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第2話

 翌日、予備校の案内書を貰って帰り、さらにその次の日には予備校の契約。実に三日ぶりに僕は一人で部活に向かった。

 彼女の画材置き場のスペースにあった絵筆や描きかけであろう水彩画のスケッチブックは、いつの間にか片付けられていたけれど、その行方を彼女の友人に聞く程の勇気は湧かなかった。まぁ、多分自分の気付かないうちに本人が持ち帰ったんだろう。


 彼女の声の聞こえない部室は、それ以外は全ていつも通りの、ざわめきさえも僕の耳に入らない。僕は、軽い喪失感を覚えながら早々に筆を置き、音のない部室を後にした。



 一人、足早に歩いていると、もうすっかり覚えてしまった細い背中を、行く先の少し先に見つけた。ゆっくりすぎるスピードで歩く彼女に追いついたのは、あっけないほどすぐだった。

 僕が声を掛けようか一瞬迷っている間に彼女は振り向き、少しだけ驚き、そして笑う。



「あ、やっぱり有藤だ。部活、また休んだの?」

「まぁね。筆が乗らなくて」



 嘘じゃない。

 ていうか、何でバレてるんだ。



「三枝こそ、部活に寄らない割には遅いんじゃないか?もしかして具合が良くないのか」

「もーう、心配性だなぁ。ちょっと金山先生のところに寄ってただけよ」

「あぁ、なんだ……」

「ーーーね、海に行こうよ」



 …………ん?今、“海”って言わなかったか?



「…………はぁ?」

「あー。ごめん、有藤だってそんなに暇じゃないよね。いいのいいの、今のナシね!」



 寂しそうな横顔にチクンと胸が痛み、僕は気の抜けたような返事から一転、慌てて言い訳を探す。



「あ、いや。ただ、大丈夫なのかなって。今日も暑いしさ、そんなに無理できないだろ」

「そう、だよね……。バスなら行けるかなって思ったんだけど……」



 だから、そんな顔やめろって。



「…………わかったよ、付き合う。けど、無理そうならすぐ引き返すから」

「うん!やった、ありがとう!」



 ぱっと一瞬で嬉しそうに笑うから、目がそらせなくなる。目を細めてしまうのは、西に傾き始めた太陽のせいだけじゃない。



 僕らは最寄りの駅までゆっくり歩き、バスターミナルから海沿いの町を目指すバスを探した。

 エアコンのよく効いた車内に乗り込むと、僕らの他の客は殆どが違う高校の生徒で、その賑やかな団体は、ほぼ後部座席を占めていた。

 三枝は迷うことなく前列に向かい、二人がけの席の窓際に腰を下ろす。



「はい、有藤はここ。窓際がいいなら代わるよ?」

「や、別に拘りはないけど。……ていうか隣り?」

「教室と一緒なだけじゃない。…………だめ?」



 ぽんぽん、と自分の隣りを軽く叩くけれど、教室とは明らかに密接度が違うだろう。

 そんな僕の女々しい恥じらいも、三枝には通じないのか。



「じゃあ……うん、お邪魔します」



 バスが今にも走り出そうとしていたので仕方なく諦めて隣りに座ると、三枝は変に他人行儀な僕を小さく笑い、それからすぐに窓の外に目をやった。


 同学年の男子の中では華奢な身体つきだと思われる僕だけれど、意外に狭い座席の中では彼女の膝は、すぐ触れそうなほど近くにある。

 自然、僕の動悸は速くなる。


 僕が座ったのを確認したように静かに走り出したバスには、幸い同じ学校の生徒はいなかったようだった。まぁ、そもそもあまり人に干渉しないというか、見られたところでからかうような生徒はうちの学校にはいないけれど。



 駅を出てしばらくすると、窓が閉め切られているにもかかわらず、いつの間にか車内に潮の匂いが満ちてくる。

 海が近い、そう感じた時にはもう、道路の左手側に沿った松林が延々と続く町に入っていた。


 ずっとお互いに何も話さずにいたけれど、僕の子供の頃の記憶を頼りに、一番近場の海水浴場の名前のバス停で降りよう、と提案すると、彼女は素直に頷いた。

 程なく目的のバス停に到着すると、僕はふたり分のバス代を精算して先に降り、彼女を待つ。



「バス代、ありがと。帰りは私に払わせてよね。私、そこまで世間知らずじゃないよ」



 ステップを軽やかに降り、上目遣いにやんわりと睨まれた。そういうんじゃないんだけどな。なんていうか、紳士ぶりたいお年頃なんだよ。

 僕はそれには返事をせず、明後日の方を向いて知らん顔で潮の香りを吸い込んだ。隣りに並ぶ彼女も遅れて倣い「うん、海だねぇ」なんて笑っている。


 バス停は松の防風林に接近していて、そこから少し奥に進んだところに防波堤があった。子供の頃に来た時と、景色は全く変わっていない。海まであと、数十メートル。

 続く遊歩道は細かい砂で、やや歩きにくい。僕はそれを言い訳みたいにして、不自然にならないよう、そっと彼女の手を取る。無理のないペースで、歩幅をなるべく合わせて行こう。



