「君の地味な音は時代遅れだ」と離縁された私は、即位式の舞台で夫の知らない交響曲を初演しました
子爵家の娘エルーダ・ノアトリスは、音楽家一族の"耳のいい"令嬢。十六で嫁いだ夫ラディアンは、二流作曲家だった。
ある夜、夫は歌姫を屋敷に連れ込み、書きかけの楽譜を暖炉に投げ込んだ。
「君の地味な音は時代遅れだ。離縁しよう」
エルーダは頷いた。
灰の中から半分だけ焦げた譜面を拾う。それは夫が三年で盗んできた全てのコピー。原本は、王室楽長オリヴァン・フェインの書庫に──彼女の手で、三年前から毎週届けられていた。
三ヶ月後、国王即位式。
彼女は夫が一度も聴いたことのない交響曲を、自分の名で初演する。
第一章 焼かれた譜面
「君の地味な音は時代遅れだ」
書斎の暖炉で、紙の束が音を立てて崩れた。
炎が五線譜を嘗めていく。音符の一つひとつが黒く縁取られ、やがて灰になる。
エルーダ・ノアトリスは、火の前に立つ夫を黙って見ていた。
「離縁しよう」
夫ラディアン・ヴェスティールは振り返った。
金の髪、薄茶の瞳。社交界で「王都の寵児」と呼ばれる作曲家の顔だ。
その肩には、夜会服の歌姫がもたれかかっていた。
アリエラ・ペトラ。王立歌劇場の主役を張る、プラチナブロンドの美人歌手。
「同情で結婚してやってから三年、十分だろう」
エルーダは何も言わなかった。
ただ、暖炉の中で崩れていく譜面の枚数を数えていた。
(──副本ね。全部)
手書きの譜面の右下、微かに滲んだインクの癖。原本にはない、筆写時の擦れ。
あれは自分が、夫の書斎のためだけに作った控えだった。
本物の原本は、王室楽長オリヴァン・フェインの書庫に、三年前から毎週一枚ずつ届けてきた。
燃えているのは、夫の自尊心のための偽物だ。
「何か言いたまえよ」
ラディアンが眉をひそめた。
エルーダが泣くか、縋るか、喚くか。そのどれかを待っているのが顔に出ている。
アリエラが扇で口元を隠した。小さく笑った気配。
エルーダはゆっくりと顔を上げた。
「承知しました」
三文字で答えた。
夫の顔が、一瞬だけ止まる。
「……それだけか」
「それだけです」
エルーダは一歩下がった。
絨毯の上を、ドレスの裾が静かに滑る。
「離縁届のご用意は」
「ここに」
ラディアンがテーブルの上の書類を指さした。
侯爵家の紋章が入った正式な書式。インクはまだ乾いていない。
今夜のうちに済ませるつもりだったのだ。
エルーダはペンを取った。
ノアトリスの姓を、自分の手で消していく。
消しながら、母の声を思い出した。
音を誰かに渡さないで。
必ず、自分の名前を書きなさい。
三年前、病床で母が最後に残した言葉だった。
(お母さん。私、やっとその意味が分かった気がする)
ペンを置いた。
「以上で、よろしいですね」
「ああ」
ラディアンは手を払った。犬でも追うような仕草だった。
エルーダは一礼もしなかった。
踵を返し、書斎を出た。
扉が閉まる音の向こうで、アリエラが小さく笑うのが聞こえた。
廊下は静かだった。
侯爵邸の大理石の床が、靴音を冷たく反射する。
使用人は誰もいない。夜更けに夫が密かに呼び出したのだから、当然だった。
エルーダは自室に戻った。
クローゼットを開ける。
ドレスには見向きもしなかった。
手に取ったのは、真鍮の留め金がついた古い木箱。
母の形見のヴァイオリン。弓。予備の弦。それから、母の手稿が綴じられた薄い書簡帳。
それだけを鞄に詰めた。
引き出しの奥から、小さな封書を一通取り出す。
差出人の名はない。ただ封蝋に、五線譜の一小節が描かれている。
──オリヴァンからの合図だった。
いつでも出ていい、という意味。
(今夜、出ます)
エルーダは封書を胸に抱いた。
使用人用の裏口から、静かに屋敷を出た。
夜は冷たく、月がなかった。
石畳の先、馬車が一台、灯を落として待っていた。
御者が無言で扉を開ける。
「下宿屋のほうへ」
「承知しております」
エルーダは乗り込んだ。
馬車が動き出した時、侯爵邸の二階の窓に、まだ炎が揺れていた。
三年分の譜面が、今も燃えている。
エルーダは窓の外を見なかった。
膝の上にヴァイオリンケースを置き、両手でそっと撫でた。
木の表面がひんやりと冷たい。
母の手の形を覚えている楽器だった。
(お母さん)
声には出さなかった。
(私、やっと、自分の音を取り戻しに行きます)
馬車の車輪が石畳を打つ音だけが、夜の王都に残っていた。
