第4話 正しい女
妙に凛々しい顔のセンリを眺める。
結局、新聞を買ってきてしまった。
記事によると、王太子殿下の「お相手」は隣国のお姫さまらしい。
婚約が正式に発表されたのは昨日だけど、センリが帰国した時点である程度の話は決まってたとか。
これが本当なら、あたしと初めて会ったとき、センリにはすでに婚約者がいたことになる。
新聞を机に投げる。
こんなひどい裏切りがあるか?
大好きって言って、全部見せ合って、お互いをお互いで満たして、そしたら嬉しくなってまた大好きって言って……その先に待っていたのが、これ?
悪い夢を見ているみたいだったけど、何度確かめてもまぎれもない現実でしかなかった。
◇
2回無視したあと、3回目のノックであたしはドアを開けた。
「久しぶり、元気だったか?」
いつもと変わらない笑顔でセンリが立っていた。
手土産の中身は見なくてもわかる、サバランだ。
このクソ童貞は、何らかの事情で出られないのかもとか、ちょっと時間をおいて出直そうとか、そういう発想にならないんだろうか。
あたしはセンリを部屋に入れると無表情で言った。
「あのさ、センリ……何かあたしに言うことない?」
淡々とした口調に少し戸惑いながらセンリはあたしを見る。
「え、なんだろう……髪切った?」
「切ってないよ!」
思わず大きな声が出た。
ただごとじゃない雰囲気を感じとったのか、センリが目を見開いて固まる。
もう、こうなったら引けない。
「なんなの、これ!」
あたしは新聞を床に叩きつける。
センリは見出しに目をやると、気まずそうに黙ってから、苦い顔で言った。
「ごめん……」
そのひと言で、思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
婚約の話……本当だったんだ。
ごめんなんて言葉、聞きたくなかった。
センリに直接確かめるまでは、新聞よりもセンリを信じようと……信じたいと思っていた。
「ひどい……ずっと騙してたんだ」
悲しくて空しくて、体から力が抜けそうになるのを足を踏ん張ってこらえる。
「あたしのこと好きって、大好きって、さんざん言ってたの……全部、嘘だったんだ」
「違う!」
センリがあたしの言葉をさえぎって叫ぶ。
「違うんだ……アンのこと、本当に」
「なにが違うの!」
あたしも声を張り上げる。
「あたしみたいな簡単に……やらせるような女と都合よく遊んで、結婚はちゃんとしたきれいなお姫さまと……」
声が震える。
言ってて自分でもみじめになる。
「ごめん……出て行って」
あたしは震える声のまま言った。
センリは少し迷ったようにケーキの包みを机に置くと、静かにドアを閉めた。
あたしはドアの前でしばらく動けなかった。
階段を降りる音がしない……まだ、ドアを挟んだ向こう側にセンリの気配がある。
「アン……聞いて」
ドアごしにセンリの声が聞こえた。
「ごめん……結婚の話は本当だ……黙ってて本当にごめん」
ぐっと胸が苦しくなって息が止まりそうになる。
「でも、アンへの気持ちは嘘じゃない、ごめん、信じてもらえないかもしれないけど、これだけは伝えたくて……」
あたしは黙っていた。
黙ってセンリの声を聞いていた。
「俺、こんなふうに人を好きになることなんて、ないと思ってたんだ。生まれたときからずっと王太子で、結婚相手も、その、好きとか関係なくて、同盟国から迎えないといけないのもわかってたし、それならせめて結婚相手になる人を大事にしようってずっと思ってて……でも、あの日、カフェでアンを見て……」
あの日……センリはサンドイッチの注文の仕方がわからなくて困っていた。
あたしは彼氏に振られたばっかりで少しやさぐれていた。
「びっくりしたんだ、なんか、見えないものに引っ張られてるみたいに目が離せなくて、ずっと、一緒にいたいっていうのか、その……欲しくて、欲しくて、どうしようもなくなって」
きっと、一生懸命何かを伝えようとしてるんだろう。
あたしは目を閉じてセンリの次の言葉を待った。
「あの、俺、こんなに人を好きになったことってなくて……本当に、怖いくらい、自分でも信じられないくらい、好きって気持ちがどんどん大きくなって」
センリの声は途切れとぎれで、集中しないと何を言ってるかわからなかった。
「大切で、本当に、アンのこと、俺の人生でいちばん大切だって思って……俺より、命より大切だって思えて……」
泣いているのか、センリの声は震えている。
「結婚のこと、ちゃんと話さないといけないのはわかってた。でも……そのことでアンが……アンと、もう……会えなくなるかもしれないと思ったら、怖くて……」
そこでセンリの声は途切れた。
しばらく沈黙と、ドアの外のセンリの気配だけを感じていた。
「ごめん……傷つけて」
しぼり出すような声を聞いて、あたしは静かにドアを開ける。
涙でぐちゃぐちゃになった顔でセンリが驚いたように目を見開いてこちらを見ていた。
あたしはセンリの腕をつかむと部屋に引き込んだ。
無言でセンリのシャツのボタンを外していく。
「アン……何を」
されるがままに上半身を裸にされたセンリが戸惑ったようにあたしを見る。
「なにが、なにが王太子だよ……ただの男じゃん!」
言った瞬間、両眼からぼろっと涙が落ちる。
あたしはセンリの肩をつかんで力いっぱい壁に押しつけた。
センリの顔が少し痛そうにゆがむ。
「あたしの……あたしの男じゃん」
かすれた声で言って、センリの唇に唇をぶつけると、無理やり舌をねじ込んだ。
「んっ……」
センリの反応を確かめながら、ゆっくりと弱いところを攻めていく。
こわばっていたセンリの体が徐々にほどけて、もがくようにあたしの肩にしがみついた。
あたしと別れるなんて、できる?
王太子だなんだってわかったような顔をして、用意された「正しい相手」と結婚なんて、本当にできるの?
こんなに、あたしのことが好きなくせに!
唇を離すと、センリはあたしの肩をつかんだまま強引にベッドに押し倒した。
ぎらりと、センリの目に欲望が光るのがわかる。
センリの目の激しさに負けないように、あたしは思いっきりセンリをにらみ返す。
全身であたしの体をベッドに押さえつけると、センリは性急に唇を重ねた。
燃えるような瞳とはうらはらに、センリのキスはすごく優しくて、あたしはまた涙を流していた。
◇
本当はわかっていた。
センリがあたしを、どうしようもなく好きで、好きで好きで仕方ないことなんて、聞かなくったってわかっていた。
あたしを見つめる瞳が、あたしを呼ぶ声が、抱きしめる腕が、ぎこちなく触れる指が、センリの全部が、あたしを好きだって叫んでることはいつだって苦しいくらい感じていた。
そして、あたしも全身で応えてきたはずだ。
あたしはぐったりとベッドに横たわりながら、こちらに背を向けて身支度をするセンリを見ていた。
行かないで。
どうしたらいいのかわからない。
行かないで。
口から出そうになる言葉を必死に飲み込む。
行かないで。
この言葉を言ってしまったら、今まであたしが必死に守ってきたものが、ばらばらに崩れてしまう気がした。
そのあとに残ったものは、果たしてあたしだと言えるんだろうか。
無言で振り返ったセンリに、あたしは静かな声で言った。
「もう、ここには来ないで」