3 そして幕が上がる(2)
演劇×恋愛系ライトノベルです。
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スポットライトに照らされて、私はじっと虚空を見つめた。
この公演『結末が決められない』は、舞台中央に立ち尽くすユメと、彼女を背後から抱きしめるヒロの構図から始まる。当初は背中合わせに立っているだけの予定だったが、貴博さんが演技に乗り気になってくれたため、よりインパクトのある画を求めていったらこうなった。
まずは夢すら追いかけられていない、ユメの現状を描きたい。
書きたいことはたくさんあるのに原稿は全く進まない。真面目に働いているわけでもないのに仕事で忙しいと言い訳して、いっそ仕事なんか辞めてしまおうかと考える。イマジナリーフレンドの都合のいい男が全て受け止めてくれるのをいいことに、ひたすら自分の話を垂れ流していく。
自分のことでいっぱいいっぱいのユメはヒロと視線を合わせない。けれども彼は彼女を優しく抱きしめ、大丈夫だとささやき続ける。二人の会話は今一つ嚙み合わないが、それでも互いに依存していることがよく分かる冒頭だと、作者としては自負している。
夢と現実、すなわち創作と仕事という二項対立を主題に据えた際、本当は一度ヒロインを無職にしてみたかった。
しかし、堂々と小説家志望をうそぶくユメでさえ、現実はそう簡単に捨てられないらしい。申し訳程度にのらくら働く彼女の頭の片隅では「いい加減自立した大人にならなければ」という思いが密かに渦を巻いている。
「忘れて」
「……え?」
ユメに現実を突き付けた男の存在を、ヒロは敏感に察知した。
「そんな男のことは忘れて。君には僕がついているから」
全てを受け入れてくれるはずのヒロが、彼女の言葉を遮った理由は嫉妬だった。
泥沼の一面を持つ彼は、ユメの不安を打ち消すために甘い笑顔と優しい言葉で誘惑し、結末も構想もあったものではない未熟なアイディアから筆を手に取らせ、現実を忘れさせようとする。
けれども、忘れようとしたところで現実はどうしても心の内に引っ掛かる。だから二人の距離は、思いのほか近くて遠いものだった。
次の場面に転換し、勇也さんが――ミノルが登場した。職場の同僚たる彼は、ユメが小説家志望であり仕事を辞めてまで小説を書きたいと考えていることを知る。
ミノルの常識からすればあり得ない話だが、説教じみた彼の言葉は、ユメには全く響いていなかった。むしろ小説のネタになるのではないかと逐一ヒロに報告していたくらいなのだが、ヒロにとってみれば彼女の意識の中に現実の男が入り込んできたこと自体、とんでもない事件であった。
危機感を覚えた彼は次第に自分の意思で動くようになる。ユメへの独占欲が具体的な行動に現れるのが――貴博さんと奈央子がおおいに揉めた――例のキスシーンだ。
「ユメ、こっち向いて」
今までヒロを必要としながら全く顧みてこなかったユメが、困惑して彼を見上げる。ようやく視界に捉えた彼がただの都合のいい男でなくなっていることに驚き、戸惑い、あるいは恐怖し、彼女は――私は後ずさった。
後ずさる本当の理由は、キスするふりが客席からそれっぽく見える立ち位置に相手を誘導するためだ。ユメとしての演技を遂行しながらも、頭の片隅では演出家としての理性を働かせている……つもりだった。
「ひ、ヒロ?」
しかし今、私は純粋な驚きと戸惑いから後ろへ退いている。目の前の彼が――もう貴博さんなのかヒロなのか判断がつかないが――本気で迫っているようにしか見えなかった。
気持ちが出来上がっているなら構わない。ユメだってこんなふうに真剣に見つめてくるヒロのことを、よもや拒絶したりはしないだろう。
くいとアゴを持ち上げられた時、私は静かに目を閉じていた。
ユメはなかなか結末を決められずにいた小説の執筆を再開する。
この場面、リアルに考えたらパソコンに向かうところだが、視覚的なインパクトを求めて原稿用紙を舞台に散乱させていく。こうした演出を違和感なくできるのが、抽象演劇のいいところだろう。
ヒロと対話しながら原稿を進めていく。もともと彼の存在意義はここにある。私の脚本家としての経験上、執筆中に頭の中がこんがらがってきた際に、誰かと言葉を交わすことで思考が整理されることは結構多い。
傍目には虚空と会話しているユメの姿を見たミノルが、ヒロの存在に勘付いた。彼は自分の世界に引きこもっている彼女の意識を現実へ連れ戻そうとする。果たしてそのお節介はユメにとって善か悪か。この辺りから脚本上でも現実とフィクションの境目が、更に曖昧になっていく。
