過ぎてふっとその感情が跡形もなく消えた。咄嗟に振り返って、たった今すれ違った人の姿を追った。しかし、そこには真夏の日照りの中に変わらずある街並みの連なりしか認められなかった。消えた? すぐにその思いを打ち消した。その人は近くの小道に入ったのだ。人が消えるわけはない。落ち着かない気持ちになんとか合理的な説明をして自分を安心させた。ともかく大叔父の家はすぐそこの筈だった。事前に調べた地図は正確だったから、道に迷うことなく、私はほどなくして大叔父の家の玄関に着くことができた。緊張が解けた安堵感からか、私は先ほどの不思議な出来事をしばし忘れることが出来たのだった。
「こんにちはぁ。おおじぃ、おおばぁ、来たよーっ」
元気に礼儀正しくねと、何度も母に言われた。人間はまず挨拶。これは父の口癖だった。
「よく来たねぇ。暑かったろう、こうちゃん。道には迷わなかったかい?」
「さあさあ、汗で濡れた服を着替えようよ。冷たいジュースもあるよ」
大叔父と大叔母の変わらない優しさがあった。電話では大叔母は最近の暑さからか少し体調を崩して寝ていることが多いと聞いていた。しかしそのときは元気そうな様子だった。母から教えてもらった通り、少しの間やっかいになりますという挨拶の口上を間違わずに言うことができた。二人はニコニコ顔で聞いてくれた。母から着いたらすぐに渡すようにと言付かった茶封筒も出した。母からのご挨拶の手紙が入っているとのことだった。それを読んだおおじぃが、
「しずえさんには何度も気遣いしないようにと伝えたんだがな」
と封筒をおおばぁに渡しながら言った。しずえは私の母の名だった。
「いいじゃありませんか。その分こうちゃんにはおいしいものをうんと食べてもらいましょう」
おおばぁはとても上品に「ほほ」と笑った。母は日頃自分が名のある旧家の出だと言って、礼儀作法には殊に口うるさかった。その母もおおばぁには敵わない。おおばぁの生まれた家は旧華族、たどれば名のある大名家に行きつくらしい。
「お腹空いてないかい? お昼まだだろう?」
そうおおばぁに問われて急に空腹を覚えた。そのことを素直に伝えると、
「おおばぁはね、こうちゃんの大好きなものを沢山こさえて待ってたんだよ」
当時私の好きなものといえば、オムライスやハンバーグライス、コロッケ、出汁巻き卵、とんかつなどといったまったく他愛もないものばかりだった。味を知らないと言われればそれまでだったが、これがおおばぁの手にかかると美味しすぎて食べ過ぎてしまう。たまに母に連れられて行く都会のデパートで食べるものなどの比ではない。美味しい美味しいと食べる私を「そうかい、よかったね」とおおばぁはとても喜んでくれる。
デザートの西瓜を食べ終わって満腹で動けなると急に睡魔が襲ってきた。目がとろーんとして開けていられなくなった。一人で気を張って電車に乗って頑張った疲れが出たらしい。「おおじぃ、後で本を見せてね」と、今日から寝る予定の部屋に行きながら頼んだ。おおじぃは笑いながら「起きたらね」と言ってくれた。
初めての小さな冒険で神経が高ぶっていたのか目を閉じてもなかなか寝つけなかった。それでもいつの間にか吸い込まれるように寝入っていた。目が覚めたのは約二時間後。夕方までにはまだ少し間があった。部屋の隅で回っている扇風機の風が心地よかった。
居間に入っていくと新聞を広げていたおおじぃが、「あぁ、起きたね。よく寝られたかい?」と尋ねてくれた。「うん。気持ちよかった」本当にそうだった。すべてが心地よかった。
「おおじぃ、本を見せてくれる?」
「おお、そうだったね」
おおじぃは新聞を畳むと「ついておいで」と立ち上がった。
親せきが大勢集まっても申し合わせたようにその建物の奥にある六畳間には立ち入らなかった。大人たちから「行ってはいけない」とこと改めて注意を受けた覚えはない。それでもみんな知っていた。その部屋はおおじぃやおおばぁにとってとても大事な部屋で、主の許しがなければ勝手に立ち入ってはいけないことを。なぜ、どうしてというやり取りをしたこともない。今、その部屋に向かっている。
縁側伝いに小さいけれどよく手入れされた庭を左に見ながら少しいくと、なぜかそのあたりだけ空気がしんとしていた。おおじぃがその部屋の障子戸を開けると少し年月を感じる匂いがした。「空気の入れ替えはしているんだけどね」おおじぃは独り言のように言った。
その六畳の部屋はきちんと片づけられていた。壁際の箪笥が一竿、反対側の明るい側に木の机と本棚。机の上には本立ての本と幾つかの小さなものがあり、鴨居の上の小壁に貼られた何枚かの紙片。これが目に付くすべてだった。もう長いこと主のいない部屋。なのにぴんと張り詰められたものがある。それが何なのかは言葉にしようがなかった。
「この部屋はね、おおじぃの亡くなった息子が使っていた部屋でね、亡くなってもう随分経つのに手付かずなんだよ。おおばぁはこの部屋に近づかないから、おおじぃがときどき埃を払っているよ」
おおじぃは静かに言った。えっ、おおじぃに子どもがいたの? 今までだれも教えてくれなかった。
