幕間-回想「灼熱の暴君」
孤児院の縁側は、今日も穏やかな陽だまりに包まれていた。
僕――今はピンクのフリルドレスに身を包んだマンチカンのルウは、隣で置物のように固まっているチワワのティルに、ふと念話テレパシーを送った。
「にゃあ……(ティル、聞こえるかい。昨日の今日で、僕も君も散々な姿だけど……少し、昔話をしようか)」
ティルはルンさんに「瞬き禁止」の絶対服従訓練を命じられているため、眼球だけを僅かに動かした。その目は「殺せ、いっそ殺してくれ」と雄弁に語っていたが、僕は構わずに続けた。
「にゃあ(君と出会うもっと前、僕がまだ16歳だった頃の話だ。僕たちはアイリス姉さんを『ただの守るべき一般人』だと思い込んでいた。……あの怪物に出会うまではね)」
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あれは、今から4年前のことだ。
「ガロ、情報屋から連絡は取れたか?」
「ああ、あのデカすぎるアジトだ。あいつはかなりヤバすぎる化け物らしいぞ。444人リスト入り確実の化け物だ」
南の大陸の地下深くに築かれた、迷宮のような巨大アジト。そこは人身売買と魔薬取引で私腹を肥やす暗黒街の心臓部だった。
僕たちは正面突破を目指す。先にアジトの正門を蹴破ったのはガロだった。
「テメェら、この世とお別れの時間だ。……最悪の目覚ましを聴かせてやるよ!」
隣でガロが吠えた。彼は養鶏家として鶏を愛でる今の姿からは想像もつかないほど、血気に逸っていた。
ガロが大きく息を吸い込み、その喉を「楽器」へと変える。
「コケコッコーーーーーー!!!」
それは鶏の鳴き声などという風雅なものではない。空間を物理的に削り取る超高周波の音塊だ。アジトの鉄門は一瞬でひしゃげ、警備に当たっていた数百人の私兵たちは、悲鳴を上げる暇もなく耳から血を流して崩れ落ちた。三半規管を破壊され、脳を直接焼かれたのだ。
「行くよ、ガロ」
僕の一人称が「僕」から「俺」へと切り替わる。
背中の『双極・白狼剣』を抜く必要すらない。俺は時速400kmの神速で、ガロの音波を逃れた残党の群れに突っ込んだ。
視認は不可能。敵が「銀色の風が吹いた」と感じた瞬間、その視界は上下反転し、首が地面に転がっている。俺の通った後には、文字通り草一本残らない。歴史から抹殺すべき「害悪」の掃除だ。
アジトの最深部。そこには、444人リストにその名を刻む異形の怪物が待ち構えていた。
周囲には、彼が殺したであろう数多の勇者や魔族の首が飾られている。
「来たか、白爪ホワイトクローのハエどもォ。魔王を74人も葬った俺はもう敵なしなんだよォ!!」
その男の名は、灼熱のザルガス。
全身が溶岩のような魔力に包まれ、彼が立っているだけで周囲の石床がドロドロに溶け出していく。熱気だけで肺が焼けるような錯覚に陥る。
「そんな御託はどうでもいい。俺たちはお前を粛正しに来ただけだ」
俺は冷徹に言い放った。魔力吸収を発動させ、彼が放つ熱源を逆に自身の身体強化へと変換する。だが、ザルガスの力は常軌を逸していた。彼が拳を振るうたびに小規模な火山噴火が起き、アジト全体が激しく揺動する。
「死ねェ! 終焉を告げるのは俺の炎だァ!」
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戦いは数時間に及んだ。
ガロは連戦の疲労で奥に下がり、俺とザルガスのタイマンへと突入していた。
俺の『狼王の眼』が、コンマ5秒先の未来を確定事項として映し出す。しかし、奴の炎は範囲が広すぎて、回避しても皮膚が焼けるのを防げない。
「ハァ……ハァ……。しぶといな、ガキが!」
「……俺の命は、ここでは終わらない」
俺は影移動を限界まで連続発動させ、ザルガスの全方位から同時に32発の刺突を繰り出した。
「死の宣告――確定」
ザルガスの胸元に浮かび上がった赤い「死の点」を、俺の白狼剣が貫いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ザルガスの巨大な魔力が内側から崩壊し、爆散した。
「俺も……ここまでか……。魔王以上の……魔王に……会うとは……」
ザルガスはそう言い残し、自らの炎に焼かれて灰となった。
俺はその場に膝を突いた。白銀の服はボロボロになり、全身から血が噴き出している。
「リーダー、出血量が多すぎる! すぐに応急処置を!」
駆け寄ってきたガロの叫びが、遠のく意識の中で響いていた。
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「――ということがあったんだ」
回想を終え、僕は縁側で小さく溜息をついた。ティルの目はまだ固まっているが、少しだけ「信じられない」という色が混じった気がする。
「にゃあ(あのザルガスは、間違いなく当時の僕が知る最強の『悪』だった。魔王を74人も殺すようなバケモノが、僕の全力を引き出したんだ。……でもね、ティル。今の僕には分かる)」
僕は、背後から近づいてくる柔らかな足音に耳を澄ませた。
「にゃあ(あの灼熱のザルガスでさえ、アイリス姉さんが本気で怒った時の足元にも及ばない。奴の炎は肉体を焼くだけだが、姉さんの怒りは『存在の格』そのものを消滅させる)」
「あら、ルウくん。何をお話しているのかしら?」
アイリス姉さんが、ニコニコと、それはもう聖母のような微笑みを浮かべて、僕を抱き上げた。
ピンクのフリルドレスがカサリと音を立てる。
「にゃ、にゃあ……(……なんでもないよ、姉さん)」
僕は甘えるように彼女の胸に顔を埋めた。
かつて3万人以上の命を奪い、死神と恐れられた僕が、今は彼女の「おやつをねだる猫」として生きている。
「あのね、ルウくん。ルウくんがさっき思い出していたような『怖いおじさん』の話……私、あんまり好きじゃないわ」
アイリス姉さんが、僕の喉元を優しく、それでいて逃げ場を封じるような完璧な手捌きで撫でる。
「悪いことをする人にはね、お説教が必要なの。でも、ルウくんが傷ついてまで戦う必要はないのよ? だって、もしそんな怖い人がいたら……」
アイリス姉さんの瞳が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、水色から不穏な光を放ったような気がした。
「私が、『丁寧にお話』してあげるもの。……そうでしょう?」
僕は背筋に電流が走るような恐怖を覚え、全身の毛を逆立てながらも、「にゃあ(その通りだね)」と鳴くしかなかった。
魔王を74人殺したザルガスも、世界を震撼させた僕やティルも。
この「虹の女神」の微笑みの前では、ただの行儀の悪い子供に過ぎないのだ。
「さあ、おやつの時間よ。ティルちゃんも、瞬きが終わったら一緒に食べましょうね」
アイリス姉さんの慈愛に満ちた声が、孤児院に響く。
僕は確信した。
最強の暗殺者としての「俺」よりも、イチゴのドレスを着た猫としての「僕」の方が、もしかしたらこの世で最も「安全」で、そして最も「恐ろしい場所」にいるのだと。
「にゃあ(……ティル、強く生きようね)」
ティルは、まだ瞬き一つせずに、虚空を見つめて震えていた。