しばらくして、エルーダは膝の上の封書を開けた。
中には一枚の薄い紙。
そこに書かれていたのは、旋律だった。
五線譜の一小節。四分音符が四つと、最後に長い全休符。
文字はない。
──逃げろ、ではなく。
ただ「ここにいる」と言っている音だった。
エルーダは譜面を額に当てた。
三年前、初めてオリヴァン・フェインに原本を届けた夜。返事として戻ってきたのも、同じように一小節だけの手紙だった。
言葉より、音のほうが嘘をつかない。
そう教えてくれた人の、いつもの返し方だった。
(私、今夜、動き出しました)
エルーダは封書を胸に戻した。
馬車は王都の大通りを抜け、下町の細い路地へと入っていく。
オリヴァンが手配した下宿屋は、古いが静かな建物だと聞いていた。
二階の東向きの部屋。窓辺に小さな譜面台があるだけの、物のない部屋。
そこに、新しい五線譜と、自分の名前を書き込むためのインク瓶だけが置いてあるはずだった。
エルーダはヴァイオリンケースを抱え直した。
馬車の窓の外、空が少しだけ白んでいる。
夜明けが、近い。
第二章 三年の文通
下宿屋の扉を開けたのは、小柄な老婦人だった。
白髪を後ろでまとめ、紺のエプロンを巻いている。
「エルーダ様ですね」
老婦人は声を潜めて、そう言った。
「ええ」
「二階の東のお部屋です。どうぞ」
それだけ言って、老婦人は身を引いた。
名乗らなかった。
エルーダも、名乗らせなかった。
オリヴァンが手配した下宿屋の人たちは、そういう段取りになっているのだと、後で分かった。
誰も、エルーダの素性を聞かない。
誰も、エルーダの過去を尋ねない。
ただ、朝の茶を運び、パンを焼き、夜に毛布を用意してくれる。
それだけの関係だった。
エルーダにとっては、それがありがたかった。
二階の廊下は狭かった。
木の床が歩くたびにわずかに軋む。
東向きの部屋の扉を開けると、
朝の淡い光が斜めに差し込んでいた。
聞いていた通り、何もない部屋だった。
木の床、白漆喰の壁、窓辺に小さな譜面台。譜面台の上には新しい五線譜の束。
机の端に、黒いインク瓶と新しい羽根ペンが一本。
ただそれだけだった。
けれど、椅子の背もたれには、古い毛布が一枚、丁寧に畳んで掛けられていた。
エルーダはその毛布を手に取った。
羊毛の匂いがした。
誰かが、夜が冷えると思って置いてくれた毛布だった。
エルーダは窓辺に立った。
東の空が、少しずつ色を変え始めていた。
藍色から、薄い紫へ。
紫から、灰色混じりの桃色へ。
夜明けだった。
エルーダはヴァイオリンケースを譜面台の横に置いた。
鞄から母の手稿を取り出す。
小さな書簡帳だった。
表紙は革。背表紙にインクで走り書きされたタイトル。
『エセリネ・ノアトリスの覚書』
母の名前だった。
エルーダはそっと開いた。
母の字が並んでいた。
整った、けれど柔らかい、少しだけ右に傾いだ筆跡。
楽譜の余白に、母は日記を書いていた。
三年前の秋、初めてこの書簡帳を手渡された日のことを思い出した。
母の病室だった。
窓からは庭の落ち葉が見えていた。
母はもう体を起こすことができなくなっていた。
それでも、エルーダが病室に入ると、母はいつも同じ顔で笑った。
「エルーダ。この手稿を、あなたに渡します」
母の声は細かった。
けれど、言葉の一つひとつが、重たいはずなのに、不思議と軽く聞こえた。
「あなたの夫が、私の残した楽譜を欲しがっているのを知っています」
エルーダは頷かなかった。
頷けなかった。
「あなたは優しい子だから、きっと渡してしまう。私が死んだあと」
母は笑った。
「でも、それでいい。渡していいのよ」
エルーダは母の手を握った。
母の手はもう冷たかった。
「渡していい。──その代わり、あなた自身の音だけは、誰にも渡さないで」
母はそう言った。
「必ず、自分の名前を書きなさい」
エルーダは覚えている。
母はその後、一ヶ月で逝った。
葬儀の日、王室楽長オリヴァン・フェインが列に並んでいた。
母の元同僚だった人。
母より十歳年下だった、穏やかな黒髪の男。
オリヴァンは列の終わりに、エルーダの前で足を止めた。
「エセリネ様の残された曲を、誰が書き継いでいくのですか」
そう静かに尋ねた。
エルーダは答えられなかった。
当時、エルーダは夫の書斎で、夫のために楽譜を書く妻だった。
夫のラディアンは、母の葬儀にすら顔を出さなかった。
