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第7話

 医務室に運び、ベッドに横たえると彼女の顔色はまだ青白いままだった。

 そっと身体を下ろすと同時に僕の顔と首筋に感じた彼女の吐息はとても弱いような気がして、妙な胸騒ぎが収まらない。

 

 医務室に控えていた女性医師は彼女の友人から話を聞き「おそらく貧血と寝不足だろう」と判断したようだ。

 しばらく寝かせて様子を見る、という話をしている間にも彼女は目を覚ますことはなく、僕の心は今にも凍りつきそうになっていた。

 彼女が目の前で倒れたという事実に頭がまだ追いつかない。僕は何の役にも立っていない。



「うん、連れてきた直後よりは少し顔色も戻ってきたみたいだし大丈夫だと思うわ。まぁとりあえず要観察かな。私が様子を見ているから、あなた達は仕事に戻っていいわよ」



 医師が割と明るく話すからそんなに心配することはないかもしれない。でも。



「彼女が目を覚ましても就業時間までそのまま休ませてやれないでしょうか。僕が定時で上がって彼女を送りますから、それまでは………」

「わかったわ。今日のところは私も心配だし、仕事に戻るのは止めてそのまま寝かせておく。それでいい?」

「はい、よろしくお願いします」



 彼女の友人、道長さんを伴って仕事場に戻る途中、少しだけ彼女について聞くことができた。



「あの子、貧血体質なんです。子供の頃からって言ってました。私と知り合ってからも、既に何度か倒れたことがあって。あ、未遂も含めてですけど」

「そうなんだ。知らなかったよ」

「いえ、知ってるのは同僚では多分私だけだと。上司はどうかな………、ほぼ知らないと思います」



 話していた時間は短く、医務室と同じ階の仕事場には、すぐに着いてしまった。別れ際、難しい顔をした道長さんが僕に小さく声をかけた。



「あの、こんなこと私が言ったりするのもお節介かなって思うんですけど………。結花が色々悩んでるみたいなのって、藤本さんに関してですよね? あの子、まだ私には何も話してくれないから、これはあくまでも私の勘なんですけど」

「………どうして………」

「“どうして”って………。あの子、最近藤本さんばかり見てましたよ?それにどうせさっきの雰囲気で他の人にもバレバレですよ。 ふたりの間に何があったか知りませんけど藤本さん、結花がこれ以上悩まないように、ちゃんとその悩みを解消してやって下さいね。あと、女子の皆さんにいじめられたりしないようにフォローしてあげて下さると助かります。よろしくお願いしますね!」

「あ、ハイ………」



 小声だけれど迫力のある道長さんに気圧されてしまい、つい返事が丁寧になる。

 そんな僕に道長さんはにこりと笑い、自分のデスクに戻っていった。


 槙田といい、道長さんといい、似たようなことを言われてしまったな。


 女子が何か言ったりすることなんて無いと思うけど、もし言われても、言われなくても大事にするさ。

 ここから先は彼女次第だけれど、もしも振られたとしてもずっと見守る覚悟はとうにできているんだ。




 定時までの時間はとても長く感じた。

 就業後、僕は足早に医務室へ急ぐ。



「一ノ宮さん、よく眠れた?」



 僕の問いかけに、目を開けてぼんやりしていた彼女がベッドに起き上がり、申し訳なさそうに呟いた。



「はい。………あの、運んで下さってありがとうございました。もう大丈夫なので自分で帰れます。送って下さらなくてもいいですから………」



 ベッドから足を下ろす彼女の腕を軽く掴み、僕は「駄目だ」と少しだけ強く言った。



「きみは電車通勤だったよね。僕の車で送る。ゆっくりでいいからエントランスまで一緒に行こう。荷物はほら、道長さんが用意してくれたから」

「………はい」



 観念したのかどうか僕の腕をそっと解きながら静かに立ち上がり、足元を確かめている。

 

 良かった、ふらつきはないみたいだ。


 僕は自分と彼女の荷物を持ち、彼女の歩幅で歩いた。



「ここで待ってて。車を回してくるから」

「………はい」



 僕に抵抗する気力はもうないのだろう。素直に従うその反応に、まだ心配が残る。

 僕は彼女を正面玄関に待たせ、足早に駐車場へ向かった。





「………今日はありがとうございました」



 会社の前に横付けした僕の車の助手席に促すと、少し戸惑った後に乗り込むなり、彼女が申し訳なさそうに頭を下げた。



「気にしないでいいよ」



 もっと言葉を繋いで少しでも安心させてあげたいのに、自分に対する苛立ちでどうしてもぶっきら棒になってしまう。

 自分の無力さを感じたあの時から続く苛立ちはどうしたら解消できるのだろう。

 そもそも今回彼女が倒れた要因は僕にあるというのに。


 運転に集中するふりでそのまま彼女から目を逸らしていたら、直線道路でシフトレバーに何気なく置いていた僕の手に、ひんやりしたものがそっと触れた。

 その温度よりも感触に内心飛び上がりそうなほど驚いて微かにびくりと反応すると、それは彼女の指先だった。ぼくが驚いたことで指先は逆に怯えたように戻っていってしまったけれど、彼女から僕に触れてきた、その事実に驚きが隠せない。



