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 夜になっていた。

 ルイーズはベッドに座り、じっと雨の音を聞いていた。もう随分と小雨になっている。

 扉の開く音が聞こえ、誰かが入ってきた。


 暗くて姿は見えない。

 足音が近づいてきて、目の前で止まる。

「お嬢様、決行の時間だよ」

 アナベルの声だった。

 僅かな光源で口元の八重歯が光っている。いつもは彼女の可愛さを引き立たせるそれも、暗闇で見ると不気味に浮き上がって見える。


 二人は角灯ランタンを手に廊下へ出て、悲鳴が聞こえた部屋へ繋がる通路を進んだ。

 夜の廊下は、音を全て吸収してしまったのではないかと思うほどに静かだ。正直心細いが、今は後ろからアナベルが付いてきてくれている。彼女の存在がとても心強かった。

 二人は足音を殺して歩きながら、部屋の前までたどり着いた。誰ともすれ違わなかった。そう、深夜なのだから、普通はこの部屋の中にも、誰も居ないはずだ。


 しかしいざ扉を開けようとすると勇気が出ない。あの悲鳴がルイーズの脳裏に焼き付いていた。

 扉を開けた瞬間、どんな恐ろしいものが出てきてもおかしくないという恐怖が、身体を硬直させていた。

 それにもしかしたら、自分たちが勝手に入ろうとしていることが既にバレていて、開けた瞬間怖い顔をしたジュリアンが待っているかも知れない。

 怒られるかも。いや、ひょっとしたら、もっと……。


【彼の秘密を知ってしまったら最後。どこに居ても探知され、必ず追い詰められ、最後には血を吸われて殺してしまう】


 その噂が頭を過る。


「さ、入ろ入ろ」

 ルイーズが躊躇していると、後ろからアナベルが進み出て、さっさと扉を開けてしまった。「あっ」という暇もなく、勿論止めることも出来なかった。


 暗闇が広がっている。そしてルイーズたちの足元に、ひんやりとした空気が漂ってきた。恐る恐る角灯をかざすと、階段が下へ繋がっていた。


 仄暗い石の階段が、誘うように、闇に飲み込まれていた。その一番下に、ランタンの明かりを反射して、ほんのりと赤い扉が浮かんでいた。


 地下室だ。

 ルイーズは息をのんだ。扉を開けた先に何があるかは色々と考えてはいたが、全く予想外のものだった。

 あの場所に一体何があるのだろう。そしてジュリアンは、あの地下室で、何をしていたのだろう。


 足がすくむ。いざ踏み出すとなると、かなり勇気が必要だった。止めておこうかと思うけれど、やはり下に何があるかは気になるし、行かねば、ジュリアンの行動を確かめねば、とも思う。

