第1話 王都の洗礼
あれは、夏が終わるちょっと前だったと思う。
「アン……どうしたんだ? こんなところで」
ひっきりなしに人が行き交う大通り、恋人だったはずの男……マルクは気まずそうにあたしを見る。
あたしは質問には答えずに言った。
「その女のひと、だれ?」
「ええと、その」
うろたえまくった顔でマルクはあたしと横にいる女のひとを交互に見て言った。
「……妻だ」
◇
マルクとは同じ村の幼なじみで恋人どうしだった。
自分の力を試してみたいと言って王都に旅立つ彼を涙ながらに見送ったのが1年前。
手紙の返事が来なくなったのが半年前。
彼を追って単身、王都へやってきたのが3か月前。
王都にさえ来れば会えると思っていたけど、甘かった。
村とは何もかもが違った。街の広さも、人の多さも。
どうにか仕事と住むところを見つけて、このすべてが慌ただしい街で必死に生きてきた。
そして今日、やっと見つけた彼の横には知らない女のひとがいた。
◇
妻……? 今、妻って言ったか、こいつ。
「私は外すからさ……ちゃんと話した方がいいよ」
妻と呼ばれたひとは真面目な顔で言うと雑踏に消えていった。
「どういうこと? あたし、手紙が来なくなってすごく心配して……マルクを探しにきたんだよ」
あたしの言葉に、マルクは苦い顔でため息をつく。
「ごめん……心配かけて、でも、さっきも言ったけど俺、結婚したから」
いやいやいや、ちょっと待て。
なんかあたしが勘違い女みたいな感じで収めようとしてるけど、お前「待っててほしい」とか言ってたからな! マジで。
でも、苦りきったマルクの表情から、あたしを好きじゃないってことはもうグッサグサ刺さるくらい伝わってきた。
「俺のことは忘れて……君は君で幸せになってほしい」
マルクはなんかちょっといいこと言った感を出しながらその場を去っていった。
こうして、あたしの10年ごしの恋は、世界記録を更新できそうなスピードで王都の空に消えた。
16歳になったばかりの時だった。
◇
クソみたいな気分だ。
どこからそんなに出てくるのか、相変わらず途切れることのない人の波を見てため息をつく。
この街の人ごみにまぎれてると、自分が人格なんてない、空っぽのただの背景の一部になってしまったみたいに感じる。
もし、あたしがいなくなったとしても、きっとだれも気がつかないんだろうな。
いや、職場のひとはちょっと困るんだろうけど、それもきっと何日か混乱するだけで、すぐに新しい子が入るんだろう。
ああ、せっかくのオフなのに……いやそれより、こうなった今、あたしが王都にいる理由ってなんだろう。
いや、いま考えるのはやめよう、きっとロクなことにならない。
シケた気分を振り払うようにぶんぶんあたまを振る。
給料出たし、ちょっとオシャレなカフェに行ってランチでも食べよう。
あたしは大きく息を吸って前を向くと、街の中心部に向かって歩き出した。
◇
昼食どきからは少し外れてるせいか、カフェはそこまで混んでいなかった。
よかった、今日は座って食べられそうだ。
注文カウンターに向かうと、ショーケースを見ながらおろおろしてる男のひとが目に入った。
黒髪で背が高い。
たぶん、あたしより2つか3つくらい年上だと思う。
きっと、注文の仕方がわからないんだ。
王都に来たばかりの頃を思い出す。
都会に浮かれてオシャレなカフェに入ってみたのはいいけど、注文のシステムもわからなければ、誰が説明してくれるわけでもない。
まるで田舎者を閉め出すかのように不親切なカフェは、そのことすらもオシャレであるかのようだった。
いや、そもそもあたしの地元にはカフェすらなかったけども。
「先にパンを選ぶんだよ」
横から声をかけると、彼は一瞬驚いたようにあたしを見た。
「この4種類から選んで、そしたら次は具材と、ソース、そうやってカスタマイズするの」
「あ……そうなんだ、なるほど」
彼は感心したように言うと、またショーケースに視線を戻した。
きっと、この人も田舎から出てきたばっかりなんだろうな。
