小説蟹になろう
『おめでとうございます! あなたの小説が本年度最優秀小説として選ばれました!』
無意味とも思える文章を書いては投稿を繰り返す。そんな日々が3年を過ぎた頃、私が利用している小説投稿サイトの運営を名乗る差出人から、そんな内容のメールが届いた。もはや単なるライフワーク的に書き綴っていただけの文章が評価された事にまずは驚いた。だがそれよりも何よりも、そもそも私には何らの賞にもエントリーしたという記憶が無い。それとも投稿作品の中から勝手に選考するような仕組みでもあるのだろうか? それを私が知らなかっただけなのだろうか? いや、これはそんな楽観的な話ではなく、その投稿サイトがハッキングを受けて私のメールアドレスが流出し、それを悪用した人物からの詐欺メールという可能性の方が高いのではないだろうか。だがそのメールには何処かに誘導するようなURLが記載されている訳でも無く連絡をくれと書いてある訳でもなく、ただただ選ばれたという事のみが書かれてあるだけだった。
「何処かに誘導する訳でもない。となるとこのメール、結局は一体何の意味があるんだ? 仮に本物だとしても賞金や賞品、若しくは出版の確約やらと選ばれたから何があるという事は何1つ書いてないし。それに何か……。つうか、どう見ても詐欺か悪戯だよなぁ」
そう考えるのが自然だろうという結論に至り、私はそのメールを破棄しようとキーボードに手を伸ばした。その瞬間、体全体に激痛が走り始めた。
「んっ?! が……ぐぁっ! がぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!――――」
それは今迄に感じた事のない痛み。頭が顔が、胸が腹部が、腕や足が指先がと、全てが圧縮されてゆくような潰されていくような、そんな未知の激痛が間断なく私を襲った。
「がっぁぁぁぁぁぁっ!――――」
抗う事の出来ないその痛み。今の私に出来るのは、激痛を堪えんが為に言葉にならない言葉を張り上げる事だけ。とはいえその激痛は堪えたとて止むことは無く、むしろ徐々に増してゆく。そして自分の鼓膜を破る程の大声を張り上げているにもかかわらず、その声が次第に遠くなってゆくような意識が遠のいてゆくような感じと共に、何か暗闇に落ちてゆくような不思議な感覚に囚われてゆく。それは諦める以外の選択肢は無いのだという宣告だろうか。そしてあのよくわからない最優秀賞。あれはこんな最期を迎える私への餞だったのかもしれない……
◇
築10年程の2階建てアパートのその2階。決して広いとは言えない8帖程のワンルームが、フリーランスのプログラマーを生業とする私の仕事場であり自宅である。その部屋はインターネットで見つけ、契約もインターネット上で行った。電気ガス水道といったインフラも対面すること無く申請から支払い全てがネット上で完結し、開通予定日になると勝手に開通していた。交通の便も良くはなく家賃が安い訳でもなく景色が良い訳でもないそのアパート。だがそのアパートには私が望むものが揃っていた。それはピアノの音も通さない程の防音機能に加え、無料のインターネット光回線、そして全戸に宅配BOXが備え付けてあるという、それは人との接触が極度に苦手な私にとってまさに必要な物がフル装備されたアパートであり、その空き物件情報を見つけた際、私は小躍りすると共に即座に申し込んだ。
テレビも無いその部屋の中央には、ガラス天板のローテーブルが置かれている。それはその部屋の中での唯一の家具であり食卓であるのだが、それは同時に仕事机でもあり、常にノートパソコンが鎮座している。そしてそのノートパソコンと戸別に装備された宅配BOXこそが私の生活の基盤である。玄関脇に装備されている宅配BOXは一旦外へ出ずとも部屋の中から配達物を取り出せるようになっている。そんなありがたい装備により出前的な食事をネット注文すれば無言のままに宅配BOXへと配達され、私はあられもない姿のままに食事を受け取ることが出来る。自炊するにしてもその食材は勿論ネットで注文し、それは無言のままに宅配BOXへと配達される。そんな外出が不要な生活において衣類等は非常に少なくて済み、結果、望んだ訳ではないがミニマムライフを送る事が出来、収納場所が少ないその部屋にあっては良い結果をもたらしていた。しかしネット注文が多いという事は包装ゴミも多い事でもある。故にいくらミニマムライフとはいえそれなりの量のゴミが日常的に発生していた。当然それは廃棄する必要があり、しなければゴミ屋敷と化してしまうは必然。そして私にとっての唯一の外出がゴミ出しであり、流石にこればかりはいくら通信技術が進んだ時代であっても自身で行わなければならない。私にとってそれは多大なストレスのかかる事ではあるが、そこは他のアパート住人が寝静まったのを見計らいつつ、夜な夜なコソコソとゴミ出しに行く事で一切他者と遭遇する事無く、部屋とゴミステーションとの往復をしていたのだった。そんな状況もあり、私はここ数年、アパートの隣人含めて誰とも会わずに過ごしていた。
