心の闇からの獣 (そらほうき)
お待たせしました、そらほうきです。
三人称苦手なので、あまり上手く書けませんでした、すいません。
「いや、お前元々ヘタクソだろうが」とかは言わないで.....
フワフワと宙を浮ついて定まらない恵司の視線が、浩一の顔という空間座標の一点に止まった。快楽に浸りきって痙攣する頬の筋肉が強張る。
活発な小学生の男の子によく似合うスポーツ刈りの黒髪。怪我でもしたのだろうか、頬の絆創膏。健康そうな小麦色の肌。脚には若い筋肉が付いている。恵司は浩一の全身を舐めるように眺めた。
「おい、この野郎! 何とか言えよ!」
浩一は頭に血が登っていて、恵司の異様な視線には気付かない。顔を真っ赤にして怒鳴り散らす浩一に、大事な自分の時間を穢されてムッとした恵司だったが、次の時にはその感情は瞬く間に消え去り、新たな大きい興奮が彼の心に芽生えた。
『この反抗的な目が恐怖で歪んだらどうなるのだろう』
恵司は口の端を極端に釣り上げた。まるで口が裂けているかのように。口の端が大きく裂け、そのまま両方の端が首の裏側で『こんにちは』と挨拶するかのように。彼によって傷つけられ苦痛で顔が歪む小学生と、目の前の小学生が、彼の視界で二重写しになる。
彼の心に芽生えた、新たな禁忌を侵す快楽、真由なんてちっぽけなモノとは比べ物にならないくらいの愉悦、そしてそれを求める欲望は、彼自身にはもう止めることは出来なかった。自我と他我を区別する境界線、自分を外界の雑多なモノと完全に区別し絶対的な優越を与えるステージを、ホリゾントの裏側からスルリとくぐり抜けて侵すことの快感が、彼の頭にべっとりとこべりつき離れない。
立ち上がりながらニッと不気味に笑う恵司の鬼のような表情を見て、体の小さい小学生は目を丸くした。その目に映り込む一つの生命体を、彼は今までの乏しい人生で一度も見たことがないだろう。
「な、何だよ......」
一歩、また一歩と足を進める鬼と、一歩、また一歩と退く小学生。ほんの数秒前まで彼の瞳の中で激しくほとばしっていた火花は完全に消え去り、得体の知れない『何カ』に対する恐怖で頬が引きつった。
「こっち来んなよ!」
小学生は走り出した。ただひたすら、懸命に。彼の中では今までで一番早いタイムを記録しているだろう。『運動会の徒競走なんて、あんなのお遊びだ』と思えるほど。だが、迫り来る足音と、荒い息遣いが、すぐそこまで来ている!
鬼ごっこは間も無く終わりを告げた。そして、闇に閉じ込められた街の片隅で、金属が月光を受け鈍い光を発した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ねぇ、私の話聞いてるの? ねぇってば!」
冷水を浴びせられたように、恵司の体がビクッと震えた。間の抜けた顔を声の主へと向ける。
「はぁ〜、聞いてなかったんでしょ」
「ごめん、真由、」
呆れ顔で嘆息を漏らす真由に、恵司は煮え切らない様子で謝った。心の内で悪態をつきながら、視線を逸らす。
太陽がさんさんと照らす住宅街と、その中の通学路を進む二人。少し先の民家には、若い緑色の葉を付けている木が、二人の歩いている道へと迫り出している。そしてその下には、ブルーシートを目一杯に広げたような黒々とした影が、工事をしたばかりの黒い真新しい道路をより黒く染め上げていた。
「恵ちゃん......どうしたの?」
黒い木陰からほんの数メートル手前で、真由が恵司に尋ねた。恵司は真由の視線に気付きながらも、彼女に見向きもしない。彼の心の中に黒い欠片が積もっていく。真由が何か言う度に、ほうきで落ち葉を集めたような山を作る。黒い、マチ針の先が沢山付いた欠片が、彼の心を引っ掻く。