なんだか仲間に出会えたみたいで少し嬉しくなった。
地元には絶対にないようなオシャレな店に挑戦して、複雑な注文システムに打ちのめされる。
きっとこれが王都の洗礼なんだろう。
「ソースは辛いのとそうでないのがあって……あと野菜は嫌いなやつとか言えば抜いてもらえるから」
自分のを選ぶついでにシステムの説明をしてあげる。
なんだかこうやってると、あたしも都会にだいぶ馴染んできたように感じて感慨深い。
「いろいろ教えてくれて、ありがとう」
そう言って笑った顔は動物みたいに懐っこくて、ちょっとだけ、かわいいと思ってしまった。
◇
「となり、いいかな?」
さっきの彼が遠慮がちに言うので頷いた。
きっと、注文する前に席をとっていなかったんだろう。
それに、話し相手がいたほうがいくらか気がまぎれるかもしれない。
「あたし、アンっていうの。この近くのケーキ屋で働いてる」
そう言ってあたしはサンドイッチをかじる。
「俺は……センリ」
センリはぎこちなく笑った。
「あたしさ、田舎から出てきて3か月になるんだ。センリはこっちにきてどのくらいなの?」
「あ、俺はもともとここの生まれなんだ」
マジか……勝手に仲間だと思ってたけど、バリバリの都会っ子じゃねえか。
なんか先輩風とか吹かしちゃって本当にすみませんね。
なんとなくやさぐれるあたしの内心をよそにセンリは続ける。
「しばらく王都を離れてたんだけど、久しぶりに帰ってきたら結構変わってて驚いたよ」
「ああ、それでさっき困ってたんだ」
センリは笑って頷く。
「美味しそうだと思って入ったけど、まさかあんな罠があるとは……」
罠って言い方が面白くてあたしは笑った。
「都会の人でもやっぱりそう思うんだ。あたしなんて、もうこっちきてから罠にひっかかってばっかりだよ」
「ひっかかってばかりって……」
センリはひとしきり笑ったあと、楽しそうに言った。
「今日、このあと空いてる? 君と、もう少し話したいな」
ずいぶんストレートに来たな。
こんなの目をつぶっててもわかる罠なんだけど、あたしは頷いた。
「いいよ、どこに連れてってくれるの?」
だって、今日だけは、この広い王都でひとりになりたくなかった。
◇
そのあと、何をするでもなく2人でふらふら王都を歩いた。
「このあたりは全然変わってないな」
坂道を歩きながらセンリは懐かしそうに言う。
あたり前だけど、センリにとっては王都が故郷なんだな。
半ば家出のように飛びだしてきてしまった地元を思い出して少し切ない気分になる。
「あたしの地元さ、もう村全体が知り合いって感じだったから、こんなに人がいっぱいいるのは今見ても不思議だな」
涼しい風に吹かれながら景色を見下ろす。
街の外には広大な森が広がっている。
「君の地元はどんなところなの?」
隣で景色を見ながらセンリが言った。
「どんなって言われると難しいな……山あいの村で、畑と果樹園しかないようなところ」
森を超えたずっと先にある、あたしの故郷はここからは見えない。
「へえ、行ってみたいな」
センリはそう言って笑った。
都会育ち特有の『田舎でのんびりスローライフ幻想』でもあるんだろうか。
「ええ……本当に何もないクソ田舎だよ、面白いものなんてないって」
遠い故郷のことを少し思い出す。
今となっては王都にいる理由もよくわからない……でも、このまま地元に帰るのはなんとなく負けた気がしてしゃくだった。
『王都で自分の力を試してみたいんだ』
ド腐れ浮気野郎が言ってたことばがなぜか浮かんで、少し心が痛んだ。
◇
「それで、『カウンターごしにお話しするだけ』って言われてついて行ったらガチガチの娼館でさ、ビビってダッシュで逃げたんだよね」
そう言ってあたしはワインを飲む。
陽が沈むまで高台で景色を見て、そのあと酒場に飲みにきた。
「娼館って……大変だったんだな、怖かっただろ」
笑ってもらえると思ったのに、センリは真剣な目であたしをまっすぐ見た。
「君が無事でよかったよ」
