1 理想のイケメン、現る(1)
演劇×恋愛系ライトノベルです。
その衝撃的な光景を、私は、越智深雪は偶然にも視界に捉えてしまった。
現場は都内のビルに入った喫茶店。
窓の外にちらほらと雪が舞う昼下がり、脱いだコートをカバン諸共隣に追いやって、私はコーヒーをお供に作業中だった。
しかし既に意識はテーブルの上のノートパソコンではなく、一人の男に向かっていた。テーブルを挟んだ奥のボックスシートに座る、名前も知らぬイケメンに、見惚れていたといって差し支えはないだろう。
そう、遠目にも彼は美形だった。年齢は私と同じくらい、三十前後だろうとあたりをつけてみる。
男の向かいには女性がいた。イケメンに恋人がいることにさして不思議はないが、何を話しているのかと無謀にも聞き耳を立てたまさにその時、事件は起こった。
彼女が唐突に席を立ち、彼に向ってグラスの水をぶっかけたのである。
……嘘でしょ?
なみなみと残っていた水が宙を舞う様を、私は食い入るように見つめていた。それどころか、彼女が立ち去っていく間も彼から目が離せない。おかげで二つ目の事件を起こしてしまった。
……あ。
目が合った瞬間、まずいと思った。
こちらに気付いた彼がつかつかと歩み寄ってくる。
「おい」
茶色みがかった美しい瞳に見下ろされ、私の心臓は跳ね上がった。
近づくとなかなかに背が高い。それに彫りが深く整った顔立ちは、ただ格好いいだけでなく人目を引きつける華がある。その立ち姿はまさしく「水も滴るいい男」というやつだろう。
しかし今、私は通りすがりのイケメンに見惚れている場合ではなかった。
「これって盗撮だよな?」
彼は私の手首をガッチリ掴んだ。そしてこの手には、カメラモードでチカチカ光るスマートフォンが握りしめられている。これ以上の現行犯逮捕はないだろう。
「じゃあ、警察に行こうか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
見苦しく抵抗する私を前に、彼は眉をひそめた。
ややつり上がった目元と薄い唇からは、ふてぶてしさがありありと感じられる。これが笑顔になったらいったいどんな表情を見せるのか――と、思わずまた妄想を働かせそうになる。
「あの、データは消しますから」
「そういう問題じゃないだろう。というか、今のは完全に罪を認めたよな」
鋭く睨みつけながらも、彼は空いていた向かいの席に腰を下ろした。人目を引かないための善後策だろうけど、こちらとしては話し合いの余地が生まれた気がしてものすごくホッとする。
髪にはしずくがついたまま、ジャケットも肩から濡れている。本当はそっとハンカチでも差し出してあげたいところだけれど、この状況では――。
「あんた、名前は?」
「へ?」
「答えないなら今すぐ警察に引っ張っていく」
他にどうしようもなく、私は正直に答えていた。
「越智です。越智深雪」
当然ながら相手方は名乗らない。撮った写真を出すよう言われて、これまた素直にスマホのフォルダを開いてみせた。
「もしかして、仕込み?」
彼が画面に視線を向けたまま尋ねた。
「え?」
「あの女に頼まれた? だからこんなにばっちり写ってるの?」
「ま、まさか!」
疑われても仕方ないくらい、決定的な瞬間が写っていた。グラスの水を頭から被るこの男の姿が。
「あなたも、私のことより彼女さんを追いかけなくていいんですか? 今、振られたところですよね?」
「……え?」
彼はまじまじと私を見つめた。
それからまたスマホの画面に目を落とし、小首を傾げる。
「仕込みじゃないなら、何であんたは俺の写真なんか撮ってたの?」
「それは……」
改めて、こちらも目の前の男を見つめる。
モノトーンのジャケットスタイルも素敵だが、もっと遊び心を取り入れた衣装も似合うだろう。この顔は舞台に立っているだけで十分に価値がある。
「理想のイケメンに出会ったから、です」
「は?」
またしても冷たい視線に晒され、精一杯の言い訳を始める。
「わ、私だって格好いいと思っただけで盗撮なんかしませんよ。でも……イメージにぴったりだったんです」
「イメージ?」
「次回作のヒーローの。私、アマチュア劇団で脚本を書いてまして」
恥を忍んでノートパソコンの中身も開示する。次回公演の企画書と書きかけの脚本を画面に出して、どうだとばかり彼の目の前に突き付けた。
「ヒーローのヒロくんです。今回はちょっと抽象的な脚本で、ヒロインの理想をこれでもかと詰め込んだイケメンということで、単純がすぎるくらいの名前になったんですけど、もちろん大真面目ですよ」
正直、相手にされなくても構わなかった。呆れられた結果無罪放免となるなら万々歳、くらいに思っていたのである。
しかし、彼は思いのほか丁寧に企画書を読み込んでいた。
「この『ヒロ』のイメージが俺に近いってこと?」
「近いというか、ドンピシャです」
だからつい、カメラを構えてしまったのだ。そして稽古場で「こういう感じのイケメンを用意できないか」と相談するつもりだった。
「理想といったって、あんた、俺のこと何も知らないだろ?」
「はい、だから完全にビジュアルの話をしています」
「ビジュアルね」
彼が苦笑する。そりゃ顔だけだと言われたら笑うしかないだろうけど、まんざらでもないように見えるのは私の気のせいだろうか。
「……そう、ドンピシャなんですよ」
「え?」
気付いた時には、私はその案を口走っていた。
「あなた、舞台に立ちませんか?」
彼がパチパチと瞬きを繰り返す。その顔も、文句なく美しい。
「……あんた、何言ってるの?」
「舞台に立ちませんかと言っています」
「そういうことじゃなくて。俺、芝居とかしたことないし」
「誰だって最初はそうですよ」
幸いにも私は脚本家である。初心者を上手く使う演出方法など、いくらでも考えつく自信がある。
「舞台に立っているだけでいいです。そしたらウチの役者たちが上手くやってくれますから。どうですか?」
「どうと言われても」
「その顔、私に使わせてくれませんか?」
「……とんでもない女だな」
やがて彼はためらいがちにゆっくりと頷いた。しかしその表情には、どことなく不敵な微笑みが感じられた。
そう、私はあなたのそういう顔が見たかったのだ。