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3 そして幕が上がる(1)

演劇×恋愛系ライトノベルです。

 本番は土日の昼夜二公演ずつ、そのためにスタジオは木曜から月曜の五日間借りる。

 しかしこの情報はギリギリまで貴博さんには黙っていた。本番前に当然のように有給休暇を取得する泥沼に引きずり込む気はなかったし、実は普段であれば金曜の夜から五回公演のところを彼のためにゲネプロ(要するにリハーサル)を金曜の昼から夜に移動させたことも、絶対に知られたくなかった。

 というわけで、木曜の夜に貴博さんがスタジオに現れた頃には、舞台はあらかた出来上がっていた。

 黒いパネルと床に囲まれ、稽古場からお馴染みの箱型の椅子を二つほど設置し、基本的に見立てで芝居を行う抽象度の高い舞台である。シンプルな分パネルの継ぎ目やはけ口の見切りなど、美術班は細部の見映えにこだわってくれていた。

 客席は段差をつけて一列に十三脚、合計五十二席分のパイプ椅子を並べる予定だが、今は椅子を脇に寄せて制作が絶賛パンフレットの折り込み作業中だ。更には音響や照明機材の確認作業が続いているけれど、この辺りの采配は私より舞台監督に任せた方が効率的なので、私は貴博さんと共に楽屋に入った。

 こちらは壁際に鏡と会議室用の長机が備え付けられており、反対側は衣装と小道具と私物が山積みにされ、隅には洗面台が設置された三畳ほどの小部屋である。

「貴博さん、メイクしたことありますか?」

「もちろんない」

「ですよね」

 男の人に化粧を施す緊張感に、少しばかり丁寧語が顔を出す。

「小劇場だし内容も現代日本の話だから、そんなにきっちりメイクする必要はないんです。特に男の人は下地塗って、ドーラン塗って、せいぜいちょっと眉を描いて整えるくらいでいいかな」

「……それ、深雪が俺にするのか?」

「本来は衣装係の奈央子の仕事になるんだけど」

 何せ逃げられてしまったから。それでも降りる前に衣装の目星は付けておいてくれたので、まあ何とかなっている。

「あと、毎回私がやってあげる余裕はないので、今日で覚えて明日のゲネプロからご自分でお願いします」

「わ、分かった」

 さすがの貴博さんもちょっとばかし緊張しているらしい。彼に顔を洗ってもらっている間に化粧道具を用意して、いざ、鏡を横目に向かい合って座る。

「慣れてない男の人ってすぐに分かんないとか言い出すんだけど、一般的な色彩感覚で大丈夫。塗ったところと塗ってないところは明確に色が違うし、ムラも目視で分かるレベルでいいんだから。ほら」

 説明しながら手の甲に、男性陣がよく使うドーランをいくつか乗せてみる。やっていることはファンデーションの色合わせと同じなのだが、メイクに馴染みのない彼は物珍しそうに私の手元を眺めていた。

「貴博さん、意外と色白ですね」

 その肌に馴染んだのは、試した中では一番明るい色だった。

「これ使うって、自分で覚えておいてください」

「あ、ああ」

 貴博さんは頷いて、ぎこちなく手に取りラベルを確認する。

「始めますよ」

 化粧下地を掌に出したところで、はたと気が付いた。

 ……メイクって「道具の使い方」を説明する気でいたけれど、下地なんかいつも直接手で塗ってるよね? 私がこの顔ベタベタ触っちゃって本当にいいの?

「どうかした?」

「いえ」

 意識してしまった途端、心臓が急激に動きを速めた。茶色みがかった美しい瞳がじっとこちらを見つめている。

「あの……やっぱり私、今から自分の顔にしてみせるので」

「いいからやれよ。こっちは覚悟決めてるんだから、深雪が照れるな」

「は、はい」

 あれだ、目の前にいるのはヒロくんだと思うことにしよう。それならこのドキドキ感も演技の糧になるはずだ。

 美形特有の圧に押されながら、もはや見本にはなりそうもない手際の悪さで、化粧下地を顔全体に伸ばしていく。貴博さんは私と鏡を交互にちらちら見やりながら、ずっとされるがままだった。

「……あいつは」

「はい?」

「勇也は、こういうの全部自分でできるわけ?」

 下地からドーランとパフに持ち替えた辺りで、彼は唐突にそんなことを尋ねた。

「そうですね。あの人の初めてがどんな感じだったかは分かりませんが、私と知り合った時点で既に女装も完璧にこなす役者でしたよ」

 勇也さんの場合、どうしても見た目はコントになってしまうけれど、芝居が入るとそれがまた妙にリアルになる。つまり「女性」の役ではなく「女装している男性」の役ならば、百点満点の仕上がりといえよう。

「女装って……張り合うのもバカみたいな話だな」

「あー、演劇はナンバーワンよりオンリーワンの世界だったりしますからね」

 私が貴博さんをスカウトしたのは、あくまで「ヒロのイメージにぴたりとハマった」からだ。そこには唯一無二の価値がある。

「だからってわけじゃないけど、貴博さんには本番を、演劇の真骨頂をとにかく楽しんでもらいたいです。この二ヶ月、あなたがヒロと真摯に向き合い、ヒロを模索し続けてくれたのは私も他の団員たちも分かっているので」

「そっか」

 メイクで更に美しく整えられた顔が、こちらを見つめる。

「じゃあ、顔だけ男の汚名は返上できたんだな」

「な!」

 真顔でそんなこと口にしないでほしい。

「初めから思ってません……ちょっとしか」

「思ってたんじゃないか」

「なら貴博さんだって、私のことヤバい女だと思ってましたよね?」

「思ってたというか、今も割と思っているけど」

 さらりとトゲのある言葉が返ってくる。やはり彼は性格の悪い、顔だけ男だ。

「深雪はそれでいいんだよ。演劇フリーク上等なんだろ? だから俺だってあんたの脚本に付き合ってみようと思ったんだ」

「ホントですか?」

 ガチャッ。

 と、楽屋の扉が開いて勇也さんが顔を出す。

「もうすぐオペ練始められそうだけど、そっちは?」

 驚いて無駄に身構えてしまってから、私は慌てて答えた。

「大丈夫です。もう終わります!」

「時間ないの分かってるよね? 奈央子じゃないんだからさ」

「はい!」

 バタン。

 と、こちらの返事も待たずに扉は閉まっていた。

 ……びっくりした。

「深雪?」

「あ、はい。できました。どうですか?」

 誤魔化すように鏡を指し示すと、貴博さんは自分の顔を覗き込む。

「……やっぱりあんまり変わらなくないか?」

 鏡の中のイケメンが小首を傾げている。

「たぶん元がいいからですよ」

 思えば私も、学生の頃はドーランとファンデーションの違いがよく分からなかった。隠したいものが増えるほど、舞台メイクのカバー力は効果を発揮する。

「どうしてメイクしたことが『もちろん』ない男が、そんなに肌きれいなんですか」

 思い切り嫌味を利かせたつもりだが、相変わらず貴博さんは動じない。

「そりゃ、深雪がビジュアルで選んだ男だからな」

「なるほど」

 考えてみれば、私がスカウトしたのは理想のイケメンだ。格好いいのがデフォルトなのだ。

「鏡じゃよく分からなくても、実際に舞台に立ってスポットライトを浴びてみると、化粧した方が映えるなって感じますよ」

「へえ」

 とはいえ、やばい……美しさが過ぎる。

 不敵な微笑みにドギマギしながら、この男はヒロくんなのだと、私は強く自分に言い聞かせていた。


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