2 舞台の上と裏側(4)
演劇×恋愛系ライトノベルです。
あまりにも公演のことで頭がいっぱいになっていたからだろうか。向こうから歩いてくる男が、くだんのイケメンに見えた。
「貴博さん?」
「……え?」
いや、見間違いではない。
だってこの男、私と目が合った途端に回れ右してその場を立ち去ろうとしたのだ。一階のエレベーターホールに現れた人間が、エレベーターに乗らずして出ていくなんてあり得ない。
「待って」
私はとっさに彼の腕を掴んだ。初めて見るスーツ姿は、上品なグレーでおろしたてのようにパリッとしていて、手に触れた感覚も無駄に滑らかな気がした。
「何か?」
「あ、あの――」
他人のふりを決め込む貴博さんに言いたいことはいろいろあるが、まず出てきた言葉は一つだった。
「あなたのせいで、舞台が大変なことになってるんだからね!」
エレベーター待ちの人たちの視線を集めるような大声を出した私を見下ろし、彼は小さく溜め息をついた。そして聞こえるか聞こえないかくらいの声量で指示を出す。
「ちょっと来い」
「え?」
貴博さんが足早に歩き出す。結局エレベーターホールを通り過ぎ、誰も使わない非常階段の更に一階と二階の間の踊り場まで上ったところで振り返る。
のこのこ後をついてきた私は、勢い壁際に追い詰められていた。
「……た、貴博さん?」
イケメンの壁ドンは想像以上に破壊力があった。まともに彼を見ることができない。
「近くないですか?」
「俺にこういうこと散々やらせてただろう」
「そうだけど」
もっぱら脚本家で演出家の私は、自分がされることには慣れていないのである。
「動揺してくれるんなら、格好つけたかいもあるってものだな」
「え?」
「いいか。まず、会社で大声を出すな」
恐る恐る顔を上げると、びっくりするほど真剣な視線と目が合った。
「……そんなに怒ること?」
「だってまさか、職場で深雪に出くわすとは思わないだろ」
「それは、私もそうだけど」
貴博さんははっきり「職場」と口にした。つまり、私たちは同じ会社の社員ということで間違いないらしい。
「次に、無事に本番を迎えたかったら、万が一社内で俺を見つけても話し掛けるな」
「何で?」
「……何でって」
もしかして。
「舞台に立つの、秘密なの?」
貴博さんが眉根を寄せる。どうやらそういうことらしい。
「へえ」
「何だよ?」
なんだか学生の頃を思い出す。自ら演劇部に入っておきながら、知り合いに見られたくないと文化祭でこそこそしている役者というのがたまにいた。ただ、社会人劇団では舞台と日常が切り離されているため、この「こそこそ感」を目にするのは随分と久しぶりだった。
きっと今、私はちょっとニヤニヤしている。
「じゃあ黙っていてあげる」
「おう、頼む」
大きな会社ではあるけれど、こうして貴博さんと出くわした以上はどこに彼の知り合いがいてもおかしくない。
であれば一つ、保険を掛けておく。
「もし本番に来なかったら、逆にあなたのこと会社中に言いふらすからね」
彼の顔が、分かりやすくひきつっていた。
「勘弁してくれ」
先程の壁ドンの勢いはどこへやら。気付けば立場が逆転している。
「ちなみに貴博さんの所属は? 私は経理部でずっと伝票打ってるんだけど」
「……このタイミングでよく聞けるな」
「だってその態度、部活の時は普通なのに教室で会った途端にツンケンしてくる男子みたいなものでしょ。大丈夫。そういうのは慣れてる」
「ひどいな」
ついでにいえば、私には「教室」に演劇の話ができる友達がいないから、実は情報漏洩の心配はなかったりする。
「でも良かった。まだ出てくれる気はあったんだ」
「え?」
「しばらく休むって、いつまで休むつもりなのか全然分からなかったから」
「ああ、悪い」
貴博さんは、こちらが拍子抜けするほど素直に謝ってくれた。
「ちょっと仕事が立て込んでて、いつまで休むことになるか俺にも分からなかったんだ。でも、今のうちに片付けとかないと本番に影響しそうだったし」
「そういうこと? だったら言ってくれれば良かったのに」
やっぱりこの男、演劇のことを案外気に入っているらしい。
「じゃあ奈央子の機嫌は私が取っておくから、改めてよろしく」
そう話すと、打ち解けたと思っていた彼の表情がまた険しくなる。
「あの女、まだあんな感じなのか」
「実はまだちょっと拗ねてて、降りるとか降りないとか」
すると貴博さんは、奇しくも勇也さんと同じ提案を口にした。
「前から思ってたんだけど……深雪は舞台に立たないのか?」
「へ?」
「企画書を読んだ時から、俺は深雪のユメが見てみたかったんだ」
――企画書って、喫茶店で初めて会ったあの時から?
聞き返す前に貴博さんは去っていく。私も経理部に戻らなければならないのに、頭の中はまだ舞台のことでいっぱいで、とてもじゃないが仕事は手に付きそうにない。
その日の夜、ユメに代役を立てることを正式に決定した。
蓋を開けてみれば満場一致で採択されたのは、既に役者陣の意向が固まっていたからだろうか。