 彼女はアナベルの言葉を真に受けていた。


 ルイーズは一段づつ、慎重に下りて行った。自分の靴が、カツ、カツ、と一段づつ、音の反響をもって彼女の存在を知らせる。

 すぐ後ろから、アナベルの靴音もついてくる。



 扉の前に辿り着いたとき、ルイーズの角灯を持つ手は汗に濡れていた。激しい運動をしたわけでもないのに、呼吸も少し荒くなっている。

 目の前の赤い扉は鉄製のようだった。近くで見るとかなり圧迫感がある。

「ねえ、開けてみて」


 後ろからアナベルが催促する。

 ルイーズは躊躇した。この扉を開けてしまったら、もう二度と後戻りは出来ないような気がしていたからだ。

「大丈夫。私が付いているんだから、安心して」


 アナベルは後ろからルイーズの肩を揉んだ。そうだ、自分は今一人ではない。二人なら大丈夫。

 ルイーズは自分にそう言い聞かせて、そっと取っ手に手をかけた。

 慎重に、慎重に、押していく。

 鍵は掛かっていないらしく、ルイーズの力でも、徐々に開いていく。



 扉の内側の空気が溢れてくると、むっとする異臭が鼻をついた。

 人の汗とも、獣の匂いとつかない、すえた匂い。それに混じって何かが腐ったような匂いまでする。

 誰も居ないらしく、明かりはついていなかった。けれど入り口から角灯で照らすだけで、その部屋が分厚い石の壁で覆われていることが分かる。


 中央には台状の、テーブルのようなものがあり、その上に何かの器具が置かれている。光の反射の仕方からして、恐らくは金属製の物だ。


 何が置いてあるのだろう。ルイーズは数歩、足を踏み出した。バキッ、と音がした。

 右足が何か硬いものを踏んだようだ。

 足元を照らすと、黒いしみが床に点々と付いている。自分は何を踏んだのだろう。

 ルイーズは右足を後ろに下げてみた。


 その瞬間、全身の血液が冷めていくような恐怖を覚えた。


 彼女の足元にあったのは、骨だ。どこの骨かは分からないが、よく見れば周囲にも幾つか散らばっている。

 黒いしみは血なのだと思い至る。


 ここを出なければ。ルイーズが入り口に意識を向けた瞬間、扉が外からばたんと閉まった。

「アナベル?」

 返事は無い。部屋の中にも彼女の姿は無い。

 意識が遠のくのを感じた。恐らく、扉を閉めたのは彼女だ。


「うぅ……」



 台の向こうで誰かが呻く声が聞こえた。

 ルイーズは動くことも出来ず、その場で声の方を見ていた。

 バチン、と音がした。

 テーブルのふちをゴツゴツした手が掴んだのだ。

 思わず後ずさりをした。

 その最中にも反対の手が掛けれられ、ぬぅっと男の顔が出現した。


 暗くてよく見えないが、頭から大量に血を流している。

 ルイーズの混乱した脳内で、ある図式が出来上がりつつあった。


 ジュリアンはこの地下室で人の血を吸い、その死体を始末している。そして、今目の前に居る人は、死にきれなかった人。

 そして自分はアナベルに見捨てられた。


 角灯で照らされた彼は、まるでゾンビのように、ゆっくり、呻きながらこちらに向かってきた。

「い、いや……!」


 ルイーズは既に背中を扉に預けていた。しかし全体重をかけても全く動く気配が無い。


 涙が溢れてくる。目を閉じれば優しいジュリアンの顔が思い浮かぶ。食事を作ってくれて、手を取り祈りを捧げてくれて、宝物のように大切に扱ってくれる。


 やはりあの彼が、残酷なことをするとは信じられなかった。アナベルだって人を裏切るような子ではない。目の前の男性だって……。これは何かの間違いに違いない。

 この期に及んでルイーズは人を信じることを止められなかった。どこまでも彼女は人の善意を信じた。


 ルイーズは目を開けた。

 状況は変わっていない。男は少しづつ近付いてきている。


 涙を拭うと、ルイーズは笑顔になった。服が血で汚れることも全く厭わず、近付いてくる男を抱き締めた。

 事情は分からない。けれど、目の前の人物が苦しんでいることは分かる。彼のことを少しでも助けたいと思った。


「辛かった、ですよね。もう大丈夫です。今から助けを呼んで、治療薬を持ってきて貰いますから」


 男が動きを止めた。


「えっ、ルイーズ様?」


 少しの間が開いた後、その男は高い声で言った。

 どこかで聞き覚えのある声だった。恐る恐る身体を離し、角灯で照らして確認すると、顔にも見覚えもある。