「おおじぃの息子はね、戦争で亡くなったんだよ。亡くなったという紙きれ一枚来たきりで何にもない。ひどいもんだね」おおじぃの口調は淡々としていた。
戸惑っている私を認めて、「こうちゃんはあるもの好きなだけ見ていいよ」と促してくれた。
「こうちゃんは昔の字が好きだってお父さんが言ってたよね。おおじぃも本がいっぱいあるけど、古い本はみんな処分してしまった。時間が止っているこの部屋にある本がこうちゃんが好きそうかなって思うんだ。でも、こうちゃんが面白いと思う本はあるかな」
私は机の上や本棚に大きさを揃えて収まっている茶色く変色した本の背表紙を見た。
机の上の本立てには『國體の本義』『國史概論上下』『臣民への道』といった本が並んでいる。「見ていい?」目で問いかけると、おおじぃは「いいよ」と頷いた。
私は『國體の本義』と題された書を手に取った。ページを捲って印刷された文を読み始めた。
「こくたいのほんぎ」
「よく読めたね」
「こくたいって何?」
「日本の国のおお元ということだね」
「ほんぎって?」
「根本をなす、正しい意義ということだね」
「この国のおお元の正しい意義か」私の理解を超えていた。それでもページを進めた。
目次の前に四角で囲まれた文があり、そこをまず読んだ。
「一、本書は國體を明徴にし、國民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。
一、我が國體は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその眞義を盡し得ないことを懼れる。
一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釋に從い、又神々の御名は主として日本書紀によった」
「へぇ、こうちゃん、よく勉強してるんだね。よく読めたね」
読めればおおよその意味はわかった。次の目次に進む。
「緒言。第一 大日本國體 …」と続く。『緒言』は面白くなさそうだったので飛ばして本文を読む。
「|くに?」そこには第一章『肇国』と記されていた。
「クレージーキャッツのハナ肇の字だよね。でもなんて読むの?」
「『ちょうこく』って読むんだよ。『肇』は『ちょう』と読む。意味はこうちゃんの言うように『はじまり』という意味だよ。だから『肇国』は『国の始まり』ということだね。日本という国がどういう国なのかという説明から始まるんだね」
続きを声に出して読んだ。
『 大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を發揮する。これ、我が國體の精華とするところである。この國體は、我が國永遠不變の大本であり、國史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、國家の發展と共に彌〱鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事實の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ』
「へぇ、立派に読めたね。驚いたね」おおじぃは褒めるのが上手だった。
「『てう』というかなは『ちょう』って読むんだね」
「そう。旧仮名遣いだね。昔はこれが普通だったんだよ」
「学校で『てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った』という詩を習ったよ。安西冬衛という人が作ったって。『てふてふ』は『ちょうちょう』と読むんだね」
「こうちゃん。旧仮名遣いにも興味があったらおおじぃの持っている福田恆存という人の書いた『私の國語教室』という本をあげるよ。そこには旧仮名遣いについて詳しく書いてあるから
「この本はね、昔、この国が国民全員を戦争に向かわせるために頭のいい人たちが作った本だよ。戦争が終わるころはこの本やそこに並んでいる本の中から入学試験問題が出されたり面接試験で聞かれたりしたから、昔の高校生はみんな読んで勉強した本だよ」
「おおじぃの子どもも勉強したんだね」
「おおじぃの息子は、こうちゃんのお父さんと同じ早稲田大学に入ったんだよ。こうちゃんのお父さんは理工だけど、おおじぃの息子は文学部で国文を勉強したかったみたいだ」
「おおじぃは数学の先生だったんでしょ。だったら毎日数学が勉強できたのに大学は数学じゃないんだ」
「それはおおじぃが悪かったのかもしれないね。小さいころから数学が好きになるように色々教えたけど、教えすぎたんだね。逆に数学が嫌いになったみたいだった。中学に上がるころには成績もよくて本人も数学が好きだと言っていたけれど、本当に好きだったのは小説だったみたいだね。国語の先生になりたいと言っていたって、後でおおばぁから聞いた。やりたいことがあるならとおおじぃも拘らなかったけど、それが後から考えたらいけなかったんだね」
「どうしていけなかったの?」