その日、オリヴァンは一枚の便箋を差し出した。
五線譜だけが印刷された、何も書かれていない白紙の便箋。
「もし書きたいものがあれば。いつでも。宛先は私です」
それだけ言って、オリヴァンは立ち去った。
エルーダはその夜、夫の書斎に忍び込んだ。
夫の机の引き出しから、一冊の帳簿を取り出した。
王室楽団からの作曲依頼書が、綴じてあった。
依頼主の署名の横に、納品されていた楽譜の控え。
その控えの筆跡は、全部──エルーダのものだった。
夫は一つも書いていなかった。
エルーダは帳簿を戻した。
静かに書斎を出た。
廊下で、自分の胸を手で押さえた。
胸の奥が、妙に熱かった。
怒りではなかった。
もっと別の、静かな熱だった。
(──私の音を、誰にも渡さない)
母の言葉が、初めて、自分のものとして胸に落ちた。
翌朝、初めて、オリヴァン宛に一枚の譜面を送った。
署名は書かなかった。
ただ右下の隅に、小さく、自分の頭文字を書いた。
三日後、返事が届いた。
何も書かれていない便箋に、五線譜の一小節だけ。
四分音符が四つと、長い全休符。
──届いた。
そう言っている音だった。
エルーダはその便箋を、ヴァイオリンケースの内側に貼った。
それが、最初の一枚だった。
それから三年。
毎週、エルーダは夫の書斎から原本を抜き出し、筆写し、オリヴァン宛に送り続けた。
副本は夫の書斎に戻した。
原本はオリヴァンの書庫へ。
夫はその違いに気づかなかった。
夫は、妻が書く楽譜と、自分の書く楽譜の、区別もついていなかったのだ。
毎週、オリヴァンからは、一小節だけの返事が届いた。
時に、明るい短調で。
時に、静かな長調で。
どの一小節も、言葉では何も言っていなかった。
けれど、どの一小節も、エルーダには「その曲の芯は、ここだ」と教えてくれる音だった。
(この人は、私より、私の音を分かってくれている)
そう思うことが、何度もあった。
夫の書斎で、夫のために筆を動かしながら、エルーダは内心でそっと微笑んでいた。
この三年間、自分を支えたのは、夫の目でも、夫の言葉でもなかった。
毎週届く、知らない人の署名もない、一小節だけの旋律だった。
言葉より、音のほうが嘘をつかない。
三年で、エルーダはそれをようやく信じられるようになった。
エルーダは母の手稿を閉じた。
譜面台の前の椅子に座った。
新しい五線譜を一枚、手前に引き寄せる。
インク瓶の蓋を開ける。
羽根ペンを取った。
(今日から、私の名前で書きます)
ペンを五線譜に下ろした。
最初の一音を、書いた。
四分音符一つ。
それから、もう一音。
また一音。
部屋は静かだった。
窓の外で、夜明けの小鳥が一羽、短く鳴いた。
※
最初の数日、エルーダは気づいた。
自分の手が、夫の代筆をしていた頃と、違う速度で動いていた。
夫のために書いていた時は、指が先に動いた。
頭で考える前に、「売れる形」が手から出てきた。
今は違った。
まず、頭の中で一音を想像する。
次に、その一音が自分の内側から出てきたものか、外から借りたものかを確かめる。
自分のものだと分かったら、五線譜に書く。
書き損じが多かった。
一日かけて八小節しか進まない日もあった。
それでも、エルーダは焦らなかった。
三年、誰かの代わりに書いてきた手を、自分のものに戻すには、時間がかかる。
それは当然のことだった。
夜、譜面台の前から立ち上がると、体の芯が少し痺れていた。
長く集中した日の、あの静かな疲れだった。
母の手稿を枕元に置き、ヴァイオリンケースを胸の横に置いて眠った。
朝になると、また、一音から始めた。
エルーダが書き始めて十日目の夜、机の上に、初めて一通の手紙が届いた。
下宿屋の老婦人が、無言で置いていってくれた手紙。
差出人の名はない。封蝋に、五線譜の一小節だけ。
オリヴァンからだった。
中には、便箋が一枚。
文字はない。
ただ、三小節の旋律が書かれていた。
最初の二小節は、エルーダが屋敷を出た夜、封書の中に入っていた一小節の続きだった。
最後の一小節は、初めて見る音だった。
(──あなたが、今、書いています、と言っている)
エルーダは便箋を譜面台に立てかけた。
ペンを取り、自分の譜面の続きに戻った。
言葉は、いらなかった。
第三章 即位式の依頼
エルーダが下宿屋に落ち着いて、二週間が過ぎた頃だった。
朝の譜面仕事を終えて、茶を淹れていた時に、階下の主人が声をかけてきた。
「奥様、お客様です」