「どうしたの」

「だって、藤本さん、謝らせてもくれない………」



 聞こえるのは涙声。



「謝ることないよ。大体何を謝ることがあるの。僕は自分に腹が立ってるだけなんだ。きみをそこまで追い詰めたのは僕だから、こっちこそ謝らないと。 ごめんね、そんなに悩ませて。他にどう詫びたらいいのかわからないけど、あの時のことは無かったことにしてくれていいから」



 シフトレバーに置いた手を、膝の上に戻ってしまった冷たい指先に重ねたいけれど、恋人同士でもないのだから、それは叶わないことだろう。

 そう考えているうちに、視界の端に映る彼女がまた俯いて軽く鼻をすすった。



「寝不足は夢のせいだから藤本さんは悪くないです。………私、ちゃんと考えます。夢のことは頭から離れないけど、自分の気持ちをしっかり整理します。 だから、いつまでとは言えないけど、あともう少しだけ待ってください。今はそれが精一杯の答えです」

「わかった。でも、あまり悩み過ぎないで。同僚だし気まずくなりたくない気持ちもあるかもしれないけど、たとえどうなっても仕事では割り切るから。………って、女の子はもっと複雑だよね。本当、悩ませてごめん。きみに付き合ってるひとがいるかも、って考えもせずに僕の気持ちだけを押し付けてごめん」

「いいえ。………そんなひとは私にはいませんから」



 信号待ちで盗み見た顔が今にも泣きそうで慌てて前を向いた。

 “そんな顔をさせたくて告白したんじゃない”、何度今そう言ってみたところできっと彼女の泣きそうな気持ちなど晴れることはないのだろう。



 それきり会話は途切れてしまい、ほどなく彼女の住むアパートに着いてしまった。



「じゃあ、また明日。でも起きてみて体調が悪かったら無理しないで休んで」

「はい。ありがとうございました」

「おやすみ」

「………おやすみなさい」



 ほんの少しだけ笑った彼女を見たら、たとえ嫌われていたとしても、やっぱり胸が痛いほど好きだと思う。

 

 僕はハザードランプを点けて車を通りに停めたまま、彼女が部屋の前にたどり着くのをぼんやりと見守った。

 二階に上がった彼女は振り返り、こちらに向かって会釈する。

 僕がハンドルにかけていた手を軽く上げて合図をすると、その姿がドアの中に消えた。それを見届け、車を静かに発進させる。


 これから先、彼女の心の負担を失くす為に僕はどうすればいいのだろう、と考えながら帰宅ラッシュの始まった通りを走った。

 僕の住む隣街へ、わずか十分の距離だった。



 翌日。

 真面目な彼女は休まずに出勤してきた。

 先に出社していた僕が心配そうに見ていたからなのか、こちらを見てにこりと笑い会釈する。

 無理をして笑っているのでなければいいけれど、そうでないのなら僕も苦しい。

 そう思ってしまうと、とっさに笑顔が作れなくなる。


 正午が近くなり早くも休憩モードになっている同僚たちの中、どこかから戻ってきた彼女が僕のデスクの後ろで一瞬だけ立ち止まり、小声で“失礼します”と言いながら四つ折りのメモをそっと渡してきた。

 ちらりと見た彼女の頬はほんのりと赤く、血色が昨日よりも格段に良くなっていることが確認できたのが嬉しく思うと同時に、即メモの中身が気になってしまう。



『今日のお昼、ご一緒できますか?』



 思わず彼女を振り返ってしまい、慌てて目の前のパソコンに向き直る。

 彼女は今日、弁当を持参していないのだろうか。そう考え、若干混乱しながらデスクの上を整頓した。


 先に仕事が片付いていた僕はあまり目に付く場所で待ち伏せるのも気まずいだろうと思い、エントランスの自販機に寄りかかって彼女を待った。

 少し遅れた彼女が、僕を見つけて小走りにやって来る。



「お待たせしました………っ」

「走ったら駄目だよ。そんなに慌てなくてもまだ時間はあるのに」

「そう、ですけど……っ」

「それで?今日のこれはランチを一緒にしてもいいってことかな?」

「はい。昨日のお礼に何か、と思いまして。あまりここから離れると戻るのが大変になっちゃうので、この目の前のカフェでもいいですか?………あ、それだと男の人にはちょっと物足りないかな………」