「こうちゃんは学校で習ったかな。この国は昭和という時代の早い時期からお隣の中国に軍隊を差し向けていたんだよ。自分たちの都合で武力を使って占領して随分迷惑をかけていた。ヨーロッパでもヒトラーが多くの人々の命を奪っていた。アメリカやイギリスの連合国との戦いで兵隊さんの命がたくさん失われていき、卒業まで兵隊にならなくてもよかった大学生や専門学校生もとうとう兵隊にならなきゃいけなくなった。それまで卒業を半年繰り上げて兵隊にしていたけれど、それでも足りなくなって勉強中の学生も戦場に送られるようになったんだね」
「学徒動員っていうんでしょ」
「うん。学徒出陣ということばが正しいかな。兵隊にとられる学生のうち理科系の学生と高等師範の学生、つまり先生になる勉強をしている学生は兵隊にならずに済んだんだよ」
「どうしてなの?」
「すべて戦争を続けるためだったんだね。理科系の学生は新兵器の開発製造や整備修理に必要で、学校の先生も優秀な兵士を育てるのに必要だった。だから文科系の学生から兵隊にとられたんだよ」
「だから、おおじぃの子どもも数学が好きで、お父さんのような理科系の学生だったらよかったって思ったんだ」
「戦争はそれから一年も経たずに終わったからね。戦争に負けて残った者も大変な思いをしたけれど、生きていれば笑いもするしご飯を美味しいと思えるからね。生きてさえいればね」
小壁に貼ってある紙には『海行かば』と題された詩のような文が達筆で書かれていた。見上げている私が、
『海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ』
と読み上げると、おおじぃの表情が少し曇った気がした。
「おおじぃはこの歌はそれほどすきじゃないんだ。どうしても灼熱の大地に疲労と空腹を抱えて呻吟している息子の苦しみを考えてしまう」
「おおじぃ、ご免なさい」
おおじぃが自分の好き嫌いをこんなにはっきり言うのを聞いたことがなかった。私は慌てて詫びた。
「いや、こうちゃんは何も悪くないよ。謝ることは何一つないよ。気にしなくていいんだよ。本当に…」最後は自分に言い聞かせているようだった。
机の前の壁にも文字の書かれた変色した紙がピン止めされている。これには『卓爾』とだけ墨で書かれていた。
「おおじぃ、これは何て読むの?」
「これは『たくじ』って読むんだよ」
「どういう意味なの?」
「こうちゃんは知っているかい。忠臣蔵というお話」
「うん。四十七士が吉良上野介の家に討ち入る話だよね」
「よく知っているね。あの四十七士は赤穂浪士といって、江戸時代の話なんだ。元禄時代の話だけど、播磨の国だから今の兵庫県かな。そこに山鹿素行という朱子学者がお抱えになって藩の侍たちに軍学などを教えた。その山鹿素行の著した書に『山鹿類語』というのがあってその中に出てくることばなんだ。意味は『抜きんでるさま』つまり『他人に支えられて立つのではなくて自らの踏まえどころをもって立つ』ということ。武士の理想的な生き方をこの『卓爾』ということばで表したんだね。それが戦争末期になって己を犠牲にして国に尽くすことが日本男子の理想的な生き方だと結びつけられた。おおじぃの息子もこの言葉に感動していた立派な皇国青年だった」
おおじぃは淡々と一言一言を噛みしめるように呟くように言った。おおじぃのひりひりするような心の痛みが伝わってきた。それでも物珍しさへの好奇心が勝った。
机の上に目を転じると、古ぼけて茶色く変色した白黒写真が木枠のなかに収まっていた。そこは病室なのだろうか、殺風景な部屋に眼鏡をかけた青年と白い寝巻なのか浴衣なのかを着たきれいな女性がベッドに並んで腰をかけていた。私の視線に気づいたおおじぃが教えてくれた。
「この眼鏡をかけた男の子がおおじぃの息子。いっしょに写っている女性は美笑さんという幼馴染の子で、小さいころからお互い近所同士でとても仲が良かった二人だった。写真を撮ったのはまだ結核に感染しているかどうか分からないときだね。おおじぃが撮って現像したんだよ。それからしばらくして美笑さんは長野県の富士見町にある高原療養所へ転院していった」
「この人は結核だったの?」
「美笑さんが勤労奉仕に出ている間に結核に感染したらしいんだ。当時結核は国民病といわれるほど猛威をふるっていたんだよ。ストレプトマイシンという効果のある薬はまだ手に入らず、患者は結核治療のため、日当たりや空気など環境の良い高原で長期間過ごしていたんだ」
「ほら、そこに小さな木枠だけの箱のような物があるのが分かるかい?」
10センチくらいの正方形の平たい箱が写真の横にあった。一方の面に透明だけど所々が汚れて曇ったガラスが嵌められていた。中には几帳面な字で『大瑠璃小灰蝶』と書いた紙片があり、その下に小さく『Shijimiaeoides divinus』と書かれていた。
「読めないよ、おおじぃ」