エルーダは階段を下りた。
玄関の三和土に、オリヴァン・フェインが立っていた。
王室楽長の制服ではなく、黒のコートに、襟元に細い銀の刺繍。
「お邪魔してもよろしいですか」
オリヴァンはいつも、最初にそう言う人だった。
エルーダは頷いた。
二人は二階の部屋に上がった。
オリヴァンは椅子に座らず、譜面台の横に立った。
譜面台の上には、エルーダが二週間かけて書いた新しい譜面が二十枚ほど、束ねてあった。
オリヴァンはそれを見た。
長い沈黙があった。
「……続きは」
それだけ聞いた。
「まだ、書いています」
エルーダは答えた。
「何分の曲になりますか」
「三十分、たぶん」
「管弦ですね」
「はい」
オリヴァンは頷いた。
譜面束に指先で軽く触れてから、手を引いた。
「エルーダ様」
オリヴァンが振り向いた。
「国王陛下の即位五十周年記念式典の新曲を、あなたの名で発表したい。正式な依頼として、お持ちしました」
エルーダは一瞬、言葉を失った。
「……私の名前で」
「はい」
「無理です」
エルーダは首を振った。
「私はまだ離縁したばかりで、世間に顔が出ていません。それに、私は表に出るのが好きではないのです」
オリヴァンは静かに聞いていた。
反論はしなかった。
ただ、と一言付け加え、コートの内ポケットから一冊の薄い帳簿を取り出した。
机の上に置いた。
「これが、ここ三年分です」
エルーダは帳簿を開いた。
王室楽団が受けた作曲依頼の控えだった。
全て、ラディアン・ヴェスティール名義。
けれど納品された楽譜の筆跡は──全部、エルーダのものだった。
依頼書の隅には、王室楽長の受領印。
オリヴァン自身の印だった。
「楽団は、知っていたのですか」
エルーダは聞いた。
「楽団の上層部は、三年前から知っていました」
オリヴァンは答えた。
「あなたが書いていると」
「……それで、なぜ何も言わなかったのですか」
「あなたが、表に出ることを望んでいなかったからです」
オリヴァンはそう言った。
「我々はあなたの意思を尊重したかった。ただ、原本だけは残しておく必要があった。いつか、あなた自身が名乗りたくなった時のために」
エルーダは帳簿を指先でなぞった。
三年分の自分の筆跡が、そこに綴じられていた。
夫が「自分の仕事」として受け取っていた金銭も、報酬として書かれていた。
一件ごとに、金額も、全て、記録として残っていた。
「……表に出るかは、あなたが決めていいのです」
オリヴァンは言った。
「ただ、これが証拠です」
エルーダは帳簿を閉じた。
窓の外を見た。
朝の光が、譜面台の上の新しい譜面に、斜めに射していた。
母の声が聞こえた気がした。
必ず、自分の名前を書きなさい。
(お母さん。──私、書きます)
エルーダはオリヴァンに向き直った。
「依頼、お受けします」
オリヴァンは頷いた。
微笑みはしなかった。
ただ深く、一度だけ、頭を下げた。
「期間は三ヶ月です」
「間に合わせます」
「難しいところは相談に来てください。いつでも」
「ありがとうございます」
二人はそれだけ話した。
オリヴァンは長居しなかった。
コートを羽織り、階段を下りていった。
玄関で一度だけ振り向いて、言った。
「エルーダ様」
「はい」
「お母様は、きっと喜ばれます」
エルーダは何も答えられなかった。
ただ、階段の上から、オリヴァンの背中を見送った。
扉が閉まる音の後、エルーダは部屋に戻った。
譜面台の前に座った。
新しい五線譜を一枚引き寄せる。
右下の隅に、まず自分の名前を書いた。
エルーダ・ノアトリス。
それから、第一音を書き始めた。
※
三ヶ月は、短かった。
毎朝、夜明けとともにエルーダはペンを取り、日が落ちるまで書いた。
昼は下宿屋の主人が運んでくれるパンと茶で済ませた。
夜は母の手稿を読んだ。
母が未完のまま遺した旋律のスケッチを、一つひとつ曲の中に組み込んでいった。
曲の主題は、母が最後に書いていた四小節だった。
四小節だけで終わっている、短い主題。
母の病室の机の引き出しに、封筒に入れて残されていたものだった。
封筒の表には、母の字でこう書かれていた。
『続きは、いつか、書ける人のために』
エルーダはこの三年、封筒を開けるたびに、続きを書く資格があるのは自分ではないと思っていた。
──今は、違った。
書ける人のために、と母は書いた。
続きが書けるようになった時の自分を、母は待っていたのだ。
