彼と鼓動を重ねた刻
彼の胸に耳を当てて、心臓の鼓動を聞くのが好きだった。
名作曲家が作り上げたかのように美しい旋律を奏でる心音。
私は恥ずかしながら、それを聞くと心臓が早鐘のようにドクンドクンと脈打ってしまう。
彼と私、心臓の鼓動を同じリズムで重ねられる刻は来ないのだろう。
* * * * * * * *
昭和六十四年。
七日間だけ存在した、昭和最後の刻。
景気はバブル。テレビでは昭和の歌姫や、大物芸人の新番組告知が流れていた。
私は彼の家で、それをボーッと眺めていた。
彼の家は所謂、高級マンションだ。
室内には意匠を凝らしたブランド物の家具や、愛の画家と呼ばれたシャガールのリトグラフが飾られている。
この絵の題名は確か……魔笛と言っただろうか。
モーツァルトのオペラ魔笛、その初演のためのポスター。
笛の音で動物たちが狂っていく様を幻想的に描いている。
だけど、これに関しての蘊蓄は詳しくは知らない。
私も彼に聞いた程度の知識なのだ。
彼は私と違って頭が良い。
何故なら、高校教師だから。
私を愛してくれた唯一の人。
地味で目立たない性格の私を――、ずっと一人で教室の隅にいるような私を――、ただ愛してくれた想い人。
フワフワの癖っ毛で、何時もグレイのスリーピーススーツを着熟して、爽やかな笑顔を覗かせていた。
彼は背が高いため、私を抱き締めてくれる時に自然と顔が胸板に当たる。
クリーニング後の清潔感ある香りと共に、心臓の旋律が聞こえてくる。
その音色が私を狂わせる。
私の顔は紅潮、心臓の鼓動が高鳴り、思考が霧煙らせたかのように純白に染め上げられる。
まるで魔笛だ。
彼の心音の前では、私は何も考えられない動物に戻ってしまう。
この幸せがずっと続けば良い。
二人は将来を誓い合った。
私が高校三年生になった時、見た。
彼が一年の女生徒と抱き合っている所を。
思考が崩れた。心が砕けた。目の前を冬の曇天のような闇が覆った。
それから監視した。
愛しい彼を見つめ続けた。
朝も昼も夜も――。
今までは気が付かなかったのだが、学校では生徒に手を出す教師として有名だったそうだ。
近すぎて認識できなかったのだろう。
恋は盲目と言うが、より深い愛は聴覚すら奪っていたのだ。
でも、私は別れる気は更々無かった。
彼以外の人間は必要ないとまで考えていたのだから。
その証拠に彼のマンションに忍び込み、盗聴器を仕掛けてあげた。
愛しい彼の事をもっと知らなければならない。
愛しい彼の為に行動をしなければならない。
彼の家に上がり込んでいた一年の『只本』――殺した。
ラブホテルに入っていった一年の『皆瀬』――殺した。
恋文を渡した二年の『前川』――殺した。
笑顔で会話した二年の『出月』――殺した。
彼を穢す存在が消えた。
やっと彼と二人きりになれる……永遠に。
私は彼の部屋で新妻のように静々と、包丁を手に帰りを待っていた。
「マサムネ先生、おかえりなさい」
「あれ……確かキミは萩生ナギだっけ? 何でここに――」
彼の心臓の音色は、私の魔笛だ。
狂おしいほどに愛おしく、でも絶対に重ならない悲しい鼓動。
ただ一つの例外を除いては――。
昭和最後の刻と共に、止まった二つの鼓動。
やっと同じに重なり合った。
最初は爽やか恋愛っぽかったのに、どうしてこうなった。