「どうしたって、いったい何がだよ......」
恵司は重たい唇を開いて、面倒臭そうに話した。彼自身が発した溜息混じりの言葉が、彼の耳に木霊し、耳の奥にこべりついた。
「だって......今日、ずっと上の空なんだもん。いつもだったらもっと笑うのに、今日は笑わないし......」
真由の歩調が恵司とズレた。真由の右足の靴が道路に広がる木影と重なり、薄茶色と灰色が混ざる。
恵司の眉間に皺が薄く現れた。真由と彼の心を隔てるように。真由と彼の『ズレ』は、ここにも現れた。
「いや、さ。実はちょっと寝不足で......」
「もう!」
急に声を張り上げ立ち止まる真由。真由の顔には木陰が差し、表情に暗いニュアンスを与える。状況が飲み込めず立ち止まる恵司。恵司の眉間の皺は伸び切り、『マヌケ』の仮面が顔に張り付いた。
「ちゃんと寝ないと良くないって言ってるのに! 前から生活リズムは大切だってあれほど......」
伸び切った眉間に、また皺が現れた。
「うるさいな! 真由には関係ないだろ! 一々干渉するなよ!」
風が二人を追い越した。道路の上に被さる灰色が、形を変えながら大きく揺れ、彼らの上に広がる青い木の葉の一枚一枚が擦れ合い、ザァ、という大きな音を奏でた。だが、その中でなお、恵司の怒鳴り声は混ざらなかった。恵司の声は木の葉の響きを貫き通した。彼の心に積もり積もった黒い欠片の塊が、外の世界へとぶちまかれ、灰色の空気の中に漂う。そしてその欠片が真由の顔を覆い、彼女の表情に影を作った。
だが、この怒鳴り声に一番驚いたのは、真由ではなく恵司だった。口からすべてのセリフを吐き捨てた彼の表情は、沢山の色の絵の具を混ぜたパレットになった。『俺は何を言っているんだ......』、彼は目を見開いた。
「えと......ごめん。確かにうるさかったよね......でも、恵ちゃんのこと......心配だっ......」
「ごめん、真由......」
しどろもどろになる真由に、恵司は頭を下げた。
「......え?」
「真由に変なこと言ってごめん。俺、変だったよ。どうかしてた。本当にごめん」
『俺は一体何をそんなに怒っていたんだ。別に怒鳴るほどのことでもないじゃないか......そもそも、俺は何に苛立っていたんだ......? 俺は......さっきまでの俺は、本当に俺だったのか?』
狐が彼の隣にいたら、その狐は彼をおもちゃにしているだろう。白い尾で彼の頬を撫で、白い髭をぴょこぴょこさせ、その口元をニヤリと曲げて、
恵司自身のことが、今の彼にはまるで分からなかった。彼の内面、彼自身の心が、彼の理解を超える。今の彼にとって、たった数秒前の心がひどく難解に思えた。数秒前までの自身の心が、今はもう使われず遠くの昔に忘却の彼方へと追放された古代文字の集まりのように。
今の彼とほんの数秒前までの彼とは、まるで他人だった。お互いの感情を完全に分かり合うことを阻む大きな分厚いホリゾントが、彼の心の中に垂れ下がる。彼は自身のことが分からない。数秒前までの彼の心情が、今の彼とは遥か遠くの場所にある。今の恵司には、さっきまでの自身が別の『恵司』という存在に操られていたかの如く感じられた。彼は気味の悪い思いを噛み締めた。彼の目に木陰と恐ろしく似た色がまとわりつく。
狐が彼の内面にいることに、彼は気付かなかった。他人のステージで上演中の演劇をハチャメチャに壊し、台無しにし、荒野に帰することをこの上なく好む狐が。