「もしかして、執事長、さん?」

 相手もルイーズを完全に認めたらしく、洗練された所作で頭を下げた。さっきまでゾンビめいた行動をしていたとは全く思えない。


「左様です。執事長のニコラスでございます」

「執事長さんがどうしてここに? 何で血を流して、あんな歩き方を?」


 ニコラスは複雑な表情になった。

「それはですね、ちょっとインパクトの強いものを口にしてしまって……いや、これ以上は旦那様の許可を得ず喋るわけには……」


 ニコラスはごにょごにょと口ごもる。


「ルイーズ?」

 扉の方から再び聞き覚えのある声。振り返って泣きそうになった。開いた扉から、ジュリアンが姿を見せていたからだ。

「お前、ここに入ってはならないと……大丈夫か!?」


 付着したニコラスの血を、ジュリアンはルイーズのものだと勘違いしたらしい。まさに飛んで来た。

「どこを怪我した! 何があったんだ!」


 ルイーズの様子を間近で見て、無事だと分かるや否や、ジュリアンは「はああ」と体中の空気を全て放出するかのように、息を吐いて安堵した。

「これは執事長さんの血なので、私より執事長さんの手当てを……」

「ああ、ニコラスなら大丈夫だ。死なん死なん」

「だ、旦那様!? この先代公爵様の代から忠誠を尽くしている私にその言い方は無いのでは??」



 ニコラスが先ほどより更に高い声で抗議した。

「そもそも、よく見たらお前に付いているそれは血ではないだろう」

 呆れたように言う。

 確かに、焦りと暗さでよく分からなかったが、冷静に観察すれば、ニコラスの身体に付着しているものは、血の色にしては明るすぎる。


 ルイーズは自分の服に付着したそれの匂いを嗅いでみた。

「あっ」

 一嗅ぎしてピンときた。

「これトマトですね」

 ニコラスは「ご名答」と親指を立てる。

「で、ニコラス。お前はここで何をしていたんだ」

「いつものことです。この状況を見ればお判りでしょう」

「なら、アレか」

「アレです」

「えっと……」



 ルイーズは状況が呑み込めず、二人の顔を交互に見ながら声をかけた。

「結局、ここは何をする場所なんでしょうか」

「料理よ」


 再びドアの方から声がした。見るとアナベルが部屋に入ってくるところだった。

「アナベル!」


 ルイーズはアナベルに駆け寄った。しかし、何と声をかけるべきなのか、言葉が見つからない。アナベルは最初きょとんとしていたが、敏感に彼女の変化を察したらしい。目を大きく見開いた。


「もしかして、私の居ない間に大変なことになってた?! ごめんねお嬢様! 身体は平気?」


 アナベルはルイーズの身体を上から触っていく。何だか恥ずかしくなってしまう。


「大丈夫だから心配しないで。でも、どうして部屋を出て行ったの?」


 アナベルは両手を合わせ、拝むような姿勢になった。


「ごめん、脅かそうとしたつもりは無くて……旦那様が居ると思ってここにお嬢様を誘ったんだけど、居なかったから呼びに行ってたの」


 どうやら彼女がルイーズを閉じ込めようとした意図は全く無かったようだ。アナベルの説明によれば、ここの扉は入る時は押して開くが、出る時は引かないと開かない作りになっているらしい。加えて、一度開けると自動で閉じるよう動く。

 だからルイーズが閉じ込められたと錯覚したし、扉に全体重をかけても一向に開かなかったというわけだ。


「良かった……」


 今度はルイーズがホッとする番だった。アナベルは自分を裏切ったわけではなかった。ジュリアンも悪事に手を染めていたわけではない。彼は執事長と共に、ただ料理をしていただけだ。


 料理?


 その単語を思い出して新たな疑問が湧く。

「どうしてジュリアン様はこんなところで料理をしていたのですか?」


「そ、それは……」

 ジュリアンは頬をかいた。急に歯切れ悪くなっている。

「それはルイーズ様、あなたのためだったのです」

 ニコラスが前に進み出た。

「そうそう、お嬢様を助けるためには、料理が必要だったんだよね」

 アナベルも頷く

「私の、ため?」


 観念したかのように、ジュリアンは一度大きくため息をついた。


「先ずは昔の話から始めないといけない。ルイーズ、君は昔、俺と会っているんだ」



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