「これは『おおるりしじみ』と読むんだよ。しじみだけど貝じゃない。蝶々の名前なんだ。おおじぃの息子はなぜだかこの蝶が殊の外好きでね、よく長野県の安曇野まで採集に出かけたんだよ。この蝶の幼虫はクララという植物の芽や蕾しか食べない。そのクララが安曇野に群生していて、梅雨になるまえに成虫になって、小さいけれど綺麗な薄紫の羽を羽搏かせて空に舞うんだね。おおじぃの息子は安曇野にいって大瑠璃小灰蝶を捕まえて展翅して、それを療養中の美笑さんに持っていったんだよ」
「でも『おおるりしじみ』はこのなかにいないよ」
「よく中を見ると粉々になった蝶の体の断片が見えるよ」
言われてみると何か黒いものがいくつか箱の内側の角にあった。
「その女の人は喜んだ?」
「そうだね。とても仲が良かったからね。でも、あとから考えると可哀そうなことをしたと思う」
「どうして?」
「病室で一人さみしくいるときに、熱が出て具合の悪いときに、この小さくて可憐な蝶を見たら何て思うかな。展翅された蝶はこの小さい箱の中から外に出られない。美笑さんもその療養所に閉じ込められて自由がなかった。ころころとよく笑ういい子だったけど、おおじぃの息子の贈り物がこの子に切ない思いをさせなかったかどうか」
「その女の人はどうなったの?」
「高原療養所の入所者は全治者が、つまり病気が治った人はだいたい全体の三分の一くらい。全治しなくても軽快といって症状が軽くなった人が二人に一人もあったのに、美笑さんは戦争が終わるとすぐに亡くなってしまったんだよ。遺品としてその展翅箱と息子が送った何通かの手紙がおおじぃたちのところに戻ってきた」
「美笑さんは、おおじぃの子どものことを知ってたの?」
「いや、知らなかったと思うよ。二人はどうやら将来を約束していたみたいだった。二人の願いはとうとう叶わなかった。おおじぃもおおばぁも口には出さなかったけれど『そうなれば』と思っていたよ。とても残念だった。今でも思いは変わらないよ」
私はあらためて写真の中の二人を見つめた。二人はとても嬉しそうに笑っていた。美笑さんのひざの上にあるおおじぃの息子の手を美笑さんの両手が包んでいる。二人の願いとおおじぃとおおばぁの願いを思った。
座敷の方からおおばぁの「お茶を淹れましたよ。少し休んではどうですか?」という声が届いた。
「こうちゃんにはジュースが冷えてるよ。宿題は持ってきたかい? 夕食の前に少しやっておこうか」
おおじぃは少し疲れていたようだった。私も短い間に色々なことを聞いて頭の芯が重くなっていたので、『続きは明日でいいや』と思った。一人でこの部屋に出入りしていいかと聞いても、おおじぃはきっと『いいよ』と言ってくれる。母からも宿題を早めに済ますようにと念押しされていたのを思い出した。
その日の夕食は、こうちゃんが一人で来たお祝いだといって、おおばぁの作った美味しい料理が並んだ。「こんなに沢山食べられないよ」と言っても美味しいのでどんどん食べられて、下着をたくし上げてお腹を見せると胃の辺りがぷくっと盛り上がるほど詰め込んだ。それを見ておおじぃとおおばぁは楽しそうににこやかに笑っていた。やがて上の瞼を開けていられないくらい眠くなってきて、ごちそうさまをして、最後の気力をふりしぼってお風呂に入ったところまでは何とか覚えていたけれどそのあとの記憶は翌朝には消えていた。
自分でも気づかない疲れがあったのか、翌朝は起きる予定の時刻を大幅に遅れて起きた。当たり前のように誰も起こしてはくれない。恐る恐る二人のいる居間に入っていく。
「遅くなりました。おはようございます」
おおじぃは新聞を広げ、おおばぁはテレビを見ていた。
「おはよう、こうちゃん。よく眠れたかな。あまり起きてこないから、おおばぁは心配になって何回か見に行ったんだよ」
「いやですよ何回もだって。1回だけですよ。こうちゃん、喉が渇いてるよね。起き抜けだから麦茶をいれようね」おおばぁが台所に入っていく。
「あっ、怒られる。お母さんに着いたら電話するようにって言われてた。おおじぃ、電話をお借りします」
「こうちゃん、心配しなくていいよ。電話なら昨日の夜、おおじぃがお母さんに連絡しておいたよ。大丈夫だよ」
私は顔が赤くなって、それから体が熱くなって、心臓がどきどきして、おおばぁのいれてくれた麦茶を飲んで急にからからになった喉を潤した。
おおじぃは私の予想通り主のいなくなった奥の部屋を自由に見ていいと許してくれた。ただし宿題が先だったから、私は昼食までの時間を夏休み帳を相手に過ごすことになった。
昼ご飯は昨日の晩食べ過ぎたからねと言われて冷や麦が用意されていた。二人は私が奥の部屋に行きたいのを堪えて食べているのを目を細めて見守ってくれていた。
その日の午後は、戦前に出版された書物を相手に辞書を引きつつ読んでいった。高校の参考書の代数幾何、解析などはチンプンカンプンで早々に撤退。父と同じように岩波文庫が多くあったものの理科系の父と違い、日本の古典『万葉集』『古今和歌集』『風土記』『発心集』や島崎藤村の『若菜集』『夜明け前』、夏目漱石、森鴎外などの文学作品が数多くあった。他に大日本講談社の雑誌『キング』が一揃いありその中の広告を眺めているだけでも時間が矢のように過ぎていった。