エルーダは四小節の先を、ゆっくりと自分の手で展開していった。
低い弦から始まる主題を、木管が引き継ぎ、やがて金管が加わっていく。
一つの夜明けを描く曲だった。
母が最期に見ていた病室の窓の外の夜明けをエルーダは管弦で書こうとした。
※
一度だけ、行き詰まった夜があった。
式典の一ヶ月前の、ある深夜だった。
第三楽章の中盤、どうしても繋がらない八小節があった。
エルーダはペンを置き、机に突っ伏した。
そのまま、眠ってしまった。
夜半に目を覚ますと、机の上に茶碗が一つ置かれていた。
冷めたカモミール茶。
下宿屋の主人の妻が、そっと置いていってくれたらしい。
茶碗の横に、小さな鉛筆書きのメモがあった。
『ご無理なさらず』
エルーダは茶を口に含んだ。
ぬるくなっていたけれど、喉の奥が少しだけ柔らかくなった。
(私、一人で書いているつもりでいたけれど、一人じゃなかったのね)
エルーダはもう一度、譜面台に向かった。
八小節が、繋がった。
曲が完成したのは、式典の十日前だった。
式典まで二十日を切った頃、王都には一つの噂が流れていた。
王室楽団が、何か新しい曲を準備している。
それも、誰も知らない作曲家のものらしい。
下宿屋の主人の妻が茶を運んできた時に、そっと教えてくれた。
「お嬢さん、新聞にも載ってますよ。『新曲、作曲者不明』って」
エルーダは茶碗を受け取りながら、少しだけ笑った。
「不明の方が、書きやすいのです」
「そうですねえ」
老婦人も笑った。
エルーダはその日、一段落ついた譜面を譜面台に立てかけ、珍しく外へ出た。
下宿屋の前の小さな広場には、蝋燭職人の屋台が出ていた。
エルーダは蝋燭を三本買った。
部屋に戻り、机の端に立てた。
一本目は、母のために。
二本目は、ここまで書いてくれた七十人の楽団のために。
三本目は、今、どこかで返事の一小節を書いているオリヴァンのために。
火を灯した。
部屋の空気が、静かに揺れた。
エルーダは譜面台に向き直った。
第四楽章を書き始めた。
母が書いた四小節を、最後にもう一度、弦楽器だけで奏でる楽章。
続きは書かない。
続きは、聴く人の胸の中で鳴るようにする。
そう決めた。
ペン先が紙に下りる音と、蝋燭の爆ぜる音だけが部屋に残っていた。
※
エルーダは譜面を束ねて、オリヴァンに届けた。
王室楽団の建物、三階の奥の楽長室。
重厚な書棚が壁一面に並び、そこにエルーダの三年分の原本が整然と並んでいた。
オリヴァンは譜面を受け取り、机に広げ、読み始めた。
エルーダは向かいの椅子に座り、ただ黙っていた。
オリヴァンは譜面を読み終えるまで一言も発しなかった。
読み終えて、最後の一枚を閉じ、一度だけ目を閉じた。
その目頭が、わずかに濡れていた。
「……練習に入ります」
それだけ言った。
エルーダは頷いた。
楽長室を出る時、オリヴァンが背中に声をかけた。
「エルーダ様」
「はい」
「お疲れ様でした」
エルーダは振り返らなかった。
振り返ったら、泣いてしまいそうだったからだ。
ただ、扉に手をかけたまま、小さく頷いて、部屋を出た。
※
式典の三日前、下宿屋にもう一人、客が来た。
エルーダは客の顔を見て、手に持っていた茶碗を危うく落としかけた。
歌姫アリエラ・ペトラだった。
あの夜、夫に寄り添っていたプラチナブロンド。
アリエラは地味なコートを羽織り、髪を一つに束ねていた。
化粧も薄い。
「……少しだけ、話せます?」
アリエラは立ったまま、そう言った。
エルーダは頷いた。
部屋に通した。
アリエラは椅子に座らなかった。
譜面台の前に立ち、エルーダの書いた譜面の束を、遠くから見ていた。
「あなたが書いたの」
「はい」
「夫の名で発表されていた曲も、全部?」
「はい」
アリエラは息を吐いた。
それから、コートの内側から一通の封書を取り出した。
赤い封蝋で留められた、重そうな封書だった。
「これ、あなたに渡したかったの」
アリエラは封書を譜面台の端に置いた。
「内側を見なくていい。ただ、即位式の後に開けて」
「……これは何ですか」
「ラディアンが、編曲依頼を回していた相手の一覧よ」
アリエラはそう言った。
「彼、一人で受けきれなくなっていたの。あなたに書かせていた以外にも、何人かの作曲家に陰で仕事を流していたわ。その頂点に、一人、大きな名前があるの」
エルーダは封書を見た。
赤い封蝋には、知らない紋章が押されていた。