『そら、ホリゾントの裏側に俺はいるぞ! 何だァ、気付かないのか? ハハハ、そりゃ滑稽ダ!』
狐はホリゾントの向こう側に潜みながら、こちら側の様子を布一枚越しに注視している。狐の目、口、鼻、耳、毛穴......狐全身の神経をこちら側に集中させ、彼の手の平にある照明を奪おうと身構えている。その狡猾な狐を前に、恵司は余りにも不用心だった。恵司は開けっ放しの扉も同然だった。狐はニマニマと薄気味悪く笑いながら、今にも空き巣になろうとしている。
「べ、別にいいよ! きっと、恵ちゃん、疲れてただけなんだよ! ほら、もう少しで講義始まるよ。行こう!」
明るく言葉を口にする真由の姿が、彼の目に痛々しく映る。引きつった作り笑顔が、彼女もまた困惑していることを、これまでにないくらいに端的に表す。今の彼には、自分よりも他人の真由の心の方が、ずっと簡単に理解できた。
彼の心は危機に瀕していることにも関わらず、真由に対してやり切れない気持ちがのんきに溢れ出る。今の彼は、目の前に銃を突きつけられながらもそれに気付かずに、山と川と家を真っ白な画用紙にクレヨンで描いているようなものだった。濁った恵司の目がさらに澱む。
「そうだね......じゃあ、行こっ......」
「お〜い、真由〜! 萩野く〜ん!」
女の人の声が彼ら二人の間を通り過ぎた。その声は陽気で、トランペットのように甲高く、彼らの頭の上に広がる青い空によく似合う響きを伴っていた。そして、今の恵司とは似つかわしくないほどの清々しさがあった。
彼らがこれまで歩いて来た道を、女の人二人が辿っている。一人は明るい茶髪の長髪に、白いブラウス。もう片方は、灰色がかったTシャツに、よれたジーンズ。一見すると何だかトンチンカンな組み合わせ......だが、恵司には見慣れた二人組だった。
「おはよう、このみ、夕那」
道路を黒く塗りつぶす木陰の中に入った二人に、真由は言葉をかける。寝癖が付いたまま眠そうにしている夕那をそっちのけにして、このみが早口で話し出した。
「ねぇねぇ、聞いてよ! さっきそこで、何か分かんないけど警察に捕まってさぁ!」
「えぇ!」
驚きの声を漏らす真由。
「警察に捕まった......というか、質問に答えた、が正しいね」
夕那がすかさず訂正を加える。声にあまり起伏が無い、男のような話し方で。夕那の目は七十パーセントぐらいしか開いていない。恵司は夕那の彼女独特の話し方、そして彼女の態度があまり好きではなかった。
「警察って、もしかして今朝のニュースの?」
「うん、そうだよ。昨日の小学生殺害事件だね」
「それで、答えるのはいいんだけど、警察の態度がものすごく傲慢で......」
『警察』という単語に耳がピクリと揺れる。目はヘドロのように濁りきり、狐のように釣り上がる。口元はわずかに上へと歪む。
彼の心は二つに別れた。二つの間には分厚いホリゾントがそびえ、行き来を不可能にする。ホリゾントの向こう側で、上演の開始を知らせるブザーがけたたましく鳴り響き、観客席の照明が落とされた。観客席は顔の無い紙人形で溢れかえっている。席に座れない人形は、座っている人形の上へと重なり合い、暗くなった観客席に不気味な山型のシルエットを作る。暗い夜の中に輝くネオンのように明るく照らされたステージを、一匹の狐が飛び跳ねた。頭上の証明は恵司の手にあったモノだ。
コンコン
コンコン
ステージに姿を現したことを喜ぶ狐の鳴き声が、コンサートホールにこだまする。やたら大袈裟に喜ぶ狐の声が、ホールの壁、天井、そして観客に跳ね返り、むやみやたらに錯綜する。
奇劇は始まったばかりだ。
では、よろしくお願いします。(・ω・)ノ