覚悟応報
「遅いわね」
「遅いですなぁ」
城壁の上にて、曹操は苛立たしげに靴先を鳴らし夏候淳は仁王立ちをしている。
出陣前の慌ただしさも落ち着き始め、これから来る『怠惰』な監督官に責めを与える時間は長く取れそうにない。
即断即決が過ぎる夏候淳と、思慮深さが仇になる夏候淵に較べ、臨機応変な李円を選んだが李円の悪い癖である『悪ふざけ』を考えに入れて無かったのは誤算ではあった。
夏候淵が
「兵糧の監督官に任命したのは私ならば、やはり事情を知り罰を受けるのは私の役目かと」
と、李円の後を追ったならば李円が監督官に興味を抱くのは必然で迅速な解決(監督官の首をはねて曹操の気を安んじる)は望めまい。
久しぶりの大遠征なれば、小石に躓くのは元よりわずかな遅滞や失敗すら煩わしい。苛つきに形のよい眉をしかめ、唇を軽く噛み締める曹操に併せるように夏候淳が困ったように腕を組み直す。
重く張り詰めた空気とは反比例するような快晴の青い空、石造りの城壁を蹴る軽やかな疾駆の音が奏でる様に鳴り響く。曹操が夏候淳が目を彼方に向ければ白く光るは噂の男。猫科の猛獣のようにしなやかに、空を滑る燕のように青い翼が翻った。
肩に小さい何かを担ぎ上げた李円が、見る人が見ればゴールテープを切るマラソンランナーのように胸を前に押し出した前傾姿勢で曹操達の前でフィニッシュを決める。
「よし、最速タイムで戻れたな」
額に汗をにじませ、自分で自分を誉めてあげたいと言わんばかりの清々しい笑顔に
「嘘はいけないぞ、李円」
折り曲げた人差し指でコツンと後頭部を叩く夏候淵。
ちなみに、二人が曹操と夏候淳の視界に入ってから目の前で寸劇を繰り広げるまでは五秒もかかっていない。
「時計も無いのに遅いか早いか分かる訳ないって父親的な人が言ってた。加えて汗だくで息を切らしていれば完璧だって」
暢気と言うか全く悪びれずに、しれっとした顔で悪い事を悪く思わせない印象付けの話をする李円。汗は既に引いていた。
「それは遅くて苛ついている人の前で言っていいものなのか?」
純粋に疑問を感じた顔で、顎を手に置き人差し指を頬に当てて首を傾げる夏候淵。
「あれ?」
同じ様なポーズで首を傾げる李円。
その後ろで
「結局、李円と秋蘭は遅かったんですか、華琳様?」
この夏候淳、判断を主である曹操に丸投げである。
「……」
曹操は腰を落とし、右腕を引いて左腕を胸の前に横にして伸ばし、膝を軽く曲げて、眉間に皺を寄せて唇をひくつかせて、力を溜めている。
「殺気、監督官ガァードォー!」
間の抜けた声と共に担いでいた小さいのを両手で揃え前につき出す李円。
「ちょっ、何してくれんのよ!?
私の計画が……曹操様、食糧は必要充分な……」
慌てる小さい物体ーー荀彧という名の人生初めての博打(計画)を挑まんとした少女ーーは目の前に修羅を見た。
「りーえーんーのー……」
地響き鳴らす馬蹄より低く、馬上にかざされる槍よりのし掛かる威圧感。目は人生に絶望した自殺志願者より暗く濁り、表情は阿修羅の憤怒よりなお激しく、その身にまとわりつくのは地獄の鬼より容赦ない断罪の鬼気。
「ぴっ……」
どう見ても怒り狂い冷静さの欠片も感じられない、今まさに眼前に迫る恐怖は
曹操=有能=慎重
という荀彧の目論見が脆くも崩れ去った瞬間だった。ついでに前話の決意とかそこら辺も崩れ去った絶望の瞬間である。
「はいはい、お前の求刑は後でな」
ヒョイ、と横から荀彧の小さい体を子供を高い高いするように抱え挙げる夏候淵。
「あ……」
予定外過ぎる突発的天災のような非常事態から、取り合えず逃れ得た安心に体の力を抜く荀彧。
「あ……」
自分ですら予想出来ない突発的天才的な回避策を取り上げられ、李円は目の前が暗くなるような喪失感に目をさ迷わせ、手は頼りなく宙を舞う。
絶望は移動する人を選ばず荀彧から李円にと。
それは小柄な体が弾丸のように李円の懐へと飛び込み、一瞬にして眼前に迫る修羅。
早さと威力を伴う拳は視界一杯に、巨人の鉄槌のような迫力を持って標的(李円)に迫る。
「あほーー!!」
「走馬灯、ありがとうございます!!」
何処までも飛んで行けそうな雲ひとつ無い青空の日、人類は鳥を越えて空を翔べる事を知った。
片足だけを縄で結ばれた李円が、城壁から逆さに吊るされた事でようやく曹操の怒りは晴れた 。
李円は尊い犠牲となったのだ。
「さて、何だかスッキリしたからどうでもよくなってきたわ」
にこやかに笑う曹操の顔は地上に降臨した天女の如く、荀彧を夏候淳を夏候淵の目を奪う魅惑の微笑みは全てを忘れさせる魔性の麗しさ。
だが、見えなければどうと言う事も無く
「待って、待ってあげて!