 何やらぶつぶつ言ってる仕草も可愛い。



「別にお礼なんていいのに。でもカフェで構わないよ。僕も割とよく行ってるし」



 くすくすと笑いが零れてしまう。

 この子と一緒なら、どこだって嬉しいんだ。





「えっと。私はアイスシトラスティーのショートサイズとパンケーキとサラダSサイズで。藤本さんは?」

「じゃあ、ホットサンドと、僕もアイスシトラスをトールサイズで」



 カフェに入ると彼女が奢ると言って聞かないので、やや控えめにオーダーした。

 するとこちらを見て「それだけで足りるんですか?」なんて眉を下げる。

 “いいんだよ”と笑いながらふたり分のトレーを持ち、店内に点々といる同僚から目に付きにくい席を素早く選んだ。



「ええと。昨日は本当にありがとうごさいました。おかげさまで昨夜も久しぶりにたくさん眠れた気がします」



 この間は見逃していた「いただきます」の挨拶に続いて手を合わせた彼女が、小さくお辞儀をする。



「どういたしまして。良く眠れたなら良かった。まぁ、原因の半分は多分僕なんだろうけど」

「いえ、それはまた別の話ですから………」



 笑って見せると、ホッとしたような笑顔になった。

 向かい合わせに座った彼女の笑顔を正面から見ると妙な照れ臭さを感じ、つい目を逸らしてしまう。


 目を逸らした先の窓の外には、いつの間にかやって来た黒く重い雲。

 いよいよ梅雨前線の到来かもしれない。

 ひと雨来る前に戻れるだろうか。



「この雲の様子じゃすぐにも降りそうだね」



 そう言うが早いか、景色は突然大粒の雨に覆われた。



「どうしましょう。藤本さんは傘……は持ってないですよね。私もです」

「うん。とりあえずこのまま様子を見よう。どうせ通り雨だろうからすぐ止むんじゃないかな」

「そっか、そうですよね」



 和やかに食事をとりながら笑い合い、ゆったりとした時間が流れた。

 

 そのうちにすぐ雨は小降りになり、それと同時に休憩時間の終了まであと僅かとなっていたことに気付いた。



「どうする?まだ雨が少し残ってるけど、そろそろ時間だよ」

「このくらいならちょっと早歩きで行けば余裕で間に合うと思いますけど」

「きみが大丈夫なら。体の調子はどう?行けそう?」

「今日は多分大丈夫です」

「多分かぁ、怪しいなぁ」

「大丈夫ですって!」



 嬉しいな、少しだけ打ち解けてくれているみたいだ。

 まだまだ気を許してはくれないだろうけど、これ以上離れないでいてくれれば僕の傷も浅くて済むだろう。



 霧雨のような雨粒の中、“足元に気を付けて”と声をかけ隣を気にしながら店を飛び出す。

 走らせないように、僕の方が余裕を見せて。

 少し大股で歩く程度の速さなら付いて来られるかな。




 

 道路の反対側まで渡っている歩道橋に差し掛かった。行きと違って足元が濡れて滑りやすい。

 頂上まではなかなかキツい段数だけれど、普段は通りが一望できてとても気持ちが良い場所だ。

 そう、天気のいい日なら。



「藤本さん、見て………!」

「おお、虹………。久しぶりに見たな。子供の頃以来だよ」

「私もです」

「「綺麗………」「綺麗だな」」



 登りきった歩道橋の上で、ふたりの声が重なった。


 いつかも見ていた、こんな景色。

 ふたりの目が合い、不思議な既視感に陥る。



「夢と同じこと言った気がする」

「はい、私も」



 狐につままれたような気持ちにも似ている。

 夢の出来事など今まで一度も思い出したことなどなかった。なのに何故いま虹だけを?



「藤本さん。私、私………ーーー」



 隣に立つ僕を見る、揺れる瞳。

 零れそうな涙。


 まだ今は言わなくていい。

 せめて社屋に辿り着くまで待って。


 腕時計を確認し、時間が押していることを思い出した僕がそっと取った手を、彼女は振り払ったりしなかった。

 やっぱり少し僕より温度の低い手を初めてこの手に包んだら、じんわりと喜びが胸に広がる。


 この時間を丸ごと何か箱のようなものの中に閉じこめたいけれど、そんな事を思ってるなんておくびにも出さず“彼女が転んだりしないように”なんて建前だけは頭の中で繰り返す。


 ちらりと隣を見れば、濡れた下りの階段に気を取られながら頰を染めて歩く横顔がやっぱり可愛くて、どうしたって頰が緩んでしまう。



 歩道橋を渡り終え、束の間の“ふたり時間”が消えていく。人目があるし、もう社屋は目の前だから、この手を離してあげないと。



「………雨、すっかり止んじゃったね」



 僕の方からそっと手を離し、小さな声で隣に並ぶ彼女に、空を見上げたまま呟く。



「………はい。ーーー藤本さん」

「何?」

「すきです」

「………えっ」


 

 思わず隣を見てしまった。


 なんて間抜けな返事なんだ。

 いや、そうじゃなくて。

 

 こちらを見上げ、声は消えそうに幽かだけれど真っ直ぐに、嘘のない強い瞳と視線が絡む。



「あなたがすきです。本当は、私もあの日からずっと」



 自分が彼女に負けず劣らず赤面している自覚はあった。思わず片手で口元を覆う。


 まさか。だって。



「まずいな、午後から仕事にならないかも」

「あっ!! そ、そうですよね。私ったら何も今言わなくても」

「だからって取り消しは無しだよ?」



 きみにこの喜びが伝わるだろうか。

 デスクまでスキップしそうなこの気持ちが。



「わ、わかってますよっ」



 可愛い“恋人”は気合を込めているのか拗ねているのかわからないような声で、上目遣いに僕を軽く睨んでみせた。


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