決意結意
監督官という仕事に就く者は、目端が利かなければ上手くこなす事は難しい。
人を使い、物を集め、管理する。
単純な作業の取りまとめであり、あらゆる仕事の基本で、あらゆる不正の温床であるからだ。
横流し、上前はね、上役への賄賂。民にとって直接的な悪人の定型としてある官匪の大体はこういった役職の人間が担う所が多い。
数が多く、誤魔化しが効きやすい反面、不正が発覚すれば何よりも嫌悪され憎まれるのはこういった小役人であり、苦労の割に報われない役職でもある。
(だからこそ、割に合わない賭けに出たのだけれど)
ウェーブのかかった茶色の髪を薄緑色のフードで隠して、少女は溜め息をついた。
見た目は幼い体型と愛らしい顔形をしているが、その頭脳は物心ついた頃より神を算り、鬼を謀る。それ故に危地を避け、安を取る事に馴れた心は脆弱にして卑小。今も心臓は早鐘の如く鳴り、膝が震え、体は小さく縮こまる。
生まれて初めての博打に賭けるのは、金でも名誉でもなく己の命。
命のやり取りを見た事が無い訳ではない、戦場を知らぬ訳ではない。だが、自らの命を矢面に立たせたのは正真正銘、今が初めてだ。
ジットリとにじむ汗に逃げ出したくなる心。それらを頭に思い描く計画をなぞる事で抑えつけ、大きく息を吐き出す。
曹孟徳、その名は遥かに冀州まで届く。異彩を放つ異才。英才を越える叡才。鬼才を霞ませる危才。
その噂は何よりも強く鋭く激しく鳴り響き少女ーー 荀彧を捕らえた。袁家最大の派閥である袁紹の元にあると言えど、その才を振るう機会少なく、主である袁紹に魅力を感じとれなかった荀彧が聞いた曹操の噂は安寧たる袁家の元より出奔し、新米として一から出直すリスクを払ってでも確かめたい輝きがあった。
名家に生まれ、学を成し、漢帝国最大の派閥に仕えた荀彧の経歴は最高の成功を収めた結果とまで言えた。
だが、荀彧はそれでも我が身の置き所を袁紹の元には見出だせなかった。才能に溺れていると言われればそうだろう。自らの才能を買い被っていると言われればそうだろう。成功を捨てた愚か者と言われればそうに違いない。
それでも、荀彧は己の存在を賭けてでも確かめたいものがある。常人には知り得ぬ知識を、予知と見紛う神算を、鬼すら謀る計略を持ってすらまだ求めるその先に、この全てを謀る脳髄を持っても図れない『荀彧』という全存在を確かめる為には今までの全てを賭けなければならない。それを越える事で始めて荀彧という存在は先に進めるのだ。
だからこそ、恐い。頭では判っていても、体が震え、心が萎える。限り無く不安定要素を排除した理路整然とした計算に成り立つ計略ではないこの計画は、荀彧が物心ついてから初めてする博打である。
(これが上手くいったら、絶対にこんな賭け事じみた計画は建てないようにしよう)
手を薄い胸の下で激しく打つ心臓の上に置く。つくづく、戦場向きでは無いと実感しつつも顔を上げる。次に俯くのは首を打たれる時だ。それまでは、これまで積み上げた荀彧という存在全てを支えに顔を上げて挑む覚悟を少女は決めていた。
それは遠くから寄せては返す波の様な音だった。
「ーーめろ。曹ーーに連ごはぁ!」
「ーーだってーーぎゃあ!!」
断末魔だけは、はっきり聴こえるのが逆に不安を煽る叫びとその間に無駄にはっきり聴こえる
「悪い官吏は居ねがー!