パソコンで行う仕事は誰に監視される訳でも無く、それもチーム開発ではなく個人で完結出来る内容の仕事のみを頂いている。そんな自宅での作業は日中にしようが深夜にしようが何時間やろうが関係なく、期日迄に成果物を納品出来れば良いという、私にとっては大変ありがたい条件下での仕事である。お陰で平日の日中であっても仕事とは無関係のサイトを好きなだけ徘徊する事も出来、防音効果に優れたアパートでは大きな音声で動画を見ようとも周囲を一切気にせず見続ける事が出来る。そしてそんなネット徘徊中に「小説が投稿出来るサイト」という存在を知った。
「無料で小説を投稿するサイト? それらを無料で読めるサイト? 誰が投稿するんだ? 誰が得するんだ?」
私にとって歌は聞く物であり小説は読む物である。といっても私は小説をほぼ読まないのであるが、だとしても基本的にそれらの行為は対価を伴う行為であり、聞き手であり読み手である私がその対価を支払うのが当然であるはずなのだが、それは昨今の動画投稿サイトのような広告表示や閲覧による投稿主への還元がある訳でもなく、ただただ無料で投稿し、ただただ無料で読ませるという仕組みだった。小説を読まない私にとってそのサイトは無料でも無用な訳であり特段興味がある訳ではなかったが、その読み手と書き手の双方が無料のサイトが一体どれほど利用されているのだろうかという興味が湧いた。そこで検索サイトを開き「小説投稿サイト」と打ち込み検索してみる。すると直ぐに幾つかの小説投稿サイトが表示されたのだが、こちらとしてはそれらの違いなど知る由もなく、取り敢えず一番上に表示されていた投稿サイトをクリックしてみた。
そこは無料にして世界へと公開される小説投稿サイト。とりあえずチュートリアル的なページを開いてルール等を確認すると、読むだけであれば何ら対応は不要であるが、投稿するならユーザー登録が必要であり、最低文字数制限やそれ相応の公序良俗を守る必要はあれども、フィクションは勿論の事、思想や意見等ジャンルを問わず、それらを短文長文連載形式で投稿出来るとあった。それは年齢性別不問にしてプロの小説家からはたまた小学生であっても登録投稿出来るサイト。そしてそのサイトにおける掲載小説の作品数はゆうに100万を超え、登録ユーザー数は200万人を超えているという。
「そんなにいるの? みんな無料で投稿してるの? 何で??」
ネット経由で仕事しネット徘徊が趣味な私だったが、興味が無かったからなのか、そういった界隈の事は全く知らなかった。また投稿された作品の中には出版社から商業小説として改めて出版されているものも有ると言い、つまりはそのサイトを通じてプロの作家になったという人も多数いるという。漫画にしろ小説にしろ、そういった物は全て書き手が出版社に直接売り込みに行くというのが通説だと勝手に思っていたのだが、まさかそのような新たな登竜門的存在が登場していたとは全く知らなかった。これも引き篭もりで生活出来る私同様、ネット社会が成せる技といった所だろうか。
「ふ~ん、何かいつの間にやら凄い時代になってたんだなぁ。あれ? このユーザ登録ってのはそれほど厳密な感じではないのかな?」
私はSNSといった類の事は一切やっていない。興味が無いというのが一番の理由ではあるが、そもそも私は直接間接問わず他者との接触を嫌う引き篭もり系であり、極力自分の情報は流さないようにしている。よって実名は勿論の事、例え匿名であったとしても特定少数不特定多数に関係なく、他人に対し自分の行為や情報等を自らの意志で晒そうなんて考えは一切無い。故に私は写真やら映像やら言葉やらと何かを投稿するという行為は一度も行った事が無い。そして今私が見ている小説投稿サイト、そのサイトに於いて何かを投稿したい場合には他のWEBサービス同様にユーザー登録が必須な訳だが、出版社がどうの商業がどうのという事が書いてあった事で、てっきり公的レベルの詳細な個人情報を登録する必要があるのだろうと思い込んでいた。だが実際にはペンネーム的なユーザー名と生年月日、そして性別と血液型に連絡先メールアドレスといった程度の入力項目しかなく、またそれらは全て入力必須ではあるものの運転免許証等での証明を求められる訳でも無く、故にモラルだとかの問題はあるのかもしれないが不正確な情報のみでユーザー登録が出来るようであった。とはいえメールアドレス位は正しい物を入力しておかないと何かあった時に困るかもしれない。なので実際に利用しているメールアドレスを入力するのが望ましいが、これもフリーメールのアドレスを使用すれば良い訳であり、実質、私を特定するに至る情報を何1つ提供せずともユーザー登録が可能なようだった。
「ふ~ん、個人に繋がる情報を記載しなければ特定される事は出来なさそうだなぁ。万が一にも特定されるとしたらIPアドレス位かぁ」
