2 舞台の上と裏側(3)
演劇×恋愛系ライトノベルです。
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奈央子が稽古場を飛び出してから早くも一週間が経とうとしている。私と勇也さんが代わる代わる説得を試みているが、彼女から返ってくる言葉はいまだ「降りる」の一点張りだった。
『奈央子っていつも相手に勝手に惚れて勝手に興味を失ってただけだったからさ。振られたのはしばらくぶりだったんじゃないか?』
勇也さんの軽口がスマートフォン越しに聞こえてくる。
お一人様で昼食を済ませたばかりの私は、電話を受けた路上から落ち着いて話せる場所を求めて辺りを練り歩き、目に付いたベンチに座り込んでいた。
すぐに会社に戻るつもりで上着を置いてきてしまったが、寒さは特に気にならない。春が近づいてきたからか、それどころではないからか。
「そんなの、拗ねてもいい理由にはならないでしょう」
『拗ねていい理由にならなくても、拗ねる理由にはなるんだろう』
平日の真昼間に会社の外で、先輩と電話で作戦会議を立てている。いくら私が演劇フリークでもここまでするのは珍しく、それくらい状況は切羽詰まっていると認識していたのだが――。
「勇也さん、何でそんなに余裕そうなんですか?」
電話の向こう側にいる先輩の声は、思いのほか明るかった。
『だって、ヒロインに関しては深雪が演じればいいかなと』
「……え?」
『もちろん奈央子もいい役者だけどさ、今回ばかりは脚本家の我が強すぎる。ユメにぴったりのキャストって、深雪を置いて他にいない気がするんだよね』
「そんなこと、急に言われても」
『前から考えてはいたよ。奈央子がやる気を取り戻す可能性も見てたけど、難しそうだからそろそろ提案しようと思ったわけ』
提案するだけして、彼はすぐさま話題を移した。
『貴博くんの方は?』
「……あれも、音沙汰なしです。奈央子のことで責任を感じている気配は、全然なかったんですけどね」
『だね。あの時の深雪の説教だって、別に堪えているようには見えなかったし』
実は奈央子がいなくなった二日後あたりから、貴博さんも稽古場に来なくなってしまった。最初だけ「しばらく休む」と連絡があったけれど、それ以降は電話もつながらないし、しばらくがどれほどかも分からない。
『まあ、貴博くんは連絡つかないとどうしようもないもんな。自宅も職場も行きつけの店も、何にも知らないんだから』
知っていたら捕まえにいくのか。さすが勇也さんだ。電話越しにも関わらず、私は背筋を伸ばして頭を下げていた。
「すいません。いろいろあって連絡先を尋ねるのが精一杯でした」
『いや、俺は大丈夫だけど。そんな及び腰で、どうやってあのイケメン口説いたの?』
それを聞かれると笑って誤魔化すしかできない。
『まあ信じて待つしかないか。貴博くんの代役は考えられないだろう?』
「ですね」
私はもうあのイケメンに出会ってしまった。出会う前には戻れない。
『……つまり、奈央子の代役なら考える余地があるのか』
「へ?」
『冗談。でも、本当に考えてくれると嬉しいな。昼休みに連絡したのは、他の団員がいないところで先に相談しておきたかったからだし』
そうだったのか。
勇也さんは舞台監督である。公演を行う上での諸々を調整し、稽古場を回してくれている。自分のことで手一杯で、時に突っ走り時にふさぎ込む脚演の私にとって、なくてはならない存在だ。
「お仕事中にわざわざすみません」
『いや、深雪も仕事中ではあったでしょ』
「私の仕事は、どうせほとんど単純作業なので」
経理部の下っ端は、伝票を打って判子を押したりもらったりしているだけで一日が終わる。区切りのタイミングさえ見誤らなければ、大概定時で引き上げられるのがこの仕事の最大の美点である。
『いまだに演劇に全振りしてるもんな。大丈夫? 職場にちゃんと友達とかいる?』
薄々分かった上で勇也さんが問うてくる。職場に友達がいて仕事を楽しいと感じている人間は、あんな脚本は書かないのだ。
「友達がいないと困るんですか? 私、プライベートはめっちゃ充実してるつもりですけど」
『うーん。せっかく舞台を立てたのにお客様が呼べない、とか?』
それは確かに、困るかもしれない。
『まあ、集客以前に考えないといけないことがてんこ盛りだからな。こんな電話しといてなんだけど、仕事中はちゃんと仕事しろよ』
同じ演劇フリークの先輩の、まるで説得力のない忠告で電話は切れた。途端に会社という日常のすぐ近くに自分がいたことを思い出す。
「さて」
いつもより長めに昼休みをとってしまった。さっさと職場へ戻るとしよう。
私は大手の製菓会社に勤めている。
この東京本社というのがなかなか、都心のビル街でも結構な存在感がある。というのも一階の一部が店舗になっていて、社員も一般人も美味しいお菓子が買い放題なのだ。実は演劇をやる上でも、差し入れ関係で重宝していたりする。
とはいえ、自分にとって会社はお金を稼ぐ場所でしかない。趣味の演劇に全力を尽くすため、就活ではとにかく残業の少ない事務職を優先して選んでいた。だから職場に友達がいないことも、本当に苦ではないのである。
社員口から入ってエレベーターを待ちながら、やっぱり舞台のことを考えていた。
代役を立てるということは、チラシやパンフレットの文面も変えることになる。その辺りは勇也さんの方が気にしているはずなのに、広報の締切まで言及しなかったということは彼もまだ決めかねているのだろう。
実際、貴博さんと連絡がつかないことにはどうしようもないし……ん?