3 そして幕が上がる(3)
演劇×恋愛系ライトノベルです。
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何もないまっさらな舞台に、貴博さんが立っている。その満足げな表情は、公演への評価と受け取ってもいいだろうか。
「お疲れ様」
おもむろにイケメンが振り向いた。が、それ以上動く気配がないので私の方が舞台に上がる。
「えっと……みんな打ち上げ会場に行っちゃったんだけど」
「あー、俺はパス」
「パスって、せっかく一日早めたのに」
千秋楽の後はすぐさま撤収作業が始まって、打ち上げは翌日に持ち越されるのが劇団カフェオレの常である。ゲネプロほど大きなイレギュラーではないけれど、今日でいなくなる彼のために勇也さんがタイムテーブルを繰り上げたことは間違いなかった。
「文字通り今回の立役者なんだから、挨拶くらいしてってよ」
「俺のこと苦手なスタッフもいるだろ。代わりに奈央子でも呼んでやった方が、盛り上がるんじゃないのか?」
貴博さんの主張は、悲しいかな間違ってはいない。他に誰もいないスタジオで、彼が一人感慨にふけっているこの状況が既にそれを物語っている。
「そこで気を使うくらいなら、もっと愛想よくすればいいのに」
「舞台に立っているだけでいいって、言ったのは深雪だろ」
「確かに」
そのやり取りに笑顔が付随することで、私たちが互いに全く遠慮していないことが分かる。たった二ヶ月ちょっとでそんな関係を築けるなんて、それはそれで喜ばしいことではないだろうか。
「深雪こそ、脚本家で演出家でヒロインがこんなところにいていいのか?」
「あなたがいるうちは施錠できないからね」
なんて答えてはみたものの、戸締りは本来勇也さんの仕事だ。それをわざわざ買って出たのは、このまま帰ってしまいそうな気配が漂っていた貴博さんともう少しだけ話をしたかったからだろう。
黒いパネルに背を預け、誰もいない客席を見渡す。客席どころか音照ブースにも楽屋にも誰もいない。それでいて完成している舞台に立つことは、私でも意外と珍しい経験かもしれない。
「そういえば、結局キスはふりにしたのね」
「え? ああ」
千秋楽のキスシーン、私には目の前の彼が本気で迫ってきたように見えた。だから覚悟を決めて目を閉じたのに、彼が唇に触れてくることはなかった。
「ふりでもいいって決めたのは私だし、正直どっちだっていいんだけど」
隣に立つ貴博さんに、冗談めかして尋ねてみる。
「私とのキスは嫌だった?」
「かもな」
「やっぱり」
「演技でするのは嫌だった」
彼はグイと私の腕を引き、その手を頬に添えるようにして私に口づけた。
「ちょ……まっ」
更に強く押し付けられ、完全に唇を塞がれる。
二人だけの世界となった舞台の上、ドラマみたいというよりは夢みたいなキスだった。
この男はもうヒロではないし、私もユメではない。それでも貴博さんが私を優しく絡め取るから、つい身を任せてしまいたくなる。
温かく、柔らかな感触が押し寄せる。何度もふりを繰り返していたからか、ようやく満たされたような幸福感がゆっくりと広がっていく。
しかしこちらがおずおずと手を伸ばそうとした矢先、彼の唇は離れていった。
「貴博さん?」
演技でないなら、今のキスはいったい……?