三時過ぎには、きのうと同じおおばぁの、「こうちゃん、休憩しましょうか。今日はサイダーですよ」の声。おおばぁの誘いに勝てるわけがない。
おおじぃはいつもいる居間にはいなかった。近くの書店まで行くのが散歩がてらの日課だという。暑い夏は陽が高く上る前の午前中に行くの普通だったが、その日は来客があったとかで、おおばぁ曰く『この暑い最中に』出て行ったらしい。なんでもおおじぃが毎月買っている雑誌の出る日だとか。『書店は冷房が効いているし、帰りに寄るところもある』らしい。
「こうちゃん、耳掃除しようか」
きたかと思った。小さいころから過ごしたこの家で、手の空いたときにおおばぁは私の頭を膝にのせて耳掃除をしてくれるのだった。幼稚園、小学校の間中それは恒例行事の一つだった。私は自分では耳の中にあの竹の細長いへらを入れたことがない。自分の耳は見えないし、やったことがなかったから鼓膜を突き破ってしまわないかという怖さが先にたった。耳掃除は小さい子がやってもらうことだと思ったものの、私に断る積極的理由などあるはずもない。
耳掃除はおおじぃの丹精込めた庭を眺めながらしてもらうと決まっていた。それほど広くはないもののよく手入れされた気持ちのいい庭だった。生垣の上に夾竹桃の薄い赤みを帯びた花が満開だった。そこに蝶が二、三頭やってきてふわふわと舞っている。少年の私ですら「長閑だ」と思った。居間と庭の間の広縁におおばぁが座布団を敷いてその上に座り、私が座布団を二つ並べて頭をおおばぁの膝に預け横になるのがお決まりだった。おおばぁはお喋りなほうではなかったものの学校のこと将来のこととか聞いてきたり、逆に昔のことを話してくれた。おおじぃのやさしさも好きだったが、おおばぁのやさしさも別の心地よさがあった。
私は話しながら何故か二人の亡くなった息子のことを思っていた。おおばぁの口から彼のことを聞いたことはない。聞いてみたいことはいろいろあったけれども、それは聞いてはいけないことと決めていた。
耳掃除はすぐに終わる。最後に仕上げといってパフと呼ばれる綿毛のようになった部分でこちょこちょとする。それがこそばゆくって私はいつも身を捩って笑いそうになるのを堪える。その姿が可笑しいといっておおばぁは「ほほっ」と上品に笑う。ところがその日はこちょこちょの前に耳新しいことばを聞いた。
「こうちゃん。あなたは私の誇り、わたしの自慢、わたしの宝です」
初めて聞いたそのことばを、私は自分に向けられたものとは思わなかった。「えっ」と小さい声が出たかもしれない。それは今まで聞いたことのないおおばぁの声だったいうな気がした。起き上がっておおばぁを見ると、後始末をしているいつものおおばぁだった。
まもなくおおじぃが帰ってきて、汗をたくさんかいていて『ちゃんと拭いてくださいな』おおばぁに叱られているのが聞こえた。
「おおばぁ、サイダー、ありがとう」コップを流しに持っていった。
「こうちゃん、今晩は何が食べたい?」いつもの声のおおばぁに聞かれた。
「うーん。お母さんに我がまま言っておおばぁを困らせちゃいけませんよって言われているけど、コロッケが食べたい。おおばぁの作り立てのあったかいコロッケの美味しさは母の料理にはありません」ちょっと大人びて言った。
「まぁ、こうちゃんから褒められたから、おおばぁは腕によりをかけて作るね。でもお母さんの拵えてくれたものと比べちゃいけませんよ。人にはそれぞれ持ち味というものがありますからね」
今でもそう思うけれど、母の作るコロッケは不味くななかったけれど、贔屓目に見てもおおばぁのコロッケには敵わないと思っている。
夕食まで奥の部屋で好きにしていた。夕食を食べたら寝るまではおおじぃとおおばぁのそばで過ごした。夜、主を失った部屋で妙に明るい蛍光灯の下にいると、何故だか気が滅入ってくる。それに私と話をしている二人の笑顔を見ているのも、私は大好きだった。
三日目は早起きした。朝のラジオ体操が始まったからだ。カードにゴム印を押してもらって殆ど休んでないとノートや鉛筆のセットがもらえた。ことさらそれが欲しいという訳でもなかったけれど、おおじぃがいっしょに行くと言ったし、帰ってから母に調べられるのは分かっていた。さぼったら小言を頂戴するのが面倒くさい。それに奥の部屋で読んだ海軍の話で「誘導振」というのがあって、前の晩におおじぃに「誘導振」って何なのと聞くと、「明日、ラジオ体操にいったとき教えてあげるよ」と言われていたということもあった。おおじぃも私をなんとかラジオ体操に行かそうと心を配っていた。私が母の小言がまったく嫌になっちゃうとか独りごちたのを聞かれたのか。
次の日の朝、体操のあとでおおじぃは誘導振を見せてくれた。両腕を前に真っすぐ伸ばして肩の高さまで持ち上げたあと、急に力を抜いて体側に落とし、そのはずみで又左右に伸ばしたまま肩の高さまで上げることを繰り返す運動だった。 肩の力を入れず、前、横、前、横、と腕を振りつづける。号令をかけながら次に移る型が決まらない時の場繋ぎのような体操だった。「誘導振、前回旋、後回旋、体前倒、陣躍体、前屈伸」おおじぃの言葉はまるで呪文のように聞こえた。
