第1話
『やっと逢えたね』
『長かったな』
『もう逢えないかと思った。でも、神様って本当にいるのね』
『それはどうかな。僕はこれは必然だと思っているけど』
『ふふ、あなたらしい。相変わらずだわ。……ねぇ、本物?触れてもいい?』
『いくらでも』
『あなたも触れて、幻じゃないって信じて。……信じさせて』
『うん。ここに、いるよ。君こそもう勝手に消えるなよ。あんな思い、二度とごめんだ』
『大丈夫、消えたりしないよ。……ね、私、これからずっとあなたの側で生きていけるかな。そうなら嬉しい。“すき”って言っても、私、消えたりしないよね?』
不安に揺れる瞳。
あの時言えなかった言葉を、今こそ君に。
『うん、きっと大丈夫だ。僕もーーー君が、すきだよ』
これは、前世の約束の物語。
《一年A組、有藤 仁紀、職員室の担任まで》
ーーー校内放送だ。
入学早々、一体何の用だ。僕は何もしてないぞ。大体、目立つタイプじゃない。……とすれば、クラス委員なんぞになってしまったが故の、早速の厄介ごとか。
家から程近い県立高校に合格したのは先月中旬のこと。大して高得点で合格したとも思えなかった僕が、何故クラス委員などというものになれたのか。それは、多分眼鏡だからだ(かどうか、本当のところは分からないが)。
そりゃ勉強と読書と少しのゲーム以外には何の趣味もない人間だし、クラスは同中の奴が一人もいないから全く楽しそうではないし(僕のこの学校における唯一の友人と呼べる人物はクラスが離れてしまったし)。
辛気臭い顔がガリ勉にでも見えたか、もしくは僕が面倒ごとを断れなさそうに見えたのか。
ともあれ、ボンヤリしている間に決まっていた役職にうんざりした入学式を思い出しながら、重い足を引きずって放課後の職員室を目指した。
「一A、有藤です。金山先生はいらっしゃいますか」
「おう、有藤。まだ居たか」
「先生は校内に居るか居ないか分からない生徒に呼び出しかけてんですか」
「まあまあ、居たんだからいいじゃん。それよりお前、部活は美術部に入ったんだよな?」
「はい、それがどうか?」
「よし決定!」
美術部に入ったのは、もちろん幽霊部員になる為だ。放課後は今後恐らく塾に通う日が多くなるだろうから、入部はある種のカモフラージュだ。とはいえ内申書に色をつける程度だが……。
「ちょっとこれを見てくれ」
担任が小声で僕を手招きし、個人情報満載の学籍簿の一枚を指差した。一体何が“決定”なのか。
「女子……ですね」
「おぅ。美少女だろ?儚げな感じがまた……」
「先生」
「あ、いや。ゴホン。ーーーこの子、まだ登校できてないけど同じクラス。ついでに美術部希望」
「不登校ってやつですか?」
「ん、いや。貧血でちょっと、な」
「貧血って。登校出来ないくらいだから相当重いってことですよね。……で?」
「登校して来ている日だけでいい、面倒見てやって欲しいんだよな。……っておいおい、そんなに露骨に嫌そうな顔するな」
些か分かりやすすぎる顔だったか。
「面倒っていうか、僕は保健委員ではないので……」
「分かってる。ただ、出て来た時には気にかけてやって欲しいんだ。成績はいい子なんだけどなぁ、どっちにしろ出席日数でいずれ引っかかってくるんだろうが、とりあえず本人の気の済むようにさせてやって欲しいとのご両親からの希望があるんだよ」
僕には、家族や親戚一同をみても身体の弱い、もしくは高齢に伴う病以外の持病を持った人間は、今のところ見当たらない。それなのに急に重い貧血だとか言われても、そもそもこれ迄あまり接したことのない“女の子”という人種に、どう対応したらいいというのだ。
「そういうわけで、委員長、この子の顔、覚えたな?」
「まぁ……、はい」
「んじゃ、よろしくな。彼女、中三頃に急に悪化してきてるらしいから、まだいつ登校できるか分からないけどな」
「ーーーわかりました。要件はそれだけですか?」
「おー。頼んだぞ」
「………………はい。失礼します」
何だってまた厄介な。
折角入った学校の授業にどうやってついていこうか、そればかり考えていたというのになんてことだ。