「こんなにゆっくりじゃなくても大丈夫なのに……。有藤ってさ、普段は口下手なのかなって思うんだけど、数少ない言葉とか態度の端々に優しいとこが出ちゃってるよね」

「そうかな、自分じゃ分からないけど。…………もう、あんまり喋るなよ。苦しくなるだろ?息が切れたら置いてくぞ」

「“置いてく”なんて嘘ばっかり。そんなことしないって知ってるよ」



 楽しげに弾んでいる彼女の声が耳に心地いい。

 他のクラスメイトよりは遥かに近い距離だというのに、早くも慣れてきたのか僕の心臓は穏やかだ。これなら、余計な感情を悟られなくて済むだろう。

 防波堤の少しキツいスロープを更にゆっくりと登りきると、眼下に一面の海と砂浜が現れる。

 だが、西の方角に黒い雲の塊。

 

 ーーーもしかして、夕立?



「わぁ、きれーい!……って言いたいところだけど怪しい雲があるね。これは降るかな」

「さぁ…………」



 来た道を戻って反対側に道路を渡れば帰りのバス停はある。けれどバス停に向かうより雨の方が近いのなら防波堤を海側に下りれば、もうすぐそこに漁師小屋が見えている。鍵がかかっていなければ中で雨宿りもできるかもしれないし、たとえ開かなくても屋根くらいはあるだろう。

 そう思っているうちにポツリポツリと雨が落ちてきた。迷っている暇はない。とりあえず小屋まで行ってみよう。



「あそこの小屋の鍵が開いていたら雨宿りさせてもらおう」



 答えを聞くより早く、手に力を込めて少しだけ足早に歩く。雨脚は瞬く間に強くなり、小屋の軒下に着いた時には制服が少し濡れてしまった。彼女の上半身の下着のラインは見なかったことにして引き戸に手をかけると、幸い鍵はかかっていなかった。



「お邪魔しまーす…………」



 小声で断りながら彼女を中へ促し、戸を開けたまま空を見上げると頭上はすっかり黒い雲に覆われていた。

 雨とともに冷たい風も吹き始め、僕は堪らず戸を閉めた。彼女に風邪を引かせたら大変だ。


 雨の音は次第に強まったけれど、夕立なら少し待てばすぐに止むはずだ。今朝の天気予報でも不安定とは言っていたが雨の予報は出ていなかった。



「…………寒い?」

「ううん、そんなには。でも避難できる所があってラッキーだったよね。まぁ制服もそんなに濡れてないし、このくらいなら風邪をひく程でもないんじゃないかな」



 若干顔色が白い気がして聞いたけれど、僕の心配はとうに読まれていた。

 締め切られていた初夏の小屋の中は、入った時にはかなりの蒸し暑さを感じたけれど、僕らが戸を開けたことによって急激に雨混じりの空気に冷やされている。二人とも多少濡れていたし、彼女が全く寒くないとは信じ難い。


 ざっと小屋の中を見渡すと、薪のようなもの、網、そして手作りのような長椅子がある。他にも細々とした器具はあったが、用途も何も分からない。とりあえずは遠慮なく長椅子に座らせて貰おう。



「すぐに止むかどうかは分からないけど、しばらくここに座っていよう」



 “うん”と答える声が、少し震えている気がする。やっぱり寒いんじゃないか。

 彼女はバスに乗り込んだ時とは打って変わってしおらしく、おどおどと僕の隣りに腰を下ろし両の腕を自身の手で軽く摩って“ちょっとだけ寒いかも”と呟いた。



「ごめん、少し我慢して」

「あ……っ」



 僕は咄嗟に彼女の肩を片腕で抱き寄せた。

 夏服じゃなければ学ランでも肩にかけてあげられたかもしれないけれど、生憎夏のワイシャツは、僕の身体に濡れて所々貼り付いている。濡れてはいるけれど、もうこれしか方法はないような気がして。

 

 彼女は一瞬身体を硬くし、でもすぐに「有藤だって濡れたのに、何でこんなにあったかいかなー」なんてブツブツ言いながら上半身をゆっくりと預けてきた。


 何故かと言われても。

 元々自分は体温が高めだし、それに何より彼女がこんなに近くにいて冷めた身体でいられる訳がない。その持て余した分の熱を彼女に少しでも移せたら、なんて思ったりするのは、今のふたりの関係上では少々、いや、かなりおこがましいのだろうけれど。