朝食はおおばぁが「二人でいっぱい動いてきたから今朝はアメリカン・ブレックファーストよ」と言って食卓に沢山の皿が並べだ。私の家では夏休みだからといって特別な朝食は出ない。御飯とみそ汁と、焼き魚、卵焼き、漬物といった日本の旅館で出される朝食と同じだった。そこに好みで味付け海苔や納豆などをめいめいが自分で用意するのが決まりだった。おおばぁは、トーストにバターやジャムを用意し、飲み物はミルクやコーヒー、紅茶を選べた。たっぷりの野菜とハムエッグや、量は少ないけれど鶏肉のソテーまで並ぶ。おおじぃが「おお、力が入ったなぁ」と感心した声を出した。おおじぃもおおばぁも大して食べないから、私のように何でも食べる子どもが珍しかったのだと思う。
午前中は宿題をすることになっていた。母の言いつけで早く終わらせてはいけないことになっていた。なんでも毎日の少しずつの努力の積み重ねが立派な人を作るらしい。母は私に立派な人になってもらいたいらしい。私は反抗というか知恵を使うというかそういうことはしなかった。早く終わって後から日付だけ帳尻を合わせればいいとかは考えなかった。母の言いつけを、そういうものかと思えた時期だったのだと思う。
宿題の後は奥の六畳間に籠る。おおばぁは「空気が淀んでいるから、障子や窓はいっぱい開けているんだよ」とだけ言ってその他のことは何も言わなかった。
昨日と同じような時が過ぎていった。例によって3時ごろお茶ですよと声がかかった。居間では今日はおおじぃがいて、囲碁の雑誌を手に持ち、目の前の碁盤に白と黒の模様を作っていた。用意してもらったジュースを飲みそろそろと思ったとき、おおばぁが、「こうちゃん、耳掃除しようか」と言った。耳掃除は昨日したはずと思っておおばぁの方を見た。おおばぁは昨日と同じ場所に座ってこちらを見ていた。私のために座布団が二枚敷かれている。私が戸惑っているのを見て、おおばぁは、「こうちゃん、こっちこっち」と手招きしている。おおじぃは碁盤と睨めっこしたまま。
不思議な気持ちのままおおばぁのそばに横になって頭をおおばぁに預けた。昨日と同じ夾竹桃の薄赤い花が風に揺れていた。いつもと同じ手順の耳掃除だった。ただ、今まで二日連続で耳掃除をしたことはない。おおばぁ、昨日したのを忘れているのかな。おおばぁも喜寿だとか父が言っていたのを思いだした。喜寿っていくつだっけ。かなり歳をとっているってことかな。歳を取ると忘れやすくなるって昨日おおじぃが言ってた。おおじぃは確か八十で傘寿だなとこれも父の声色つきで思い出した。そのときおおばぁの声がした。
「こうちゃん。あなたは私の誇り、わたしの自慢、わたしの宝です」
昨日と同じ言葉をおおばぁが言った。居間でおおじぃが息を呑む気配がした。おおじぃを見ると老眼鏡を下にずらして上目遣いでこちらを見ている。困っているように見えた。それでもおおじぃは何も言わなかった。私と目が合ってすぐにまた目を雑誌の上に移した。
おおばぁは、「さぁ、仕上げ仕上げ」といって綿毛のパフでいつものように耳の中をくすぐった。私は反応しなかった。体も少し強張っていたと思う。それでも、ありがとうと務めて明るい口調で礼を言った。後始末をいつものようにして、おおばぁは、「こうちゃん、晩御飯はお刺身だよ。こうちゃんの好きな新鮮な鮭が手に入ったよ」と歌うように言いながら台所に入っていった。また私は耳を疑った。刺身は私の好きな料理だったけれど、私の日頃好きだと言っていたのは鮪で一度も鮭が好きだとおおばぁに伝えたことはなかった。
そのときだった。台所で「ああ」と大きな声がした。ガッシャーンと食器の床に落ちる音。「いやぁ」とおおばぁの悲鳴に似た叫び声が続いた。おおじぃが見ていた雑誌を放り出し台所へ急ぐ。すべてがスローモーションのようにゆっくり動いていた。
私は急に息ができなくなっていた。大きな大きな悲しみの感情が私を押し潰そうと襲ってきた。嘆きと悲しみに黒い怒りが混じり、人の思いでありながら、いままでそんな感情のうねるような迸りに圧倒されたことはなかった。私は抗う術を持たなかった。嵐の中の小さな葉っぱのように翻弄され続けた。そのときのことを表すのに相応しい言葉を、子どもだった私は持たなかった。やがて歳を重ねているうちになんとか言葉が見つかった気がする。
「万斛の思いの奔流」
そう言うしかない。後年、ニュース映像で、近くで何かが爆発しそばにいた人が爆風で吹き飛ばされるのを見たことがあった。それに似ていると今では思う。私は圧倒的な感情の爆発に魂を吹き飛ばされたのだった。
私はしばらく気を失っていたらしい。おおじぃに起こされるまでどのくらい経っていたかは思い出せない。そのときおおじぃは心配そうに私の目を見て言った。
「おおばぁの具合が急に悪くなってね。前にもあったけれど、何か思い出したくないことを思い出したんだね。しばらく寝ていないといけない。悪いけど、こうちゃんはおおじぃがお家に電話をするから車で迎えに来てもらうけどいいかな?」
