亡命-1.猛虎への密書
数日後の昼下がり。孤児院の庭には、心地よい風が吹いていた。
僕はアイリス姉さんの目を盗み、庭で手際よく洗濯物を干していた元・『白爪』幹部、リリオに音もなく忍び寄った。
「にゃあ(リリオ、準備はいいか?)」
リリオはシーツをパンと叩く音に紛れさせ、周囲を警戒しながら、唇をほとんど動かさずに応じた。
「ええ、ルウ様。アイリス様には、お隣の街にある『聖フランシスコ動物病院』の予約を取ったと伝えてあります。あそこは腕が良いと評判で、予約が取りにくいことで有名です。わざわざ遠出する理由としては完璧でしょう」
彼女はかつて、香気と毒針で標的を多幸感の中に沈めた暗殺者だ。その偽装工作に抜かりはない。
「アイリス様には、ルウ様が最近少し食欲がない(ということにした)ので、精密検査を受けさせたいと申し出てあります。道中のアリバイ工作も、元仲間のボーンさんたちが協力してくれますわ」
「にゃあ(助かる。あのアジト跡地に、かつての『残滓』が残っているはずだ。それさえあれば……)」
僕の瞳に、マンチカンの可愛らしさとは無縁の、死神の鋭い光が宿った。目的地は病院ではない。失われた肉体を取り戻すための、禁断の会合場所――旧市街の廃工場跡地だ。
僕はリリオの筆を借り、震える右前足に全神経を集中させた。
肉球の感覚に戸惑いながらも、羊皮紙の上に地図と、僕たちにしか分からない暗号を記していく。
「にゃあ……(場所はここ、旧市街の廃工場跡地。時刻は日没。遅れるなよ、駄犬)」
それは人間に戻るため、そしてあの「最強の飼い主」たちに一太刀報いるための、決死の招待状。僕は、リリオが隠し持っていた「伝書鳩」にその手紙を託した。
この鳩は、かつて僕が偵察用に育てた魔獣の生き残りだ。
「(行け。あのチワワの鼻先に届けてこい)」
僕の短い前足から放たれた鳩は、空高く舞い上がり、ティルがいるであろうルンさんの屋敷へと消えていった。
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「じゃあアイリスさん、ルウくんを病院へ連れて行ってくるね」
リリオが、普段通りの優しい保育士の顔でアイリス姉さんに告げる。
アイリス姉さんは僕の頭を優しく撫で、その慈愛に満ちた瞳で僕を見つめた。
「お願いね、リリオ。ルウくん、最近元気がなかったから心配なの。……ルウくん、お注射は怖くないからね? 頑張ったら、帰りに美味しいおやつを買ってあげましょうね」
「にゃ、にゃあ……(……ごめんね、姉さん。でも僕は、マンチカンのまま一生を終えるわけにはいかないんだ……!)」
アイリス姉さんの笑顔が心に刺さる。嘘をつく罪悪感で胸が締め付けられたが、僕はリリオが差し出したキャリーバッグの中に自ら飛び込んだ。
カチャリ、と扉が閉まる音。
それは、偽りの平穏からの決別を告げる合図だった。バッグの網目越しに見える孤児院の景色が遠ざかっていく。待っていろよ、ティル。
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その頃、ルンさんの屋敷の裏口。
そこには、僕の送った鳩を受け取り、牙を剥き出しにして笑う「白い斑点のあるチワワ」の姿があった。
「キャンキャン!(フォコ、例のブツはどうした。ペセがアジトのガレキからかき集めた素材で作った、禁断の薬だ!)」
「へい、親父。ここに」
元・『焔牙騎士』のフォコが、石工の作業着の懐から、小さな瓶を取り出した。中には、禍々しい紫色の液体が揺れている。
「ペセが死に物狂いで調合しましたが、魔力の供給源が絶たれている今、効果は極めて不安定です。人間に戻れるのはおそらく、長くても三日。それを過ぎれば、またその震える小型犬……いえ、失礼、ティル様のお姿に逆戻りです」
「キャン!(三日あれば十分だ。あの眼鏡の女が作った『法の呪縛』を、この拳で叩き壊してやる!)」
ティルは、フォコのジャケットの懐に飛び込んだ。
ルンさんには、「散歩中に逃げ出した犬を追いかけてくる」と偽の報告を済ませてある。ルンさんのことだ、すぐに嘘を見抜くかもしれない。時間は一刻を争う。
「行きましょう、親父。旧市街の廃工場へ。修理屋も、首を長くして待っているはずです」
史上最強の「猫」と「犬」。
二人のリーダーが、失われた尊厳と「俺」という一人称を取り戻すため、ついに飼い主の目を盗んで動き出した。
たとえそれが、三日間の限定的な奇跡だとしても。
闇夜が近づく廃工場で、狼と虎が再び相まみえる。




