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彼と鼓動を重ねた刻

作者: タック
掲載日:2018/07/28

 彼の胸に耳を当てて、心臓の鼓動を聞くのが好きだった。

 名作曲家が作り上げたかのように美しい旋律を奏でる心音。

 私は恥ずかしながら、それを聞くと心臓が早鐘のようにドクンドクンと脈打ってしまう。

 彼と私、心臓の鼓動を同じリズムで重ねられる刻は来ないのだろう。




* * * * * * * *




 昭和六十四年。

 七日間だけ存在した、昭和最後の刻。

 景気はバブル。テレビでは昭和の歌姫や、大物芸人の新番組告知が流れていた。


 私は彼の家で、それをボーッと眺めていた。

 彼の家は所謂、高級マンションだ。

 室内には意匠を凝らしたブランド物の家具や、愛の画家と呼ばれたシャガールのリトグラフが飾られている。

 この絵の題名は確か……魔笛と言っただろうか。

 モーツァルトのオペラ魔笛、その初演のためのポスター。

 笛の音で動物たちが狂っていく様を幻想的に描いている。


 だけど、これに関しての蘊蓄は詳しくは知らない。

 私も彼に聞いた程度の知識なのだ。

 彼は私と違って頭が良い。

 何故なら、高校教師だから。


 私を愛してくれた唯一の人。

 地味で目立たない性格の私を――、ずっと一人で教室の隅にいるような私を――、ただ愛してくれた想い人。

 フワフワの癖っ毛で、何時もグレイのスリーピーススーツを着熟して、爽やかな笑顔を覗かせていた。

 彼は背が高いため、私を抱き締めてくれる時に自然と顔が胸板に当たる。

 クリーニング後の清潔感ある香りと共に、心臓の旋律が聞こえてくる。

 その音色が私を狂わせる。

 私の顔は紅潮、心臓の鼓動が高鳴り、思考が霧煙らせたかのように純白に染め上げられる。

 まるで魔笛だ。

 彼の心音の前では、私は何も考えられない動物に戻ってしまう。

 この幸せがずっと続けば良い。

 二人は将来を誓い合った。




 私が高校三年生になった時、見た。

 彼が一年の女生徒と抱き合っている所を。

 思考が崩れた。心が砕けた。目の前を冬の曇天のような闇が覆った。


 それから監視した。

 愛しい彼を見つめ続けた。

 朝も昼も夜も――。

 今までは気が付かなかったのだが、学校では生徒に手を出す教師として有名だったそうだ。

 近すぎて認識できなかったのだろう。

 恋は盲目と言うが、より深い愛は聴覚すら奪っていたのだ。


 でも、私は別れる気は更々無かった。

 彼以外の人間は必要ないとまで考えていたのだから。

 その証拠に彼のマンションに忍び込み、盗聴器を仕掛けてあげた。

 愛しい彼の事をもっと知らなければならない。

 愛しい彼の為に行動をしなければならない。


 彼の家に上がり込んでいた一年の『只本』――殺した。

 ラブホテルに入っていった一年の『皆瀬』――殺した。

 恋文を渡した二年の『前川』――殺した。

 笑顔で会話した二年の『出月』――殺した。


 彼を穢す存在が消えた。

 やっと彼と二人きりになれる……永遠に。

 私は彼の部屋で新妻のように静々と、包丁を手に帰りを待っていた。


「マサムネ先生、おかえりなさい」

「あれ……確かキミは萩生ナギだっけ? 何でここに――」


 彼の心臓の音色は、私の魔笛だ。

 狂おしいほどに愛おしく、でも絶対に重ならない悲しい鼓動。

 ただ一つの例外を除いては――。


 昭和最後の刻と共に、止まった二つの鼓動。

 やっと同じに重なり合った。

 最初は爽やか恋愛っぽかったのに、どうしてこうなった。

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