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第2話 ロイヤル童貞

 いつも通り、まだ薄暗いなかで目が覚める。


 姿見に写ったあたしをじっと見る。


 相変わらず背は低いし、顔だって特別美しいわけじゃない。

髪の毛を手ばやくひとつに結ぶと、かばんを持って部屋のドアを開けた。





 店に入って、2か所ある窯に火を入れる。

火がついたら水を張った鍋を乗せて、お湯を沸かしている間にモップで床を掃除する。


 床がきれいになったら今度はショーケースを拭いて、焼き菓子の在庫を並べる。

そうこうしているうちに卵と牛乳とバターが届くから、鍋を火からおろして湯煎で牛乳を温める。


「熱っ!」


 水滴が腕に跳ねた。


 あたしはタオルで腕を押さえると、小さくため息をついた。


 昨日は、あたしにとってはとんでもない一日だった。


 はるばる王都まで来て探し続けていた彼氏とやっと会えたと思ったのに、ものの1分もしないうちに振られてしまった。

そして、会ったばかりの男の人とお酒を飲んで、一緒にベッドに入った。


 今でも、センリのぎこちない指先が、熱い唇が、身体中に生々しく残っている。


 でも、あたしは何も変わらない。


 卵をセパレーターに割り入れて卵黄と卵白に分ける作業がだいたい終わるころになると、職人たちが出勤してくる。


 今日も、一日が始まる。





「お疲れ様、今日も忙しかったね」


 仕事を終えてバックヤードに下がると、先に上がってたガレットが声をかけてくれた。

ガレットは近所に住んでいる主婦で、昼から夕方にかけて販売員として働いている。


「疲れましたねー」


 言いながらあたしはエプロンと三角巾を外す。

本当に忙しくて一日があっという間に終わってしまった。


 仕事に追われて余計なことを考えなくて済むのは、いまのあたしにはありがたかった。


 帰り支度をしてると、ふと机の上の新聞が目に止まった。

目立つところに見覚えのある顔が描かれている。


「え、センリ……?」


 あたしが思わずつぶやくと、ガレットは面白そうに笑った。


「なんで呼び捨てなのよ、まるで友達みたい」


 友達というかなんというか……昨夜酔った勢いでやったなんて言えない。


「有名な人なんですか?」


 新聞に目を落としたまま聞くと、ガレットが言った。


「有名もなにも、王太子殿下よ」


「ええ!」


 あたしは目を見開いて固まる。


「長いこと遊学しててね、この間帰国されたんだよ。前はまだまだ少年って感じだったけど、すっかり大人になったねえ」


 しみじみと語るガレットの横で、あたしは頭の整理がつけられなかった。


 王太子殿下……?


 つまり、昨日ノリで部屋に連れ込んだ童貞は、ただの童貞じゃなくて、ロイヤル童貞だったってこと?


 頭が混乱してきた。





 部屋へと続く石畳をなんとも頼りない足どりで進む。


 昨日、あたしの身に起こったことは、いったいなんだったの?


 いや、それより、マジで王太子殿下だったとして、この先あたしはどうなるんだ。


 王太子殿下に馴れ馴れしくタメ語で話しかけた。

王太子殿下を田舎者扱いした。

酔っ払って王太子殿下に部屋まで送らせた。

帰ろうとする王太子殿下をベッドに引きずり込んだ。

王太子殿下の童貞を奪った。


 なんらかの罪に問われたり……しないよね。


 あたしはため息をついて薄曇りの空を見上げた。





 焼き型の水滴を布巾で拭って、方向を揃えて棚に戻したら、今日の業務は終了だ。


 あれから1週間が経った。


 その間、不敬罪でしょっ引かれることも、センリがあたしに会いにくることもなかった。


 センリにまた会えるかもっていう期待と、捕まったらどうしようっていう不安がないまぜになって、落ち着かなくって、なんだかものすごく疲れる1週間だった。


 アパートへの道すがら、風が冷たくなっているのを感じる。

この間まではまだ夏の名残りがあったのに、季節が変わりはじめている。


 もしかしたら、センリと会うことはもうないのかもしれない。

なんか、ちょっと下々の生活を見てみたい的なアレだったのかもしれない。


 でも……あの切なげにあたしを見る目が、あたしを可愛いって言う声が、嘘だったとは思えない……いや、思いたくない。


 足早にアパートの階段を上がると、部屋の前に……例のヤツがいた。





「あ……あの……」


 あたしの姿をみとめると、センリは慌てたように声を上げた。

狭いアパートの通路で、手には小さなバラの花束を持っている。


「お、王太子殿下……」


 こんなヤツが部屋の前にいたら目立って仕方がない。

あたしは急いで部屋のドアを開けると、無言でセンリを招き入れた。


「あの……たまたま近くを通りかかって……」


 センリは真っ赤になってよくわからないことをモゴモゴ言っている。


「あああたし……その、王太子殿下だって知らなかったもので……先日はその、大変失礼をさせていただきまして、あの……」


「こ、これ……あの、花……売ってるのを見かけて、たまたま、その、綺麗だったから……じゃなくて……」


 センリはバラの花束を握りしめて言った。


「会いたかったんだ!」


 ああ、こいつやっぱり童貞だ。

きっと、うちに花瓶があるかどうかなんて考えもしないんだろう。


「あたしも、会いたかった、会いたかったの!」


 言葉を置き去りにして、あたしたちはきつく抱きしめあっていた。


 センリの唇があたしを求めた瞬間、もう何も考えられなくなった。

ただセンリが欲しくて、欲しくて、欲しくて、それ以外は全部どうでもよくなっていた。





 まどろみから覚めると、センリはあたしに背を向けて身支度を整えていた。

王太子だなんだって言っても、こうして見ると普通の男と変わらない。


 あたしはセンリを後ろからそっと抱きしめる。


「アン……起きてたのか」


 あたしはそれには答えずセンリの首すじに軽くキスをする。


「あっ……」


 素直に体を反応させるセンリが愛おしくて、あたしは抱きしめたまま耳元で静かに言葉を発する。


「あたし、センリが大好き」


「俺もだ、好きだ」


 センリの切なげな声を聞いてあたしは小さく笑う。


「うん、知ってる」


 センリは振り返ると、あたしの髪を撫でてそっとキスをした。





「あたし、毎週安息日が休みなの」


 ブランケットをひっかけて、玄関でセンリを見送る。


「また、会ってくれる?」


「ああ、また来る」


 センリはあたしの頭を撫でると、すっかり夜になった街へ出ていった。


 鉄製の階段を下りる足音を聞きながら、机の上に置かれたままの花束を見つめる。


 明日は蚤の市でも寄って、花瓶を買ってこよう。

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