まぁいい。いつ登校するんだか分からない女の子に今から振りまわされてどうする。来たら来たでなるべく関わらないように、とりあえずただ見ていればいいだろう。
放課後の、グラウンドから響く活気あふれる掛け声を聞きながら、『三枝 結菜』という名前の、青白い顔で唇だけで小さく微笑む少女の顏を、僕はぼんやりと思い浮かべ、帰路についた。
四月の間、彼女はとうとう学校に来なかった。担任の話によると、入学前の春休みからしばらく入院しているらしい。
クラスメイトたちは一向に登校して来ない謎の多い少女について、しばらく様々な憶測の入り乱れた噂話で日々盛り上がっていた。だがそのうち噂話にも飽きたのか、いつしか誰も彼女の名前を口にしなくなっていたし、担任も、あえてクラスメイトたちに彼女のことや、まして病気の話など一切口にすることはなかった。
一方僕は僕で、そんな事情を話すような友人もまだいないし、とりあえずクラス中で不定期に担任から、彼女の簡単な近況を知らされているのは、どうやら僕だけらしかった。
五月。学ランを着ていると汗ばんでしまうくらいの陽気になり、学校生活にも大分ゆとりが出てきた頃。
ゴールデンウィーク明けの昇降口、折れそうに細い身体で、我が校指定の真新しいセーラー服を着た色白なお下げ髪の少女が心細げに立っていた。整った顔だちと、大きな目が印象的なその少女は、ある意味とても目立っていた。
ーーー三枝……結菜、だ。
僕にはすぐ分かった。写真の通りの、十中八九、美少女と分類されるであろう目鼻立ちの……。
少々悪い雰囲気を醸し出している先輩方が品のない笑みを浮かべ、彼女に今にも声をかけようとヒソヒソと話している声が耳に入り、ハッとして思わず足が動いていた。
「三枝さん?一Aクラス委員の有藤だけど。教室が分からないなら、一緒に行く?」
背後からなるべく驚かさないように話しかけたつもりだった。
「ーーーあ、ええと…………?」
“びっくり”という言葉がぴったりなくらい、目をまん丸にしてこちらを向いた彼女の具合を真っ先に心配してしまう僕は、こんなにもお節介な性格だっただろうか。
「大丈夫?」
努めて冷静を装って声をかけたつもりだった。けれど尋ねる為に目を合わせた瞬間、息を飲み“僕の方こそ大丈夫なのか”というくらいに、心臓がぎゅっと鷲掴みされた気がした。
胸が苦しい。
口を小さく開けたままだった彼女は、僕の問いに目を逸らさずに「うん」と微かな声で呟いた。
遅れて周りの、朝の喧騒が耳に戻ってくる。
先ほどの先輩方は僕たちのやりとりを見て、つまらなさそうに行ってしまった。
「ゆっくりでいいから、一緒に行こう」
「ーーー私のこと、聞いてるんだ」
先に立って歩き出そうとしたその時、背後で彼女の硬い声が聞こえた。
「クラス委員だから、一応。まぁ、今のところ、僕しか知らない筈だけど」
振り返り、いかにも興味無さそうに首をすくめて見せると、彼女は少しだけホッとしたような顔を見せた。
彼女の気配を背後に感じながら、歩調を合わせ、三階まである階段をゆっくりと上った。途中、何度も振り向いては顔色と、息遣いを気にした。大丈夫だ、顔色はそう悪くない。
「ふふ……。お節介」
「…………そっ、………れほどでも……っ」
笑われた。
反発しようにも声は尻すぼみになるわ、赤面するわ。僕は乙女か。
心の中で“平静、平静”と唱えながら三階に到着するまでにはすっかり汗ばんでいた僕だけれど、彼女ときたら涼しい顔で、汗ひとつかいていなかった。
その顔色をちらりと横目で確認し「暑……」と呟き詰襟のホックを緩める。僕が一Aの扉を開けると、一瞬の静寂の後、ざわめく教室。
入学してから当たり前のように空けられていた僕の隣の空席は、遅れてきた美少女で、その日やっと埋まった。
クラスの連中は勿論大騒ぎだった。けれどか弱そうな見た目に反して勝気そうなその性格で、女子のおしゃべりの輪はすぐに拡がっていった。
なんだ、これなら僕が四六時中見張らなくたって、誰かしらが見ていてくれるんじゃないのか?