ここにも居ねーがー!!」
派手な破砕音が弾ける度に断末魔が穿たれて人が吹き飛び、くぐもったダミ声が等間隔で迫ってくる恐怖。
ぶっちゃけ、心当たりがありすぎる荀彧の薄緑色の猫耳フードはガタガタと震え、顔が自然にうつむきそうになる気分全開だった。
しかし、荀彧は迫る恐怖に口を真一文字に結び、顔だけは取り澄ました風を装う。童顔と幼児体型ゆえに侮られ、吟味もなく献策を取り下げられる事には慣れている。袁紹の元では目立たない官吏として過ごした悔しさは今でも荀彧の心に大きい傷を残す。
(例え、憎まれようとも……)
大口を叩き、大風呂敷を広げていると思われても自信を持った揺るぎない言葉に人間は耳を傾けざるを得ない。荀彧は自分に必要なのは『目立つ』事だと考えて、今日まで雌伏の時を過ごして来た。
地道に功績を上げるのも大事だが、一の上に一を積み重ねて十とするより、0の上にいきなり十を重ねた方が印象は段違いに強い。
だが、土台を安定させずに積み重ねれば失敗して崩れる可能性は段違いに跳ね上がるし、後には何も残らない。名家の生まれという背景も、誰かの推挙という後押しも、積み重ねた実績も無い一監督官の不手際は一際、異彩を放つ色彩を持って曹操の目に突き刺さるだろう。
それこそ、その不快な、目に痛い光を有無を言わさず握り潰したくなる程に。噂だけで人を計る事に荀彧は不安を残しつつ、この計画を建てた。人の心は移ろいやすく、もしかしたら今日の曹操は冷静に物事を考えられない位に機嫌が悪いかも知れない。
だからこそ、あえてこの大遠征に併せて計画を実行に移した。噂に聴く曹操の才覚と自信、人格から察するに必ず自分で直接確認するに違いない。大事な遠征を失敗させる理由を自ら検分し、自らの手を降す事を躊躇い無く選ぶだろう。
それを覚悟して、荀彧は糧食を命じられた半分しか集めなかった。不退転の覚悟は出来ていた。
のだが、
「悪い官吏はーーここがー……」
白い湯気を吐く口から響く遠雷のような声。
切れ長の目は血走り、瞳孔が開き切った暗い黒眼は荀彧を見つけて糸の様に細まる。それは鼠を見つけた猫、地に落ちた鳥に迫る猟犬、兎を前にした獅子。いや、荀彧がそれを見た瞬間感じたのは、
(人の味を覚えた虎の前に居るみたいーー!?)
恐い、怖い、コワイ。
体が震える、心が折れる。
膝を崩して大地に倒れ伏せたい。
泣いて命乞いをして逃げ出したい。
どんなにみっともなくとも命を自分を荀彧を、生き永らえさせるためにそれ以外の全てを投げ出したい。だが、荀彧は前を向く。
「私が『悪い官吏』よ」
悪びれもせず言い切る。
今の自分には何も無い。
荀彧という全存在は背中にあり、ここに前を向いて立つのは今までの荀彧とは違う者に成りたいと願った愚かな自信家。なればこそ、彼女は憎々しげに平然と不敵な笑みを張り付けて恐怖に対峙する。
正面から立ち向かう事など不可能なはずの恐怖を前に笑って見せる。
怖くは無い、怖いのは当たり前に生まれ当たり前に成功し当たり前に死んでいく荀彧という存在だけになる事。
脆弱な心から絞り出す勇気を、安穏とした脳髄から搾り出す知恵を眠らせてしまう無念さに耐えられないからこそ、今まさに荀彧は恐怖に立ち向かえていた。
「ま、待って下さい。李円さーーぐはぁ!?」
荀彧の横に居た文官が李円を止めようとして蹴り飛ばされる。
「悪い官吏は斬らねばならない。文句があるならばーー斬る」
李円の目が座っていた。
普段は意識して垂れさせている切れ長の目が鋭く空気を抉る。
人並みな容貌の李円の真ん中に切り裂くようにある鋭すぎる切れ長の目は、対峙する者に強烈な印象を与え、李円という存在を鋭い刃の様に見せつける。
「李円様と言えど、新人いびりは見過ごせませんな」
「全く持ってその通り」
武官の二人が李円と荀彧の間に立ち塞がる。
それをギラリと見据える李円。
「怠惰な官吏を罰するのを邪魔するか」
「普段の李円様が言えるこっちゃないですよね、それ」
………
「それはそれ、これはこれ」
「誤魔化したよ、この人」
ちなみに新入りの荀彧は、李円の人となりがよく分かっていない。
「それに……へへっ、この監督官さんは俺の娘みたいなもんでしてね」
照れ臭げに鼻をこする武官A。
「何その新設定!?