鷲と五線譜が組み合わさった印。
「誰なのですか」
「開けてのお楽しみ」
アリエラは少しだけ笑った。
あの夜、扇の陰で笑ったのと同じ顔のはずなのに、違う表情に見えた。
「私、あの家を出たの」
アリエラは言った。
「あなたが書斎を出ていった夜、ラディアンがね、『あの地味な女が出ていって清々した』と笑ったの。それで気づいた。彼がそう言う女を、三年間、私は裏から支援していたんだって」
エルーダは何も言えなかった。
「私、馬鹿だったの」
アリエラは言った。
「あなたが、あんな顔で『承知しました』って言った瞬間、分かったの。あなたは、あの人に何かを奪われていた人なんだって」
アリエラは扉に向かった。
「即位式、聴きに行くわ」
「……アリエラ様」
「呼びすてでいいわよ。歌姫は皆、同じ戦場の女だもの」
アリエラは笑った。
今度は本当に笑っていた。
「あなたの音、聴かせて」
扉が閉まった。
エルーダは赤い封蝋の封書を手に取った。
重かった。
紙の重さではなく、中身が何かを物語る重さだった。
エルーダは封書を譜面台の引き出しに仕舞った。
第四章 初演
国王即位五十周年記念式典当日。
王都中央大聖堂。
正面祭壇の前に、王室楽団の椅子が弧を描いて並んでいた。
弦、木管、金管、打楽器。総勢七十名。
指揮台は中央に一つ。
客席には、国王、王妃、近隣諸国の大使たち、王都の高位貴族、約六百名。
プログラムの最後に、新曲が載っていた。
『五十年の夜明け』──作曲:無名
エルーダは舞台袖に立っていた。
黒のドレス。髪を一つに結い上げ、指揮棒を一本、右手に握っていた。
緊張は、しなかった。
ただ、母の手の形をヴァイオリンで覚えていた時のことを思い出していた。
「時間です」
王室楽団の副指揮が、静かに声をかけた。
エルーダは頷いた。
袖口の内側に、小さな紙切れが縫い付けてある。
母の字で書かれた、あの四小節だった。
最期の病室で、封筒に入れて、母が残したもの。
封筒そのものは大切に手稿帳に挟んであるけれど、中の一枚だけをエルーダは昨夜、糸で袖口に縫いつけた。
お母さん、今夜、一緒に指揮台に上がります。
そう言って、針を動かしたのだった。
エルーダは舞台に出た。
拍手はなかった。
プログラムに名前のない指揮者だったからだ。
誰も、彼女が誰なのか知らない。
大聖堂の天井が高かった。
祭壇の上で、蝋燭が何百と揺れていた。
観客席の六百の顔が、すべて自分に向いている。
けれど、エルーダは怖くなかった。
楽団の椅子に座る七十名は、三ヶ月の練習で、この曲の内側まで入り込んでくれた人たちだった。
弦の首席が、そっと頷いてきた。
木管の主席が、微笑んだ。
金管の首席が、楽器を構え直した。
(皆さん、ありがとう)
エルーダは声に出さずにそう言った。
指揮台に上がった。
楽団に目礼した。
七十の視線が、静かにエルーダに揃った。
彼らは、三ヶ月の練習で、この曲を誰が書いたかを知っていた。
指揮棒を上げた。
一度、小さく息を吸う。
袖口の母の四小節が、脈に馴染んでいた。
第一音が、空気を切った。
※
ラディアン・ヴェスティールは、観客席の中央、三列目に座っていた。
正装の夜会服。胸には「王都の寵児」と呼ばれる作曲家として、王家から賜った銀の星章。
隣には、新しく連れてきた若い伯爵令嬢。
ラディアンは、プログラムを開いていた。
作曲者欄の「無名」の文字を、鼻で笑っていた。
「無名が即位式を任されるなんて、王室楽団もずいぶん落ちたものだ」
隣の令嬢が扇の陰でくすくす笑った。
曲が始まった。
最初の四小節。
弦楽器の、低く、静かな主題。
ラディアンの顔が、止まった。
(……この、旋律)
覚えがあった。
四年前、妻が一枚だけ書いて、彼に見せた楽譜の断片。
彼は「こんな陰気な主題は売れない」と言って、丸めて捨てた。
(あれを、誰が)
続いた第二主題。
管楽器が加わった。
この展開の仕方。
この、旋律の折り返し方。
ラディアンの額に、汗が滲んだ。
(──あいつの書き方だ)
三年間、自分の名で発表してきた曲の、全ての手癖がそこにあった。
いや、違う。
それ以上に洗練された、完成された形になっていた。
彼が三年間、妻から受け取って、自分の名で売り飛ばしてきたもの。
その全てが、今、目の前で一つの曲として完成していた。
ラディアンは指揮台を見た。
黒いドレスの後ろ姿。
結い上げた黒髪。
(──エルーダ?)
