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4 日常は戻らない(1)

演劇×恋愛系ライトノベルです。

 怒涛の公演期間を終えると、いつだって日常が待っている。

 三日分の有給休暇の間に溜まった仕事を片付けるため、今日の私はいつも以上にテンポよく伝票をさばいていく予定だった。

 しかし――。

 自席に着くなり部長から声を掛けられた。部屋の奥から決して少なくない机の合間を縫って、わざわざ耳元でこそりと彼が告げたことには、どうやら私は相当偉い人から呼び出しを食らったらしい。

「越智さん、いったい何したの?」

 上司の真顔が途轍もなく怖いが、良くも悪くも職場では何もしていないのがこの私、越智深雪という社員のはずだ。

 更に恐ろしいことに、呼び出された先は一般社員が勝手に立ち入ることのできない最上階の役員フロアだった。そのためいかにも「秘書やってます」という雰囲気の、無地のスーツを着て坊ちゃんカットに眼鏡を掛けたお兄さんが案内役として待ち構えていた。

「……あの、私は何をしたんでしょうか?」

 彼が答えてくれないので、黙って後をついていくことしかできない。

 促されるままエレベーターに乗って、最上階で降りて廊下を歩いていると、いくつか並んでいた扉の一つをお兄さんがノックした。

「ここって」

 部屋の中から返事があって、ドアが開いてもすぐには足を踏み出せなかった。

 何故って、応接用の黒いソファの横に立っていたこの部屋の主は、ササメの社長である篠目(ささめ)貴一(たかいち)その人だったのだ。

「どうぞ座って」

「え?」

 想定外に優しく話し掛けられて、随分と間の抜けた返事をしてしまった。

「君が座ってくれないと私も座りづらいだろう」

「あ、えっと……はい」

 勧められるがまま、ぎこちなくソファに腰を下ろす。

 直接声を聞いたのはおそらく入社式が最初で最後だろうし、当然間近で向かい合ったのは初めてだ。品のある三つ揃いのスーツを身にまとい、ロマンスグレーの髪を撫でつけた、なかなかダンディなオジ様である。

 いや、それより何より印象的なのは紳士的な笑顔だろう。この微笑みがなければ、いきなり社長室に連れてこられた状況で、相手とまともに視線を交わすことなどできなかったと思う。

「越智深雪さん」

「はい」

 名前を呼ばれて、改めて背筋を伸ばす。

「随分と息子が世話になったようだね」

「……はい?」

 しかし「一番偉い上司」と相対している緊張感は、すぐに意識できなくなった。

「最近タカヒロがこそこそ何かやってるのは気付いていたが、まさか劇団に顔を出していたとは」

 息子、タカヒロ、劇団に……。

「え!?」

 部屋中に響くほど叫んでしまった。何せ二日前まで舞台に立っていたので、ばっちりお腹から声が出る。

「じゃあ、貴博さんって」

 社長の息子? 正真正銘の御曹司? まさかそんなことあり得ない。

 しかし言われてみれば、社長もなかなか彫りの深い整った顔立ちをしている。この顔とあのイケメンが舞台の上で見せた人懐っこい方の笑顔を照らし合わせると……ダメだ。上手く頭が働かない。

「もしかして知らずに付き合っていたのかい?」

 篠目社長がくすくすと喉を鳴らす。

「君がスカウトした男は正真正銘私の息子だし、ウチの副社長だ」

「ふ、副社長……?」

 前言撤回。彼の笑顔は全然、紳士的ではなかった。

 社長は混乱した私を見て面白がっている。その少々性格の悪そうな微笑みは、確かに貴博さんと似ている気がした。

「それで越智さん、君は貴博のプロポーズを受けるのかい?」

「はい?」

 また馬鹿みたいな返事をしてしまった。次から次へと、理解が追いつかない。

「ちょっと待ってください」

「私は待っても構わないが、断るなら早い方がいいだろう」

 この人が本当に貴博さんの父親だとして――そこはもう吞み込むしかなさそうだが――あの男は自分が舞台にスカウトされたことと唐突にプロポーズめいた発言をしたことを、素直に父親に伝えるだろうか。

 しかもそれで私を呼びつけたにしては、篠目社長はまるで他人事のような軽快な口調を続けている。二人揃って意味が分からない。

「今のところ貴博と越智さんの関係を知る者は、社内にはほとんどいないからね。貴博ももう大人だし、断ったところで君が立場を悪くすることはないだろうが、いかんせんこういう話はすぐにどこからか嗅ぎつける輩がいるんだよ」

「関係って――」

 とっさに、強く否定していた。

「そもそも私たち、付き合ってもいませんから!」

 そして少々居心地の悪い間が生まれる。

「……あ、いえ、すみません。確かに結婚しないかとは言われたのですが、ちょっと意味が分からなかったというか、私たち本当にそういう関係ではないので」

 私はいったい何を必死に弁明しているのだろうか。

 自分が置かれた状況についていけないままあたふたしている私を見て、社長はむしろ納得顔で頷いていた。

「そんなことだろうと思ったよ」

「え?」

「実は私の妻が、つまりは貴博の母親が、息子に結婚してほしくて仕方なくてね。見合い話を持ってきては、息子に振られ続けてるんだ」

「お見合い……?」

 不意に、記憶がよみがえる。

 私が貴博さんと出会ったのは、まさにお見合い相手を振って怒らせた瞬間だったと、彼から説明されている。結婚にまるで興味のなさそうな男に縁談が舞い込むこと自体少々不思議に感じていたが、その理由を唐突に理解した。

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