私、ここでは知り合いすらあんまり居ないわよ!?」
「(あっ、ずりぃ)実は俺もこの監督官さんは妹またいなもんで」
頭を掻きながら腰の剣を抜く武官B。
「私、あんたと話した事すら無いわよねっ!?」
絶叫する荀彧を見据え、李円は
「ふっ、可愛がられていたようだな」
全てを察した顔でニヒルに笑う。
「ちょっ、ちょっと待って。本気で知らないからこの人達の事」
何やら知らない間に築かれた人間関係に焦る荀彧。
「だが、罪は罪。しかるべき罰は与えねばならん」
「貴方はいつも俺達の大事なものを奪っていく。だが、今度こそは奪わせたりはしない、大事なものを守り抜くとあの月夜にーーえーと……監督官と誓ったのだから」
「名前すら出てきて無いじゃない!
月夜とか知らないわよ、私!!」
「あー、俺も何か死んだ両親に誓った感じの態で」
「て、適当過ぎないかしら……」
ツッコミ疲れ始めた荀彧を横目に
「譲れないものがあると言うことか。だが、悪い官吏は悪即斬、この信念に揺るぎは無い」
李円が鈍色に光る剣を構える。
何やら知ってる人ならアウトー!
と叫びたくなる台詞だが、荀彧や武官は勿論知らない(深刻なツッコミ不足)。
李円と武官、三人の間に刃より鋭く、石よりも硬い空気が張りつめる。
共に幾度も戦場に立った者達が発する気迫に、荀彧は喉を締められているかの様な圧迫感を受けていた。
(これが戦場の空気ーー!?)
撒き散らされるのは暴風の如き殺気。
せめぎあうのは火花の如き視線。
一歩でも動けば全てが決する修羅場。
例え、原作に登場しないモブ武官でも荀彧にはその存在は巨大に見えた。
まあ、一瞬で李円に蹴散らされましたが。
吹き飛ばされた武官A、Bが端で
「さっきので監督官ちゃんにフラグとか立たないかなー」
とか
「モブ武官ルートとかありかなぁ」
みたいな意味合いの駄弁りに
「いや、流石に無理でしょ」
最初に李円に蹴り飛ばされた文官がツッコミをいれたりしていた。
「さて、冗談抜きで悪い官吏は処罰を与えなければならない」
ジロリ、と睨む李円に荀彧は内面で首を縮めながらも強い意思を瞳に込めて見返す。
李円は、幼い容姿で体を鍛えているようにも見えない荀彧が武官や自分の殺気に当てられながらも、意思を挫くこと無い姿に好意的な感情を持ち初めていた。
軍における規律は岩の様に厳格で鉄の様に厳正でなければならない、という思想は間違いなく正しい。その観点から言えば、糧食という軍の生命線を意図的に(李円は荀彧の様子からそう確信した)半分しか集めなかった荀彧には即刻、罰を与えなければならない。
だが、罰を与えればそれで終わりでもある。それは荀彧としても計画が失敗に終わる事を意味しており、不本意な結末にしかならない。悩む李円とそれに気を揉む荀彧の救世主は意外な所から現れた。
「李円、少しだけ時間を貰えないか?」
波の無い穏やかな中に射抜く様な鋭さを秘めた声。
荀彧は伏せかけた顔を上げ、水色を見た。
李円は振り上げた刃を戻し、赤を見た。
二人の間に立つのは夏候淵。
曹操の片腕にして、曹操麾下にて荀彧を最初に見出だした人物が荀彧を背に李円へと真摯な視線を向けて立っていた。
荀彧のターン。
予想外に荀彧語りが長くなりました。
いいじゃないか、好きなんだもの、み○お。
モブ武官さんはコメディ補充のみの登場、脇役まで出し始めたら終わらないよ。
原作では荀彧と夏候淵の絡みが少ないよなー、と思いつつプレイし直したら荀彧を監督官に抜擢してたのが夏候淵だったのにビックリした。意外な絡みがあるもんだ。
コメディと銘打つ割に登場人物出揃うまでコメディ少なくてすいません。次回の曹操カリスマ発揮後こそは!!
……コメディ出来るといいなぁ。