ラディアンは息ができなくなった。
※
演奏は三十分続いた。
第一楽章。
静かな弦の主題から、木管が夜明けの雲の色を加えていく。
第二楽章。
金管が朝日を告げる。けれど、その朝日の背後に、まだ暗い影がある。
第三楽章。
全ての楽器が織り重なり、夜明けが完成する。
そして、最後の楽章。
一度、全ての音が静かに引いていく。
残されたのは、母が書いた最初の四小節だった。
弦楽器が、ただその四小節だけを、最初の調のまま、もう一度奏でた。
続きは、書かれていなかった。
続きは、聴く人の胸の中で、鳴るようになっていた。
最後の和音が、大聖堂の天井を震わせた。
一拍の静寂。
そして、拍手が割れた。
立ち上がる観客が出た。
国王が立ち上がった。
王妃も続いた。
全ての観客が、立ち上がった。
大使たちが拍手をし続けた。
女性たちが、こっそりと目頭を押さえていた。
ラディアン・ヴェスティールは、立てなかった。
隣の令嬢が、困ったように彼の袖を引いていた。
「ラディアン様、皆様、お立ちになっていますわ」
ラディアンは答えなかった。
両手で顔を覆い、座ったままだった。
三年間、自分の名で売ってきた曲のすべての源が、今、目の前にいた。
自分は、ずっと彼女の影で生きていた。
その事実が、拍手の音と一緒に胸の奥に落ちていった。
──自分が妻を「地味だ」と笑っていた頃、妻はとっくに、この国の一番高い場所で鳴る音を書いていた。
それに気づいたのが、三年、遅かった。
ラディアンは顔を上げられなかった。
※
楽屋の廊下は静かだった。
エルーダは指揮棒を楽屋に置き、控えの部屋を出た。
通路の向こうから、ラディアンが走ってきた。
正装を乱し、銀の星章が歪んで胸に揺れていた。
「エルーダ」
ラディアンはエルーダの腕を取ろうとした。
「待ってくれ。話がある」
エルーダは止まった。
腕は取らせなかった。
ただ、振り向きもしなかった。
「離縁、成立したのよね」
エルーダは前を向いたまま言った。
「ああ、だが──」
「でしたら、話すことは何もありません」
エルーダは歩き出した。
ラディアンは追ってこなかった。
廊下の角、オリヴァン・フェインが立っていた。
王室楽長の正装。襟元の刺繍が、祭壇の光を細く反射していた。
オリヴァンはエルーダに何も言わなかった。
ただ、袖口でそっと、目頭を押さえていた。
エルーダも何も言わなかった。
二人は並んで、楽屋の奥へ歩いた。
廊下の途中、人の影がもう一つ動いた。
アリエラだった。
観客席の一番後ろから、ここまで走ってきたらしい。
息を切らしていた。
「あの封書、開けて」
アリエラはエルーダの手首を軽く掴んだ。
「今、開けて」
エルーダは頷いた。
けれど、その場では開けなかった。
「家に帰ってから、開けます」
「分かった」
アリエラは笑った。
「あなたの音、聴こえたわ」
「ありがとうございます」
エルーダは初めて、少しだけ微笑み返した。
アリエラは軽く肩をすくめ、踵を返した。
廊下の向こうで、ラディアンがまだ壁にもたれて立っていた。
アリエラは彼の前を、目も合わせずに通り過ぎた。
「アリエラ」
ラディアンが縋るように呼んだ。
アリエラは足を止めなかった。
「もう、知らない人の名前だわ」
それだけ答えて、彼女は歩き去った。
※
その夜、国王から正式な謁見の申し出があった。
翌朝、エルーダは王宮の応接の間に通された。
国王は一枚の勅書を差し出した。
『音楽芸術の功労者として、王室専属作曲家の職位を授ける』
オリヴァンが隣で頷いていた。
エルーダは勅書を受け取った。
両手で受けた重さは、三年間書いてきた譜面の束と、同じ重さに感じた。
国王はエルーダに言った。
「あなたの母君も、この国の音を長く支えてくれた。娘であるあなたが、それを継いでくれることを、王家として誇りに思う」
エルーダは深く一礼した。
「母に代わって、お礼を申し上げます」
短く、それだけ答えた。