「深雪ってさ、結構ずるいことするよな」
「え?」
「自分は演劇をやめる気なんかさらさらないのに、ユメの筆はあっさり折るんだから」
今しがたのキスはなかったかのように話題が変わり、貴博さんはかなり断定的な口調で尋ねた。
「深雪も本当はプロの脚本家になりたいんだろう? だけど現実が邪魔して、あくまで趣味だと自分に言い聞かせてる」
「まさか」
とっさにかぶりを振ったが、続く言葉は出てこない。
「いい加減認めろよ。ユメのモデルが深雪なら、あんたの本質は脚本家だ。それなのにユメと同じで挑戦する前から半ば諦めてるようなものだから、最後のヒロの言葉をうっかり受け入れそうになった。だとすればもう『俺の勝ち』ってことじゃないか」
確かに私は、本番の舞台の上で彼にほだされそうになっていた。
「会社を辞めて脚本家として生きていきたいと思ったことも、あるんじゃないのか?」
「それは……」
思ったことくらいなら、ある。
「でも別に、今の仕事を辞めるつもりはないの」
「どうして? やりたいならやってみればいいじゃないか」
「簡単に言わないでよ」
創作活動が茨の道であることは、貴博さんならもう十分理解しているだろうに。
「三重苦の泥沼に嬉々としてハマってる女に反論されてもな」
「それは本番っていうご褒美が待ってるから。お金もコネも何もないところからプロの脚本家になろうと思ったら、まずはシナリオ大賞に応募するところから始めることになる。受賞するまで何本も自分の脚本が闇に葬られることは目に見えてるのよ」
実は今回の公演では、小説家志望であるユメの執筆活動に関して「ネット投稿」という手段をやんわりと回避している。
小説は書き上げた時点で作品として完結する。更に現代であれば、世に出すところまで簡単にできてしまうが、脚本だとそうはいかない。演劇や映画のシナリオはあくまで設計図であり、完成した作品を世に出すには結構なお金と時間と労力が掛かるのだ。
だから私をモデルにして生まれたユメには、新人賞を取って自分の小説が書籍化されるまでデビューはできないという、ちょっと古い小説家像を追わせていた。
「アマチュア劇団の脚本家なら身内のノリで企画を成立させられるし、どんなに大変でも最終的には楽しくやっていける自信がある。でもこれを仕事にしようとした途端、大好きだった演劇が辛くてしんどくて大嫌いになりそうじゃない?」
「そんなの、やってみないと分からないじゃないか」
貴博さんの言葉はヒロの台詞にぴたりと符合する。
「まあ、そうなんだけどね」
こちらの逃げの姿勢もまた然り。書けないくせに小説家志望とうそぶくユメと、書いているくせに脚本家志望とは言えない私は、果たしてどちらの方がタチが悪いのだろう。
「私の父親、まさに『好き』を仕事に選んだ人間なんだ」
「うん?」
「パティシエ。私が子供の頃に独立して自分の店を出したんだけど、そこから地獄よ。何度潰しかけたことか」
「……ひょっとして、ウチで経理やってるのって、家のことを考えてる?」
「え? ああ、それは全然」
あれは家業と呼べるような店ではない。特段お菓子作りや料理が好きなわけでもないし、私が親から受け継いだのは「好きに生きたもん勝ち」というマインドくらいだろう。
「私はただ生活の心配をせずに済む大手の企業で、できるだけ残業の少ない部署に収まっただけ。それがたまたまササメの経理だっただけで」
お菓子業界のドンであるササメに就職して一番良かったと思える点は、やはり差し入れ方面だ。父の男気の詰まったケーキを持たされるより、会社で買った焼き菓子を持っていった方が評判がいいし経済的ですらある。
「とにかく私は、演劇は趣味と割り切って楽しく沼にハマりたい。脚本でお金を稼ごうなんて、怖くて考えられないの」
「それは生活の心配があるから? じゃあ、お金は関係なかったら?」
「へ?」
そんな考えるだけ無駄なこと、考えたこともなかった。
「当面の生活費も次回作の制作費も、申し分なく用意されるとしたら?」
「パトロンを作るってこと? そしたら辞めるね、会社なんか即刻辞めて朝から晩まで演劇に打ち込むね」
真顔で尋ねる彼の意図が分からず、私は笑ったまま冗談めかして答えていた。
「……だったら、俺と結婚しない?」
「は?」
今、なんて……?
私は貴博さんをまじまじと見つめた。
相変わらず彼の表情は真剣そのものだったが、何を考えているのかはさっぱり分からない。このまま見つめ合っていれば、ニヤリと笑って冗談だと明かしてくれるだろうか。
「深雪、すごく困った顔してる」
「そりゃ、いきなりこんなこと切り出されたら困るでしょう」
「そっか」
小さく呟くと、彼はくるりと踵を返して舞台を降りた。
「貴博さん?」
「じゃあ、また会社で」
「はい?」
スタスタと客席を抜けて、貴博さんは本当にいなくなってしまった。
「……何? 何だったの?」
やはりジョークだったのだろうか。
拍子抜けした私はその場にへなへなと座り込んだ。何もない舞台でたった一人、馬鹿みたいに取り残されていた。