 建てつけのイマイチな小屋は、隙間風が入り込む。先ほどまでの蒸し暑さが嘘のようだ。本降りになった雨は、鳴り始めた遠雷と共に屋根を叩く音を強めた。



 そうしてしばらく雨の音を聞いていると、彼女なりに緊張からか不自然に寄りかかっている姿勢が辛くなってきたのだろう、彼女の細い腕を背中に感じた時にはもう、僕のシャツを遠慮がちに握られていた。



「ごめん。ちょっとだけ摑まりたくて。あの、有藤こそ嫌だったら言ってね」



 謝ることなんてないのに。

 

 申し訳なさそうに俯こうとする三枝のそのを覗きたくて顔を向けると、一瞬早いタイミングで僕より僅かに低い目線を捉えた。

 跳ねる心臓をどうやって誤魔化そうか。



「いいよ、ずっと掴まってて」



 口にしながら掠れた音の言葉は上の空で。

 黒目がちな瞳に吸い寄せられるように、僕は。

 

 彼女のひんやりとした唇にゆっくりと顔を寄せ、無意識に口づけていた。


 ほんの僅か触れただけの唇のくすぐったさに、一瞬で我に返る。

 僕は、今何を…………。



「ええと、その……ーーー」



 雨の中、この空間だけの静寂が時間を止めている。とっさに謝ろうとして、でもそれは何か違うと思い直し、僕は言葉に詰まる。

 唇ははすぐに離れてそっと視線を外した。彼女は俯き、僕は頭が真っ白になったまま、規則的なようで不規則な雨音をただじっと聞いている。

 

 そのうち遠雷はそれ以上近付くことなく何処かへ行ってしまい、雨脚が弱まるのを感じながら数分後、ようやく僕の口が開いた。



「雨、弱くなってきたみたいだ」

「…………ん。そうだね……」

「雲の様子、見てみようか」

「待って、私も行く」



 顔が真っ直ぐ見られない。目を合わせられないまま先に立ち上がり、彼女の手を取れば冷たかったはずの指先は、ほんのりと暖かい。

 ホッとしながら戸口へ向かい、湿気で重くなった引き戸を力を込めて片手で開けた。

 上空で冷やされた空気が降りてくる。けれど西の空からは夕焼けを帯びた陽射しが、すぐそこまで夏を呼び戻していた。

 


「有藤、見て…………!」

「なに……、あ」

「虹…………。綺麗」



 西の方角ばかり見ていた僕が顔を向けると、彼女が東へと指をさすその向こう側、遥か遠くまで続く海岸線から海上にかけて弧を描き、くっきりとした虹がそこにあった。頭上の黒い雲は急速に動き、雨はいつの間にかハラハラと風に舞うほどの小さな雫を降らせながら、夕陽を浴びて煌めいている。



「私…………。この虹を忘れないよ、絶対に」

「…………うん」



 僕はといえば情けないことに言葉を失っていた。まるで夢を見ているようだった。



「連れてきてくれてありがとう。一緒に虹を見たのが有藤でよかった」

「いや……。通り雨も虹も偶然だし……」



 彼女は先ほどの出来事をすっかり忘れているかのようだった。もちろん本当に忘れているわけではないだろうが詰られるかも、と覚悟をしていただけにちょっと拍子抜けだ。

 けれど、もしも“ごめん”と謝れば、それは自分の気持ちをも否定することになってしまう。それだけは嫌だ。



「暗くなる前に帰ろう」



 虹の色が霞み始めた頃、繋いだ手に少しだけ力を込める。僕は先ほどの自分の行動がどうにも照れ臭く思い出されて、相変わらず彼女の目を見られなかったけれど、視界の端に映った顔は、僕の方を見て柔らかく微笑んでいるように見えた。

 

 繋いだその手をブンブンと振り回したいような高揚した気持ち。恐らくそれは自分だけが感じているものだろう。少なくとも僕の方はふわふわとした足取りで、いつの間にか帰りのバスに乗っていた。

 最寄駅までの時間、僕らはお互いに何も話さなかったけれど、ハイになっていた自分には彼女が何を考えているかなんて全く想像も出来なかったし、その後、彼女と別れた自分がどうやって帰ったのか記憶はかなり曖昧だ。


 翌日、三枝は学校に登校することはなく、更にその一週間後、僕は担任から彼女がそのまま病院に入院した、と告げられた。心配していた風邪などではなく、持病の悪化だった。



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