そんな安堵感すらあった。
親友だってすぐにも出来そうだ。
遅い梅雨入りを迎えた頃。三枝は休みがちながらも落ち着いて登校できるようになり、僕はすっかり拍子抜けしていた。放課後の部活まで一緒過ごし、彼女のいかにも健康的な笑い声を背後に聞き、楽しげに早速出来た友人同士で笑いながら制作に打ち込む姿を見ていると、病気のことなど忘れてしまいそうになる。実際、体育実技の授業以外は元気が良すぎるほどなのだ。
だから、そのうち放課後、たまには部活を休んでそろそろ予備校の申し込みにでも行こうか、なんて考えていたんだ。
そう、クラス委員のくせに授業を理解するのが精一杯だなんて誰にも悟られないうちに。
そんな、梅雨間近の六月のある日。
僕は美術部の部室ではなく、まだひと気の多い昇降口に向かっていた。階段を全て下りきり、階段下に何気なく目をやると、三枝が苦しそうに床に足を投げ出して座り、真っ青な顔で壁に寄りかかっていた。
「三枝?!おい、大丈夫か?!ーーー待ってろ、保健の先生連れてくる!いいか、じっとしてろよ!」
彼女の人形のような手脚を目にして僕はすっかり気が動転してしまった。
「有藤、まって……。じっとしてれば、そのうち落ち着くから……」
「でも」
「大丈夫だから……」
「え」
「それより、ここに居て。おねがい」
にこり、と無理に笑みを作り、はぁ……、と深呼吸を繰り返す。冷や汗だろうか、額には小さく汗が浮かんでいたが、僕は為すすべもなく、その場にしゃがみこんだ。
なんだこれ、貧血ってこんな風になるのか。“大丈夫”なワケあるか、そんなに青い顔をして。突然こんな風になってしまうのか、それとも何か引き金があるのかーーー?
その時、ふいに顔を上げ、ぎゅっと僕の袖を強く掴んだ彼女の強い視線の先を確かめようと、反射的に振り向いた。
三年生の昇降口で下駄箱に寄りかかるようにして、人目も憚らずに抱き合う男女。
ーーーまさか、あれがキッカケなのか。
「知り合い?」
「ん、ちょっとね。男の方、幼馴染ってやつ」
“好きな奴なのか”とは問わなかった。代わりに僕の袖を握りしめるその華奢な手を、咄嗟にそっと手のひらで包んでいた。
“女の子に触れたのなんて、いつぶりだろう”なんてぼんやり思う。僕のこの行動は彼女にとって正しいのかな。それすらも分からない、けれど。
柔らかく、細く、ひんやりとした白い彼女の手は、僕にされるままになりながら、数分の後、ゆっくりとその力を抜いていった。
「ありがと、もう落ち着いた。今日は帰る」
「送るよ」
「え、有藤、部活は?」
「まぁ、今日は元々出ないつもりだったし」
「用事があったんじゃないの?」
「いや、急ぎでもないから」
重なる手がそっと解かれ、彼女はゆるり、と立ち上がりスカートの埃を払うと、僕の顔をマジマジと見て、呆れたように呟いた。
「やっぱりお節介だ」
小さく笑い、僕が反論するより先に「嘘。ほんとはちょっとだけ心細いの。お願いします」とおどけたようにこちらを向いてお辞儀をした。顔色は幾分元に戻っていたように見えた。
「多分“好き”とかじゃないの。うーん……。憧れのお兄さん?みたいな」
僕の家とは正反対に歩き始めると、彼女は急に話しだした。
「何も聞いてないけど」
「分かってるよ。ちょっと聞いて欲しいだけ」
僕の受け答えが冷たくなるのは何故なんだろう。つっけんどんで、感じが悪くて。三枝と話すといつもそうだ。これは女の子に慣れていないせいだけじゃない。