いいも悪いもなかった。調子が悪いから会わない方がいいとおおじぃに言われて、おおばぁには別れの挨拶もできなかった。おおばぁは眠っているらしい。その日の遅く父が迎えに来て、私の夏の短い冒険は終わったのだった。
おおばぁの膝の上で見た夾竹桃の薄赤い花が風にそよいでいる景色。そこに蝶が舞っている情景が強烈に記憶に写し取られていたのだった。
幼な児は買ってもらったアイスクリームに熱中している。口の周りとTシャツの胸のところが垂れたアイスクリームでべとべとになっている。息子の嫁はそんなことを気にする人ではないけれど、妻はいい顔はしないだろう。
腕時計を見るとあと30分くらいで正午になるところだった。昼までに戻る約束だった。
「こうちゃん、ママのところに帰ろうか。ママ、待ってるよ」
孫を水飲み場に連れていき手を洗った。蛇口を緩めると勢いよく噴水のようになるのが面白いらしく、その場から離れるのに何回も「ママが待ってるよ」と言い続けるはめになった。すっかり頭から濡れそぼってしまいタオルを絞っては顔頭首を拭いた。少し強かったのか「じいじ、いたいからヤダ」と文句を言われてしまう。
手を繋いでどうにか引っ越し作業中の家屋にたどり着いた。懐かしい大叔父の家はリフォームされて外も内も小ぎれいになっている。大叔父夫婦に子どもがいず、遺言で何故か弟の孫である私に譲られた。年に何回か風を通したり雑草を抜いたりはしていたが、父も私も住むことはついになかった。それが息子が結婚をして子供が出来て住んでいるアパートが手狭になったのを機に、十分息子の通勤圏内であるこの家に住んではどうかという話になった。奥さんのご両親が積極的だったのは、ここに移ってきた方が自分たちの家に近いという分かりやすい理由だった。奥さんの両親も孫を溺愛していた。いっしょに住んでもいいよ、庭に息子夫婦のための家を建ててもいいとまで言った。そこから両家で古い家をリフォームし費用を折半するという話を妻がまとめ、業者が工事を始めたのが半年前で完成がつい先日のこと。
私の知っていた大叔父の家はすっかり様変わりしていた。あの大叔父の息子の部屋の書物も大叔父が生前処分したという。ただ予算の関係で家の周りや庭はそのままになっていた。きちんとした佇まいを見せていた庭は工事で職人たちに踏み荒らされてしまい、昔のような住む人の人となりが感じられる風情は跡形もなく消えてしまっていた。
後日談というのだろうか、思い出話には少し続きがある。
戦争が終結する少し前に、大叔父夫婦はひとり息子の戦死の知らせを受け取った。フィリピンのルソン島においての戦死と戦死公報に記されていたという。
「死亡告知書 右は昭和二十年七月二五日フィリピンルソン島にて戦死せられましたのでお知らせします」遺骨もなにもなかった。
その事実を受け入れられないかった大叔父夫婦は八方手を尽くして調べ伝手を辿って問い訪ねたものの何一つそれ以上のことは分からなかったという。
戦後しばらくして大叔父夫婦は一人の帰還兵の訪問を受けた。私が以下の詳細を知っているのは、父がちょうどその場に居合わせたからだった。終戦後、父は学業を再開するために大叔父の家に一時単身で寄宿し、そこから学校に通っていた。
暑い夏の始まりのころだった。その人は玄関先に立ち、「—上等兵殿のお宅でありますか」とおとなってきたという。
家に招じられたその人は「自分は―二等兵であります」と言い、レイテ島での決死の退却作戦で行動を共にしていたという。勧められた座布団も断り正座して話すその人は、大叔父の息子の最後を語りだしたという。
補給が尽きてから三月、持久戦というゲリラ戦のただ中、敵兵の待ち伏せ攻撃をかわしながらどうにか行軍をつづけたものの、体力のない者、傷病者から落後していき、その場で見捨てる以外なかったという。転進命令は絶対であり、指定された日時場所までにはなんとしても行軍をつづけなくてはならなかった。農村出身の自分は―上等兵殿に可愛がられ励まし合いながら困難を乗り越えてきていた。―上等兵殿は、地元民との肉弾戦で足を負傷してしまいもはやここまでとなった。貴様がもし生きながらえて故国日本の土を踏むことがあったら頼みたいことがある。そういってボロボロの布鞄から取り出したのは泥水に汚れて変色した一冊の文庫本だった。これを貴様に託す。父母に、あなた方の息子は何にも恥じることなくお国のお役に立とうとしました。志半ばなれど誇りを胸に今日まで生きてこれました。そう伝えてほしいとのことだった。文庫本の、辛うじて読むことが出来た背表紙には『万葉集』という文字が読めた。扉を捲ってみて懐かしい息子の名が記されているのを認めた大叔父は言葉を詰まらせた。忘れもしない、右上がりの癖のある息子の氏名が彼の愛用していた青いインクで記されていた。目の前に端座している―二等兵が伝えているのは紛れもなくその死を受け入れられない息子の最後の様子だった。俺には故郷に美笑という将来の約束をした可愛い女性がいる。その子のためにここで死ぬわけにはいかない。何度もそう言ってやがて力尽きていったという。