荀彧ちゃんのお話を聴いてあげて!! 」
城壁の向こう、やや下辺りから叫ぶ李円の声はかすれた瀕死の断末魔。
命を懸けた最期の言葉は荀彧の霞がかった思考を晴らす一陣の風となって届く。
「男にちゃんづけされるなんて、最悪よ!
死ねばいいのに、むしろ私の手で!!」
過度の男性嫌いからくる嫌悪感に顔を青くさせ目を吊り上げた般若の表情で城壁の縁に走りより、くくりつけられた縄を外そうと手をかける荀彧。
そこに、そっと手をのせる人がいる。
「いいのかい?
人を殺すのは覚悟がいる。自らも殺される覚悟とこれからも殺し続ける覚悟が」
熱く厚い重みを持つ重ねられた手に答えるように、覚悟と決意を示す逆八の字の眉を形作る荀彧。
「もう、覚悟は出来てるもの。決意もしたわ、後は為すだけ。成さねばならぬ事だけだもの」
ふわり、と弛む置かれた手に導かれるように固く縛られた縄をほどく荀彧の白く小さい指。
この日、幼さの抜けきらぬ少女は自ら決意し自ら事を成す大人になったのである。
「人を殺す動機がちゃん付けされただけなのは流石にどうかと思うのだけど……」
初めて己の手で加害者となった荀彧と共にどこまでも青い空を見上げる李円(被害者)、というシュールな光景に曹操が疲れた表情で呟く。
その呟きに反応して、クルリと首を回す李円。
「えっ、それなら『華琳ちゃん』って公共の場で呼んでもいいの?
苦節10数年、悲願の時が来たー!!」
「よし、ぶっ殺す」
「華琳様、ここは私が!」
「まあ、落ち着け姉者。華琳様も冷静に」
夏候淵の大事さが分かる場面であった。
「何かすっごいグダグダだけど、やる事はやっておかないとね」
「誰がそのーーグダグダ?
にしたと思ってるのよ。この、平凡顔!」
仕切りをしようとした李円を睨み付けて罵声を浴びせる荀彧。ピキリ、と平凡顔をひくつかせる李円。
「……もう、こいつ死刑でいいんじゃね?」
声音が本気と書いてマジだった。
「李円、結構気にしてたのね。普通顔」
「李円は凡人顔だからなぁ、ハッハッハ!」
「並みの顔でも良い所はあるぞ、李円」
付き合いの長い三人に普通に平凡に人並みにへこまされた李円が、端の方で遺書をしたため、靴を揃えて城壁から飛び降りようとしているのを背景に改めて向き合う曹操と荀彧。
「さて、貴女が糧食の収集を請け負った監督官ね。秋蘭に見出だされ恩を仇で返した理由を聴こうかしら?」
荀彧を見定める視線に先程までの怒りは無く、その青い瞳には理知的な冷静さが宿る。
この段階で荀彧の目論見は半分達成され、半分失敗したと言える。
荀彧が狙いとしたのは、初対面での衝撃的な印象付けである。低い背丈と幼い風貌の印象を覆すような、暴力的で不快なまでの衝撃。武人と違い、実戦で才能を示すのが難しい軍師という役割は信頼を得るような実績を与えられる事が極端に少ない。
そんな立場を一気にひっくり返せる大逆転の策が、荀彧の狙いならば李円が曹操を冷静にしてしまったこの状況は荀彧の想定したものとは程遠く、一監督官が太守である曹操に直答を許された事は千載一遇の機会ともいえる。
「理由は三つあります。お聞き頂けますか?」
あくまでも、挑戦するような真っ直ぐな眼差しと、その奥に宿る不退転の意思に燃える緑瞳。
幼い童顔と頼り無げな華奢な肢体とは相反する様な気迫は、戦場にある武人を思わせる『覚悟』が見てとれた。
(なるほどね)
チラリ、と李円に視線を送りながら心の中で頷き、
「……許すわ、納得のいく理由なら処遇を考えてあげてもいいでしょう」
曹操は改めて荀彧へと向き直る。
「……ご納得頂けなければ、それは私の不能がいたす所、この場で我が首、刎ねて頂いても結構にございます」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、全て受け入れる聖人のように穏やかに、降り来る理不尽全てに死を持っても折れない不屈の覚悟を張り付けた顔の荀彧。
じっ、とそれを見据えた曹操はこのような場でなければ喝采を持って讃えただろうその凄烈な覚悟に応じる心積もりを決める。
太守という高見から見下ろす事無く、他者の手に委ねる事無く、自らの手で荀彧の言葉を実行する決意を秘めて、
「……二言はないぞ?」
断固たる意思をもった燃え上がる様な蒼瞳と重々しい言葉で応えた。
荀彧は両手を合わせ、頭上に掲げる様にして頭を下げる。
命のやり取りが行われるのが戦場ならば、荀彧はまさに曹操を戦場にて一騎討ちに引きずり出す事に成功したのだった。
筆のおもむくままに書こうとすると、ダラダラと長くなる症候群が発生中。
立ち絵が無い分、心情表現を細やかにしていくと三人称だと膨大な文章量に……
これに本当は李円や夏候姉妹の心情表現まであったんだぜ……長すぎて飽きましたが(笑)
次回は荀彧さん、まだまともに見えてた曹操さんへの傾倒ぶりを上手く描けるといいなぁ。