ちなみにこのミノルという男、劇団員の中でもだいぶ解釈が別れていた。
この舞台を「ユメの頭の中」そのものと捉えると、「現実」にモデルがいるだけで彼もまたユメの空想が作り出したキャラクターである可能性が生じるのだ。彼が小説のネタにされそうになったり、ユメにしか見えないイマジナリーフレンドの存在に気付いたりといったシーンがその説の裏付けとなる。
ただ、この議論はそもそも私が貴博さんをスカウトし、後出しで脚本を改編したことで起こったものである。そして勇也さんは、初志貫徹で正真正銘のミノルを演じたいと言い切った。何故ならミノルはヒロのような都合のいい男ではないからだと、理屈もしっかりと述べながら。
確かにミノルは、ユメにはっきりと現実を突き付け、葛藤させるキャラクターだ。皮肉なことに、その葛藤こそが彼女の小説に深みを与えていくことになるのだが。
「私だって自分が小説家になれないことくらい分かってる。今まで書けなかったのに、仕事を辞めたくらいで急に筆が進むわけもないしね」
この台詞を口にするのは本当に勇気が必要だった。いくら自分が「演劇は趣味」と割り切っていても、小説家志望の女の子に現実逃避を自覚させ、夢を諦めさせるのは酷だと今でも思う。
それでも、私は「結末」を描いてみたかった。
ユメは小説を結末まで書き上げると、すっきりとした笑顔でヒロに告げた。
「今までありがとね」
そして原稿用紙の束を彼の手に握らせる。我ながら身勝手な別れの挨拶である。
「小説を書くのは、これでおしまい」
「……どうして?」
ヒロからの問いに、台詞は既に決まっているのに答えに困る。
「結末が欲しくなったから、かな。いつまでもこのままじゃいけないって、私が思っていたんだからヒロだって分かっているでしょう?」
「でも、無理に今決めなくてもいいじゃないか。この小説だって、せっかく仕上げたんだからどこかに応募するんだろう?」
ユメはゆっくりと首を振った。いつの間にか彼女は、自分の夢にケリをつけるために最後の原稿を書いていた。
「私はいい加減大人になるって決めたの。だからもう小説を書いている場合じゃないの」
「夢を諦めることが大人になることじゃないだろう」
「そうなんだけどね」
「もしプロになれなくたって、書くことをやめる必要はないだろう」
「それも分かっているんだけどね」
貴博さんの台詞が、私自身にグサグサ刺さる。現実に向き合うと同時に筆を断つこの結末を、彼が気に食わないでいることは稽古の時点から明らかだった。
それでも筆を折ることにした一番の理由は、やっぱりヒロだ。
彼がいる限り、ユメは大人になれそうもない。ヒロはあと一歩頑張らねばいけないような時にも即座に彼女を甘やかしてしまう。この度の原稿ですら、書き上げられたのはミノルへの対抗心が大きかった。
ヒロはユメが小説を書くために生み出した存在だ。書くことをやめれば、きっと消えていなくなるだろう。
「そっか」
全てを悟った彼は、最後にギュッとユメを抱きしめる。冒頭とは対照的に正面から抱き合って、二人ははっきりと視線を、心を通わせた。
「でも忘れないで。君の本質は小説家だからね。いつか絶対にまた書きたくなるし、そこから目を背けたら今度は自分に嘘をつくことになる」
ヒロの、貴博さんの言葉からは自分で書いた台詞以上のものを感じた。それは彼がこの二ヶ月演劇に真摯に取り組んで、創作に生きて何が悪いと思ってくれているからに他ならなかった。
「くだらない現実のせいで君の心が壊れそうになったら、絶対僕が助けにいくからね」
「うん、ありがとう」
「……え?」
貴博さんの反応ではたと我に返り、自分のミスに気が付いた。
ヒロの言葉を受け入れてどうするのだ。これからユメはまっすぐ前だけを見て、現実を生きていくはずなのに。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
「ユメ?」
「さようなら」
どうにか軌道修正を施し、ユメは舞台を飛び出して現実を生きていく。残されたヒロは彼女の幸せを祈りながら、静かに眠りにつく。
このラスト、貴博さんの表情が切なくて悔しくて、でも幸せそうなすごくいい顔をするようになったので、照明さんにたっぷり余韻を取ってもらっている。私が直接目にすることができないのが惜しいくらいだ。
そして舞台は幕を閉じる。この暗闇の中で鳴り響く拍手ほど幸せになれる瞬間を、私は他に知らない。