気丈に最後まで―二等兵の話を聞いていた大叔母は、帰り際にその人の鞄に貴重な米と小豆を分け与えたという。頑なに断る彼に大叔母は必死の形相で無理やり鞄に詰め込んだという。そして玄関まで見送ったらすぐにその場に崩れるように倒れ込んでしまい、大叔父と父とでどうにか布団に寝かせた。起きて再び日常生活に戻っても魂の抜けたような有様が長く続いていたという。
―二等兵は右手を負傷していたらしい。土埃で汚れた包帯に滲んだ血が黒いシミをつくっていた。大丈夫ですかという父に問いかけに、敵民兵に囲まれてもはやこれまでと大叔父の息子からもらった短銃で自決しようとして暴発し右手の指が何本か吹き飛んだという。そのまま捕虜となり敵の収容所で敗戦を迎えて帰還できたという。
断片的な話しながら、文庫本の文字といい美笑という名前といい語られた話が本当であることは動かしようがなかった。出陣学徒なら訓練期間が終わったら六階級飛びで軍曹ではないかと問う父に、―二等兵は、―上等兵殿はよく「俺は幹落ち」だと言って笑っていたと答えたという。何かの理由で幹部候補生の試験を落ちた者の呼称だという。父は「彼は優しい心根の男だったから、無暗に殴る側にまわるよりも殴られる側を選んだ」のだろうと言っていた。父からその話をしたとき、私は気になっていたことを尋ねた。そして父からその二等兵の右頬に青黒い痣のようなものがあった記憶を引き出した。父は顔の特徴などどうでもいいだろうと言って、私が変な拘りをするという顔をしたもののそれ以上気に留めないでいてくれた。私は、その―二等兵とすれ違ったことあったことが信じられなかった。
大叔父の戦争で亡くなった息子の名は剛士といった。「こうし」と読む。私の「いとこおじ」に当たるらしい。大叔父にとって弟の子である私の父はこの剛士さんと大変仲が良かったので、戦後生まれた私の名に親しかった剛士さんの名をつけた。私は知る由もないが、長ずるにつれて私が亡くなった剛士さんの生き写しかと思うほど容貌が似てきたという。大叔父は剛士さんの戦死を嘆き続ける大叔母のことをいつも気にかけていて、日を追うごとに亡くなった息子に似てくる私を見て大叔母がどういう反応をするか心配したという。しかし、大叔母は私や他の従弟などに分け隔てなく接していたし、もともと明るい気性の大叔母が以前の明るさを取り戻しつつあったので、時の流れに少しずつ癒されてきたのかと大叔父は思ったという。
息子夫婦の新居はあらかた片付けも終わり、段ボールの箱も畳まれてひとところに積まれている。孫は剛史という。読み方は私や大叔父の息子と同じ「こうし」だった。だから愛称は勢い「こうちゃん」となっていた。息子には広樹という名をつけたのに、孫には祖父である私と奥さんの父親から一字ずつ貰ったという。それを知って安易なと感想を漏らすと妻が怒り出したのに閉口した。
近くのレストランで昼食を食べ戻ってくると慣れない孫の相手で疲れてしまっていたのか、座敷に横になって右腕で頭を支えながら夾竹桃の咲く庭を眺めていると眠くなった。それを伝えると、妻と息子夫婦はまだ買い物が残っていると言って孫を連れて出て行った。
目の前の庭の名残りなのか竹を麻縄で編んだ垣根が巡っていた。竹の根元にある大き目の黒い石も昔の景色のままだった。父にもこの狭い庭には愛着があったのだろう。私に譲られた家だったが、あるとき父がみてくれだけでもと朽ちかけた垣根を自分の手で新しくした。素人にしては上手くできたと父が自慢していたのを思い出す。あの夏からもう半世紀たったのかと思う。その父はかつての大叔父と同じような歳になっていたがまだまだ元気でいてくれる。
横になってぼうっと外の景色を眺めていた。思い出すことの多い家なので次々に当時のことが蘇ってきた。親戚での賑やかな集まり。振舞われた西瓜を子ども同士で競って食べたこと。勉強を教えてくれた従弟たち。外国から帰ってきた大きな従弟がスライドを見せながら話した珍しい想い出。おおじぃとおおばぁの金婚式の祝い。次々に景色が映っていく。午前中の慣れない疲れのせいか現と夢のあわいが不明瞭になりかけていた。
目の前に薄紫色をした小さな蝶がどこからか現れた。オオルリシジミに違いないと思った。舞っている下の地面にある黒い石に目を凝らすとそれは二つの髑髏に変わっていた。大きく開いた眼窩が四つ、可憐な蝶の舞を見つめていた。するとまた一頭のオオルリシジミが現れ、二頭で軽やかに楽し気に舞い始めた。それを見ている二つの髑髏には表情が伺われないのにとても嬉しそうにしているようだった。私の目から涙があふれ頬を伝わっていった。おおじぃ、おおばぁ、やっと息子に会えたね。よかったね。ほんとうによかったね。まぼろしでもいいからずっとこの景色が終わらなければいいと、私は心のそこからそう願っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。後ほど参考文献を追加することになります。