終焉-1.静寂に響く断罪の予兆
俺たちが山頂で死のダンスを踊り続けていた頃、麓の街では、世界の終わりを告げる「真の死神」が目を覚ましていた。
「……アイリス、聞いたかしら? 私たちが愛した山に、不吉な『赤雷』と『白銀の閃光』が見えたという目撃情報があるわ」
ルンさんが、冷徹な所作でティーカップをソーサーに置いた。その微かな硬質な音が、まるで処刑台の鐘のように街の空気を震わせる。
「ええ、ルン。……おかしいわね。ルウくんは今頃、街から離れた病院で静かに寝ているはずなのに。……もし、彼が私に『嘘』をついて、こっそり遊びに行っていたとしたら、どうしましょう?」
アイリス姉さんがふわりと微笑む。だが、その微笑みの裏側から、どろりとした漆黒の魔圧が立ち昇り、テラスに咲いていた花々が、その怒りに触れて一瞬で黒く枯れ果てた。
「ええ、私のティルも。……しつけが必要なのは、犬ではなく『付き添いのフォコ』だったかしら。あるいは、その『場所』ごと、更地にする必要があるかもしれませんわね」
二人の飼い主が、静かに立ち上がった。
彼女たちが一歩踏み出すごとに、周囲の気温が数度下がり、鳥たちは囀りを止め、虫たちは地中深くへと逃げ惑う。伝説の二人ですら到達できない「断罪」の化身たちが、ゆっくりと、しかし確実な歩みで、裏切り者たちの元へと近づいていた。
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再び、山に夜が訪れた。薬を飲んで人間に戻ってから、すでに四十時間が経過。
俺の意識はすでに、極限を超えて「無」の領域にいた。
「……はぁ、はぁ……。薬の……期限まで、あと少し……か」
荒い呼吸を整えることすらままならない。肺が焼けるように熱く、酸素を取り込むたびに心臓が壊れた鐘のように激しく鳴り響く。
「ケッ……。三日も……保たねえ……かもな……。心臓が……止まる方が、先だぜ……」
対峙するティルも、岩に背を預けながら、肩で息をしていた。奴の全身は返り血と泥にまみれ、誇り高き「轟く赤雷」の影はどこにもない。だが、その瞳だけは、依然として獣のような鋭い光を失っていなかった。
四十時間。それは、互いの「本質」を剥ぎ取るための時間だった。便利屋の顔も、解体屋の顔も、アイリス姉さんの前で見せる「ルウくん」の仮面も、全てはこの激闘の熱の中に溶けて消えた。
俺の右手に握られているのは、もはや武器としての体をなしていない『鉄の棒』だった。
伝説の鋼で打たれた『白狼剣』は、ティルの放った「解体秘技」の岩石と打ち合い続けた結果、刃こぼれが目立ち、ついには中ほどから無惨に折れ曲がっている。
「……こいつも、限界か」
俺は折れた剣先を地面に投げ捨てた。
ティルの『大虎徹』もまた、俺の神速の振動を幾千回と受け止めた代償として、刀身全体に蜘蛛の巣のような亀裂が入っていた。奴が一度振るうたびに、破片が火花のように散っていく。
暗器は底を突き、魔力も枯渇した。
残されたのは、ボロボロになった二人の肉体と、互いを叩き潰したいという、原始的で純粋な「意地」だけだった。
「……武器はもう、ゴミクズだ。俺たちの伝説と一緒に、瓦礫の下にでも埋めておくんだな」
俺は折れた剣の柄を地面に深く突き刺し、代わりにゆっくりと、震える拳を固めた。
暗殺術。剣技。そんな洗練された言葉はこの場にふさわしくない。
「こうなったら……最後は泥臭い殴り合いといこうぜ、ティル。暗殺だの解体だの、小難しい理屈は全部抜きだ」
ティルは一瞬だけ、虚を突かれたように目を見開いた。
そして、腹の底から絞り出すような、喉を鳴らす笑い声を上げた。
「ハッ……! 444人リスト筆頭の暗殺者が、誇り高い『剣』を捨てて、ただの『殴り合い』だと? ……いいぜ、上等だ……! その小綺麗な面、俺のこの拳で、二度とアイリスに甘えられねえほど原形なくぶっ叩いてやる!」
ティルもまた、ボロボロの大太刀を放り投げ、血塗れの拳を突き出した。
俺も一歩、また一歩と、地を這うような足取りで奴に近づく。
静寂に包まれた山頂。
魔力の衝突音も、剣の鳴く音も、もう聞こえない。
聞こえるのは、二人の戦士の重い足音と、激しく刻まれる鼓動だけ。
俺は拳を深く引き、残された全生命力をその右拳に集約させた。
「行くぞ……ティル!!」
俺たちは同時に、互いの顔面に向けて、最後の一撃を放った。
――だが、その背後に、山を登ってくる「極寒の殺気」が迫っていることに。
俺たちは、まだ気づいていなかった。
俺とティルは、残された全生命力を足の筋肉に叩き込み、爆発的な踏み込みで地面を蹴った。
ドゴォォッ!!
鈍い、肉と骨が潰れ合う衝撃音が夜の山に響き渡る。
ティルの丸太のような右拳が俺の左頬を捉え、同時に俺の鋭い左フックがティルの頑丈な顎を真っ向から跳ね上げた。
(――重い! 腕の一本くらい、簡単に持っていかれそうな重圧だ!)