王宮を出る時、オリヴァンが廊下で待っていた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
二人は、それ以上、話さなかった。
長い廊下を、並んで歩いた。
第五章 もう一通の手紙
式典から三日が過ぎた。
下宿屋の二階、東向きの部屋。
エルーダは朝の茶を淹れて、机の前に座った。
机の上には、二通の封書が置かれていた。
一通目は白い封筒。
ヴェスティール侯爵家の紋章。
離縁成立の公的書類だった。
エルーダは封を切り、中身を確認した。
正式に受理された離縁届。財産の分配記録。もう何の関係もないという事実だけが、淡々と文字で残っていた。
エルーダは書類を二つに折り、机の引き出しに仕舞った。
もう読み返すつもりはなかった。
二通目は、重い封書だった。
アリエラが渡してきた、赤い封蝋のあれではない。
もっと大きな、厚い封筒。
封蝋は深い青。
見たことのない紋章が押されていた。
鷲の翼と、五線譜。
封書の差出人の欄には、知らない地名。
──アスタリア王国、王都オルフェス、宮廷楽団付。
アスタリアは、この国の東の隣国だった。
音楽の都と呼ばれる国。
エルーダは封を切った。
便箋は一枚だけ。
上質な羊皮紙に、滑らかな筆跡でこう書いてあった。
※
エルーダ・ノアトリス様へ
君の交響曲を聴いた。
大使を通じて、式典の録音譜面を取り寄せた。
あの第一主題は、私の姉エセリネが書きかけていた四小節だ。
十年前、私が国を出る時、姉の書簡帳の中に同じ四小節が残っていた。
あの続きを、誰が書くのか、私はずっと見ていた。
姉の娘である君が、あれを完成させた。
それも、三十分の管弦に。
我が国の宮廷楽団に、君を招きたい。
迎えの馬車は、来月の新月の夜、王都の東門に。
──エルサンド・ノアトリス
※
エルーダは便箋を机の上に置いた。
静かに、両手を膝に置いた。
窓の外、下町の朝が始まっている。
パン屋の竈の匂い。荷車の音。子供が駆けていく声。
(叔父様が、生きている)
エルーダは母の書簡帳を開いた。
母の書いた日記の最後のページ。
そこに、小さく一行だけ書かれていた。
『エルサンドへ。私の娘のことをお願いします』
母は、知っていた。
弟が国を出たあとも、どこかで生きていることを。
そして、いつか娘が自分の音で自分の名前で、そこにたどり着くことを。
エルーダは便箋を胸に当てた。
机の抽斗を開けた。
奥に、アリエラから渡された赤い封蝋の封書が入っていた。
こちらも、そろそろ開ける時だった。
──ラディアンが編曲依頼を回していた頂点。鷲と五線譜の紋章。
それは、アスタリア王国の宮廷楽団の紋章と似ているようでいて違った。
細部がわずかに違う。
(叔父様の名前じゃない)
もう一人、誰かがいる。
ラディアンを動かしていた別の人物。
アスタリアに繋がる何かを持っている別の誰か。
エルーダは赤い封書をそっと開けた。
中を見た。
息を呑んだ。
そこに書かれていた名前は、エルーダが王室楽団の帳簿でも、母の手稿でも、一度も見たことのない名前だった。
けれど、紋章の下に添えられた署名は、見たことがない。
(……お母さん、この人のこと、書いてなかった)
エルーダは両方の封書を机の上に並べた。
青い封蝋と、赤い封蝋。
アスタリアの叔父と、もう一人の何者か。
二つの扉が、同時に開こうとしていた。
その夜、エルーダは新しい五線譜を一枚、机に広げた。
右下の隅に自分の名前を書いた。
エルーダ・ノアトリス。
それから、部屋の壁にかけておいた地図を外し、机に広げた。
アスタリア王国までの街道。
エルーダは指先で、街道をなぞった。
窓の外、下宿屋の屋根の向こうに細い三日月が昇っていた。
来月の新月まで、あと十八日。
エルーダはヴァイオリンケースを膝の上に引き寄せた。
母の形見の弓を取り出した。
弦に、軽く弓を当てる。
一つだけ、音を鳴らした。
澄んだ、長い、一音。
私の音は、まだ、終わらない。
了
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