夜、気まぐれ
昔に聞いたメロディの断片が頭から離れなかった。歌詞もあやふやで、気を抜くとメロディすら忘れてしまう。
夜、駅の外はひどく乾いていた。低く、鋭い風が冷気を運ぶ。私は無防備に出していた手を引っ込め、案内に従って待ち合わせの場所へと急いだ。知らない街の知らない駅は、日頃隅に追いやっていた私の冒険心を掻き立てた。雲の流れはやけにゆっくりとしていて、頭上を見上げて数秒したところで、私はようやく友人からの頼まれごとを思い出したのだった。
「……本を買うんだった」
外へ出る間、私は駅の構内で書店を見かけた。それなりの大きさだったと記憶している。恐らくは友人が所望する本もあるだろう。私は踵を返してその場を後にした。逆走しながら人という人の顔を見た。どれも知らない顔ばかりだ。聞いたことのない顔が銘々に聞いたことのない声を発している。人通りの多すぎる街は不安になる。それだけの人間の人生の数を思うと、虚無感で胸が押しつぶされそうになるからだ。
私は来た道を辿り、記憶にあった書店へと行き着いた。書店に本を買い求めに来るのは久しぶりのことだ。店頭に押し出されている新刊の群れの前で立ち止まる。聞いたことのないタイトルの本ばかりだ。中でも鮮やかな青と紫で彩られた表紙の本を手に取る。ボーイミーツガールを思わせる帯。いつだって「少年」は英雄で「少女」は特別だ。著者の名を見て私は首を傾げる。小説家ではない、芸能人が書いた本だ。私は元あった場所へとその本を戻した。新刊の設置場所から顔を上げると、様々な客が右往左往している様子が見えた。その奥ではレジを待っていると思われる人間の列だ。そのさらに奥には膨大な数の本の姿が見えた。きっとその本の中で私が知っている本は一握りで、もしかすると在庫すらないのかもしれなかった。残りは知らない本だ。一冊一冊がどんなに特別な物語でも、これだけの数があるとなると無常を感じずにはいられなかった。幾多の言葉が紡がれ、幾千の情景が歌われているのだろうが、それは同時に永遠が存在しないことを証明しているように感じられた。
私は携帯で時刻を確認する。思っていたよりも経っていた時間に私は背中を押され、目的の本を探しに足を踏み出した。一冊の本、それもタイトルもわかっている本を探すのに然程の時間はかからない。番号で整理された棚を辿り、いとも易く手に入れることができた。列の後尾に並んで順番を待つ。沈黙を決め込むと、周囲で交わされる会話が直に耳へ流れ込んできた。物語を待ち望み列に並ぶ人間の姿はどこか滑稽で、私自身もまた物語を望む一人であった。作られていると知っても尚、どうして信じることで救われるのだろう。私の頭の中でメロディが浮かんだ。昔に聞いたメロディの断片。歌詞が思い出せそうで思い出せない。「夜」だとか「風」だとか、そんな言葉が使われていたような気がする。
レジの順番が回ってきた。
◇
本を買い終えて書店を出た頃、依然として時間に余裕のあった私は化粧室へ寄ることにした。今日もあと数時間と少しで終わるというものの、私は今日の顔を手に入れておきたかった。駅のお手洗いは夜18時という時間にしては珍しく空いていた。私は赤いルージュを唇に薄く乗せ、口角を上げる。鏡の向こうの私は、よく見慣れた私だった。
準備も整った頃、私は再び外へ出た。冷え切った風が顔を一面に覆う。一度見た景色に、私は仄かに親近感を覚えた。この街も同じだ。一度きりかもしれない人間を受け入れ、見送り、多くの人間の人生の一場面を見る。誰かの吐いた空気を吸って生きるのも悪くない。私はそう思った。
辺りがすっかり暗くなり、人工の灯りが其処此処で瞬きだす頃、待ち合わせていた友人が到着した。私は頼まれていた本を渡すついでに、思い出せなくてもやもやしていたメロディのことを彼に尋ねることにした。
「曲の名前が思い出せないだって? 歌詞は?」
「わからない。サビのメロディしか覚えてない。でも、それすらもあやふや」
「それだけでは情報が少なすぎるな……。歌ってみて?」
自分でも馬鹿げた話だと思う。時折思い出そうとすると、ぱったり思い出せなくなることもある。存在していたのかも危うくなりつつある、そんなメロディ。
「昔の歌だと思うのよ。何となくだけど。貴方なら知っている気がして」
私が記憶のメロディを口遊むと、程なくして彼は「ああ」と声を挙げた。そうして小さな頷きを二度繰り返す。
「どこで聞く機会があったのか知らないけど。それは『恋の予感』だね」
昔に聞いたメロディの断片。いつだって「少女」は特別だ。
単発ではしばらく出さないつもりでしたが、やはり書きたいときに書きたいものを書くスタイル……。