5.勇者は聞き耳を立てる。
俺は自室に戻った。夕食を食べて歯を磨いて寝る準備を済ませると、クリステルさんが「おやすみなさいませ」と微笑んで部屋を出ていった。
扉が閉まった瞬間、部屋の中はしんと静まり返る。石造りの壁に囲まれた部屋は広いけれど、人気がなくなると妙に広すぎる気がして落ち着かない。
「はぁ……今日の俺、ダメダメだったなぁ」
ため息が石床に響く。グロリアさんのありがたい言葉を聞き逃すとか、誰だよそんな間抜けな奴。……うん、俺だ。ほんと馬鹿。
でも、だからこそ今日から挽回するんだ!
机の上にどんっ、と置かれた分厚い本を開いた。『ヴィイスハイト魔法事典』。分厚い革表紙に金の箔押しで、めちゃくちゃ高そうな本。初心者から上級者まで使える魔法がぎっしり載ってる優れものだ。
普段は寝る前にちょっと読むだけだったけど、今日からは違う。読むだけじゃなく、実際に試すんだ!
「【そよ風】、【雫】、【礫】、【種火】……よし!」
俺が今試しているのは「下級魔法」と呼ばれるもの。自身に宿る魔力だけで起こせるもので、詠唱は無くても問題ない。主に生活で役立てられるような威力のものばかり。頑張れば戦闘にも役立てられるけれど、それなら「中級魔法」以上を使った方が良い。
「中級魔法」や「上級魔法」と呼ばれるものは、自分の魔力だけでは起こせない。身の回りにいる『精霊』に力を貸してもらい、初めて起こせる魔法。それには意思疎通の為に詠唱が必要になる。「究極魔法」まで行くと逆に必要無くなるらしいけれど、そんな魔法は伝説上にしか存在しないんだそう。
下級魔法である窓辺のカーテンを揺らす程度の【そよ風】は、まあまあ上手くいった。指先から水滴が落ちる【雫】も成功。机の上にコロコロ転がった小石……【礫】も、ちゃんと出せた。
「ふふんっ、なかなかいい調子じゃないか?」
誰もいないのをいいことに、一人でドヤ顔する。
問題は中級魔法だ。俺はまだ『精霊』を感じられなくて、そこから先に進めない。
でも、挑戦しないと進歩もしないしな。
よし、水の精霊、来い!
「我が祈るは清らかな流れ、この手に集いたまえ……【泉】」
……シーンと、沈黙がこの場を支配した。
「……うん、知ってた」
何も起きない。下級魔法が上手く出来てちょっと期待してた分、がっくりきて椅子の背もたれへと体重を乗せる。天井の梁を見上げると、シャンデリアの蝋燭がゆらゆら揺れて、なんだか俺をあざ笑ってるみたいだった。
その後も火だの風だの試したけど、やっぱり中級以上は全滅だ。
「……疲れたー」
机に突っ伏すと、蝋燭の炎がパチパチと小さな音を立て、部屋の壁に俺の影を揺らした。
ふと時計を見ると、二時間も経っていた。
「やば、集中しすぎた……」
グーッと背伸びをして、ぐるぐる肩を回す。よし、気分転換だ!
重い扉を開けると、ひんやりとした夜風がすっと頬を撫でた。室内の籠った空気とは違って、月の光を含んだ澄んだ冷気で、思わず深呼吸する。
うん、空気が美味しい。
廊下は高い天井と白い大理石の柱が並び、月明かりがステンドグラスから差し込んで、床に赤や青の薄い影を落としていた。しんと静まり返っているのに、蝋燭の灯りだけが壁に小さな明滅を作り出す。……夜の大聖堂って、少しホラーが入ってるな……。
でも、不思議と胸が高鳴った。誰もいない広大な空間を歩くのは、まるで冒険みたいだ。段々と、俺の心の内に眠っていた少年心が疼き出す。
庭園までは……何か出てきそうだし、やめとくか。でも、このまま戻るのはもったいない!
手燭を掲げて廊下を進む。コツ、コツ、と足音が石床に響くたび、わけもなくワクワクする。俺、今めっちゃ探検してる!いつも目に入っているはずの周囲が、めちゃくちゃカッコよく見える!……みたいな。
そう、年甲斐もなくはしゃいでいた時だった。
「……で……ある……」
「……それ………なの……」
ん?誰かの声が聞こえる……。こんな時間に誰が?
今外に出ている俺が言うのもなんだけど、こんな真夜中に話し声が聞こえるものなのか?
……もしかして、内緒話?しかも、よく聞いてみると知ってる声のような気もする。
うわ、気になる!と、好奇心が爆発した俺は、そろりそろりと声のする方へ近づいた。ちょっと申し訳ない気持ちもあったけど、好奇心の方が大きかった。まあ大丈夫だろう、という何処から出てきたのか分からない自信もあったので、俺は足音を極力小さくして近付く。
でも、手燭持ってたら目立つよな……あ、そうだ!
「【雫】」
ポチャン、と指先から小さな水滴が落ち、火が消え、完全に周囲が真っ暗になる。これで完璧だ。……いや、ちょっと心細いけど。まあ【種火】でまたつけられるし。
あっここ、練習の成果を試すチャンスじゃないか?何が良いだろう……。
そうだ、火を消しても、気配のせいで気が付かれる可能性もある。なら、離れた場所から聞いたほうが良いんじゃないか?出来るなら、今この場所で。
でも、今の場所では声がよく聞こえないし……、……なら、身体強化魔法は?聴覚だけなら下級魔法の方だし、いけるはず!
「【聴覚強化】」
キーンと耳鳴りが走った瞬間、声が鮮明に聞こえだす……と同時に、自分の心臓の音まで爆音で聞こえて焦る。なんだよこの大きな音!これじゃあ話し声が全然聞こえない!
ただの呼吸音まで大げさに響いてて、自分の息が相手に届きそうで怖い。俺は必死に息を潜めて、ようやく相手の声が聞こえてきた。
胸がどきどきするのを抑えながら、俺は壁に身を寄せ、思い切り耳を澄ませた。
……そして聞こえてきたのは、グロリアさんの声だった。