3か月も前の出来事にそんな反応をされてもな……なんだか気恥ずかしくなってまたワインを傾ける。
「王都はどう? 過ごしやすいかな」
センリもワインを飲みながら静かに言った。
「うーん、嫌なこともあったけど、優しくしてくれた人もいたな。いまの職場の人たちもよくしてくれてるし」
悪質なスカウトに騙されて泣きそうになってたときに、いまのケーキ屋の支配人に拾ってもらって住むところまで用意してもらった。
仕事は大変だけど、王都にも親切なひとがいることを知った。
「しばらくは王都でがんばってみようと思ってるよ」
あたしが言うと、センリは嬉しそうに笑った。
◇
足元がふらつく。
「大丈夫か?」
センリが遠慮がちにあたしの手を握る。
「ごめんなさい……あの、もうすぐうちだから」
お酒を飲んだのは初めてじゃなかったけど、今日はやけに回った。
ひとりで帰れると言ったのにセンリは家まで送ってくれた。
アパートの階段を上がってドアを開ける。
朝、出ていったままの部屋を見ると、一気に現実がおそいかかってくる気がした。
「じゃあ、俺はこれで……」
「待って」
ドアを閉めようとするセンリに背を向けたままあたしは言った。
「もう少し……一緒にいてくれない?」
王都に来てから、休みの日を誰かと過ごしたのははじめてだった。
ことばの意味を知らないわけじゃなかったけど、今ひとりになったら孤独に押しつぶされてしまいそうだった。
振り返ると、センリは戸惑ったように立ち尽くしていた。
その表情をみたら、なんだかものすごく苦い気分になった。
あたし、何やってんだろ。
会ったばっかりの人の前でフラフラになるまで酔っ払って、こんなふうに甘えて、困らせて。
あたしはふぅーっと大きく息を吐いた。
「ごめん、変なこと言って……あの、きょうは楽しかっ」
「違うんだ!」
センリが急に大きい声を出したからびっくりした。
「あ……いや、違うっていうか、その」
センリがドアを閉めて部屋に入ってきたので、少しドキッとする。
センリはあたしのすぐ前に立つと、あたしをまっすぐに見た。
「あの、今日…….会ったときからずっと、その、可愛いって、本当にすごく可愛いと思ってて、あの、すごく、その」
センリはしばらく口ごもってから、小さな声で言った。
「抱きたい……と思うし」
その言葉を聞いて、途端に顔が熱くなる。
センリは切なそうな目であたしを見ながら途切れとぎれに話す。
「でも……うまくやる自信がなくて、その、俺……そういうの、したことない、から」
恥ずかしそうに目を伏せるセンリの手を、あたしは握った。
「あっ……」
センリが切なげに声をあげる。
「うまくなんて……しなくていいんだよ」
あたしはセンリを見上げて言った。
「あ、あたしもはじめてなの……だから、その、きっとうまくとか、できない」
心臓がものすごくドキドキしてるのがわかる。
「あと……あたしのことさ」
つないだ手にぎゅっと力を込める。
「アンって呼んで」
そう言ってあたしは目を閉じる。
「アン……好きだ」
センリの唇がぎゅうっとあたしの唇に押し付けられた。
うわ……唇、硬い……めちゃくちゃ力が入ってるのが伝わってくる。
きっと、すごく緊張してるんだ。
音のないことばを発するように唇で軽く唇をなでると、ほどけるみたいにセンリの体から力が抜けていくのがわかる。
センリの手がすがるようにあたしの肩をつかむ。
そしたらもうたまらなくなって、あたしはセンリを抱きしめて、そのまま引きこむようにベッドに倒れ込んだ。
◇
窓の外で風の音がしている。
目を閉じて眠ったふりをしているあたしの髪を、センリがゆっくりと撫でている。
センリは今、どんな目であたしを見ているんだろう。
あたしが起きていることに気づいているんだろうか。
『また、会ってくれる?』
そのひと言がどうしても言えなかった。
あたしの肩にそっと夜具をかけると、センリは音を立てずに部屋を出ていった。
鍵をかけるタイミングがつかめないまま、あたしはいつのまにか眠っていた。