僕は。きっと恐らく僕は…………。
「あいつに“これまでとは違う私”を見せつけたかった。中学までの私は病気を理由に辛気臭くていつでも俯いてて子供っぽくて。だから高校デビューっていうのかな?明るく振る舞えるようになって、大人な私を見せたかったの。でも、何をどうやってもあいつがこっちを向くことはないんだな、ってやっと分かった気がするよ」
「言わないのか。それ、あいつに」
「うん。だって、どう言うの?単なる憧れみたいなものだし……。『好き』っていうのも何だか違うんだなぁ。………ね、“恋”ってどんな感じなのかな」
そう言いながら空を仰いで笑うと、先ほどまでの具合なんて感じさせないくらいに軽やかに歩く。
「じゃあ『好き』じゃないなら何なんだよ、さっきはあんなに苦しそうな顔してさ。僕には全く理解できないよ」
「分からなくていいよ。こんな気持ち、どうせいつか知らないうちに消えちゃうんだ、多分ね」
そうだろうか。
だとしたら帰り際、僕と目の合ったあの見知らぬ先輩の表情は。あの、僕を射抜くような瞳は。
「あぁ。そういえば私ね、部活やめることにしたんだ」
「え」
「親に反対されちゃった。“無理するな。真っ直ぐ帰れ”って。……今まで毎日長時間付き合わせちゃってごめんね。そんな理由でこれからは授業が終わったらまっすぐ帰るから」
「や、僕は何もしてないし」
「嘘よ。私の顔色、いつも見てた。目が合ってなくてもきみが私を見ていてくれたの、知ってる。…………私ね、有藤のそういうとこ、好きよ」
その“好き”が恋愛のそれじゃないことなんて百も承知だと分かりつつ、胸が痛い。
認めたくはないけれど、こんな気持ち、梅雨の前にはもう感じていた。
綺麗な横顔、姿勢の良い凜とした佇まい、そして全てを諦めたように静かに笑うところ。僕はとうに、そんな彼女に囚われている。
僕のこの説明のつかない感情も、彼女と同じで、決して報われることなどないというのに。
「ーーーそうそう、あとね、私の病気、『再生不良性貧血』っていうの、多分」
「多分?」
「うん。誰も私に言おうとしないから自分で調べただけなんだけど」
初めて耳にする病の名前。それが、どれだけ重病なのかは今の僕には分からないけれど。
「学校に来ていて大丈夫なのか」
「どうかな。でも、自分の身体のことだから、何となくまだ大丈夫なのは分かるんだ。まぁ、そのうちまた入院することになるんだろうけど…………。ーーーそれより、ねぇ」
「何だよ」
「お茶していこ?」
「ーーーは?悪いけどそんな気の利いたところ知らな……、」
「駅の近くのカフェでいいよ」
くん、と袖を引かれてしまっては逆らえない。だって二人は同じような寂しさを抱えている。だから突拍子もない事を言われても、僕には断れる訳がないんだ。
「ーーーわかったよ」
「やった!学校の帰りに誰かとお茶するのなんて初めて。嬉しい」
その笑顔は反則だ。
こちらを見つめるその瞳の中の僕の顔は、また赤くなったりしていないだろうか。彼女の前ではだんだん僕のポーカーフェイスが綻び始めているような気がするけれど、まだ誤魔化しは効いているだろうか。
初めて立ち寄ったカフェで、彼女は物珍しそうにメニューを見ていた。涼しい店内で他愛ない世間話をしながら、彼女が紫色のスムージーを飲んでいたのがヤケに印象に残る。そこに鉄分が少しでも入っていると良い、そんな頓珍漢な事を、僕はぼんやりと思っていた。