脳を直接揺らされる衝撃。今ので宙に軽く吹っ飛んでいる。視界が一瞬ホワイトアウトし、平衡感覚が失われかける。ティルの拳は、ただの打撃ではない。それは「解体屋」として培われた、巨大な構造物を一撃で粉砕する破壊の質量の塊だ。
だが、空中にいる俺は受け取った拳のダメージを体術で分散させようと回転する。
「ティル、お前も受け取れ......!」
俺もティルに神速の右ジャブを繰り出す。
一方で、ティルもまた、俺の拳を受けてその瞳を驚愕に見開いていた。
(……こいつの拳、小さいわりに、針で一点を貫くような衝撃が内臓まで届きやがる! どんな鍛え方してやがんだ!)
「最悪の終焉」と「轟く赤雷」。
伝説の名も、暗殺者の誇りも、解体屋の意地も、全ては脱ぎ捨てた。
今、この場所には、ただ互いの存在を否定し、肯定するために拳を交換し続ける二人の男がいるだけだった。
「……まだだ、まだ終わらねえぞ、便利屋……ッ!」
意識が遠のき、立っているのが不思議なほどの疲労が全身を支配している。だが、膝が砕けそうになっても、魂の根幹にある「狼」の誇りが、膝を突くことを許さない。
(クソ……生身の拳でこれか。こいつが万全の状態なら、最初の一撃で3km先まで吹っ飛ばされて、今頃は原形を留めない肉塊になってるぞ……!)
俺は痺れる右腕を、執念だけで無理やり動かした。指の骨が折れていようが構わない。鋼のようなティルの脇腹に拳を叩き込む。ティルもまた、俺の精密機械のような打撃に「内臓がひっくり返る」感覚を味わいながら、夜空を裂くような猛獣の咆哮を上げた。
その時、山の参道の入り口で、異様な「気配」が爆発した。
山頂の激闘に精神を研ぎ澄ませていたリリオとフォコが、同時に顔を見合わせ、震える手で武器を構えた。彼らには本能で分かっていた。自分たちの主を絶対的に支配する「あの女性たち」が、ついにこの領域に足を踏み入れたことを。
「……来たか」
フォコが冷や汗を拭い、大斧を握りしめる。
「ここから先は、男たちの神聖な決闘の場だ。……たとえ主たちの飼い主であろうと、愛すべき隣人であろうと、ここから先へは一歩も通さん!」
リリオもまた、隠し持っていた毒針を展開し、氷のような決意を瞳に宿した。
『白爪』と『焔牙騎士』。かつて幾度となく殺し合った二つの組織の精鋭が、今この瞬間、二人のリーダーを守るための「盾」として並び立った。
しかし。
森の奥、深い霧の中から現れた「それ」を前にした瞬間、護衛たちの覚悟は、夏の日の雪細工のように儚く砕け散った。
「邪魔、ですって?」
優雅なワンピースの裾を汚れ一つ付けずに歩くアイリス姉さん。その背後には、深紅の輝きを放つ「レッド・アイ」が、この世の終わりのような禍々しさで浮かび上がっている。
「私の大切なルウくんを、こんな野蛮な遊びに連れ出したのは、あなたたちかしら?」
「ひ、っ……あ、アイリス様、これは……」
隣ではルンさんが、冷徹に手帳を開いていた。その眼鏡の奥の瞳は、絶対零度よりも冷たく、彼らの「存在の価値」すら否定している。
「フォコ、およびリリオ。公務執行妨害、ならびに管理対象動物の不法連れ出し幇助。……判決を待つ必要すらありませんね。極刑……あるいは、それ以上の『更生』が必要です」
二人から放たれる圧倒的な「圧」。
それは魔力という次元を超えた、魂の格の差。勇者を瞬殺できるはずの精鋭たちが、指一本動かすことができず、その場に崩れ落ちた。彼らにとって、それは戦闘ですらなく、世界の真理に抗うような「絶対的な絶望」だった。
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一方、山頂では、極限状態の俺とティルが、ついに背後に迫る「絶望」の正体を察知した。
だが、四十時間の激闘、薬の副作用、そしてアドレナリン。理性が完全に焼き切れていた俺たちは、かつての自分なら、あるいは正気なら絶対に口にしないであろう、禁断の叫びを放った。
「アイリス! 邪魔するんじゃねえ! この、お節介焼きの過保護女がぁあああ!!」
俺の口から、アイリス姉さんへの恐怖をかなぐり捨てた、魂の叫びが漏れる。
「そうだ! ルン! 俺の自由を奪うんじゃねえ、この冷血鉄仮面の眼鏡女! お前もぶっとばすぞぉおおお!!」
ティルもまた、生まれてこのかた一度も言えなかった罵倒を、天に向かってぶちまけた。
それは、飼い犬と飼い猫に成り下がった自分たちの、最後の、そして最悪の「反抗期」だった。
「「うおおおおおおお!!!」」
俺たちは、背後に迫る「この世で最も恐ろしい二人の影」から逃げるように、あるいはその圧倒的な恐怖を上書きするように、全魔力と全魂を込めた最後の一拳を、互いに突き出した。
俺の右拳が、ティルの顔面を砕かんばかりに突き進む。
ティルの左拳が、俺の肋骨を粉砕せんばかりに肉薄する。
山が、空が、そして世界が、二人の絶望的な叫びと共に激しく震えた。
その一撃が交差した瞬間、全てが真っ白な閃光に包まれる。
――だが、その光の向こう側で、アイリス姉さんの「レッド・アイ」が、静かに、そして慈愛を込めて微笑んだのを、俺は見逃さなかった。
「……あら、そんな悪い言葉、誰に教わったのかしら? ……お仕置きが必要ね、ルウくん」
世界が、闇に溶けた。