それは匿名が可能な所謂書き込みサイトと呼ばれる類と同じ様なシステムなのかもしれないが、私は何故かそれらとは異なる印象をもった。そして特に書きたい何かがあった訳では無かったが「ならばそれは具体的にどのような物だろうか?」という興味が沸き始め、とりあえずユーザー登録を行い、テストがてら投稿してみる事にした。
「つうか、何を書けばいいんだろ……」
いわば衝動的にユーザー登録しただけであって、書きたい事があった訳では無いし何1つ浮かばない。
「別に物語的なちゃんとした何かである必要は無いんだよな……それじゃぁ」
ということでタイトル『人と遭わない人生を送りたい』という500字程度の文章を書き上げたのだが、それは小説と呼ぶには程遠くほぼ愚痴に近い内容であり、ただただひたすらに言葉を羅列しただけのとても文章とは呼べない稚拙な代物であり、不意に自身の国語能力の無さを思い知る事となった。
「ま、まぁ、テストだし別に良いかぁ。で、このボタンで投稿出来るのかな」
そうして私は人生で初めてネットに投稿するという行為を行い、それはすぐさま世界に公開された訳なのだが、特に何かある訳でもないままに早1週間が過ぎた。
その投稿サイトには日毎や1時間毎の閲覧数が見れたり、閲覧者から投稿内容に対し感想が送れたり点数をつけたりする機能があるのだが、私の投稿に対しては何の反応もなく閲覧者もほぼいなかった。ネットに投稿するという行為を一切してこなかった私にとってそれは何ら落胆するような事ではなかった。それよりも何よりも、私にとっては自らが書いた文章が他のパソコンや携帯電話といった機器から何処からでも誰でも何時でも閲覧出来るというその事が、とても新鮮であり心が震える思いであった。パソコンから投稿してすぐ、私は携帯電話から小説投稿サイトにアクセスし、自分が投稿したそれを表示してみた。当然それは当たり前の様に表示されたのだが、改めて自分の書いた文章が世界に公開されたのだなと実感し感動した。閲覧者がいるいないに何を思うでもなく、その事に感動した。そして投稿から1週間が経った訳だが、改めて自分が投稿したそれを表示してみた。
「……………………ん?」
自分の書いた文章がネット上に存在し、ネットに繋がってさえいれば何時でも何処からでもそれを表示出来る。そんな当たり前の事に未だ慣れず少し感動しながら読んでいたのだが、何か違和感を感じた。そしてハッと気がついた。それは投稿時も稚拙な文章だなと思ってはいたが深く考えないままに「まぁいいや」的なノリで投稿したものであり、改めて読み直したそれは余りにも意味不明で稚拙で国語能力の無さの見本といった文章であり、私はそれを世界に公開していたのだなと気がついた。そして私は匿名で投稿した自分に「Good Job!」という言葉を送ると共に、小説投稿サイトから即座にそれを削除したのだった。だがそんな心震わす程の出来事が刺激となったのか、私は脳裏に浮かぶ言葉を逐一メモするようになり、ある程度書き留めた時点でそれらのメモを元にして小説らしい文章を目指し書き始めた。最初は500字程度の短編小説を書き上げ投稿した。次は1000字超の物を投稿し、その次は5000字を超える物を投稿した。そしていよいよ連載形式にチャレンジし、凡そ40万字に及ぶ長編小説を書き上げた。それらは文法も勉強し直しそれなりに推敲に推敲を重ねた結果ではあるが、かといって評価する人はおろか閲覧する人も殆どおらず、そこには自己満足以外の何がある訳ではなかった。仮に評価してくれる人があったとしても「国語力の弱い人が書いた作文」と、まあそんな評価ではないだろうか。別に評価が欲しい訳じゃない。沢山の人に読んで貰いたい訳でもないが、そう言ってしまうと「ならばローカルに保存しているメモと同様だろ」と、「いちいち投稿する必要なんかないだろ」と、そう言われてしまうのかもしれない。だがそうではなく、自分のパソコンから投稿した小説がネットの世界に存在するという事に、それを何時でも誰でも何処からでも見れるという事に価値を感じているとでも言おうか。だがひょっとしたらそれは人との接触を極度に嫌っているにも拘らず何かとは繋がっていたいという所謂深層心理があり、それ故の行動なのかもしれない。若しくはSNSに於いて呼吸するようにして自分の日常を不特定多数に発信するような人達の事を、そんな自分が出来ないような事をしている人達の事を羨ましく思うと同時に、それらの人達に及ばずとも自分でも何かを発信したいと、もしかしたらそんな思いが私の深層心理にあり、それ故の行動なのかもしれない。そんな心の葛藤的な何かを持ちながらに、私はペンを走らせている、否、キーボードを叩き続けている、文章を書いては投稿してを繰り返している。そしてそんな日々が3年近く経った頃、突如、私のメールアドレス宛てに『おめでとうございます! あなたの小説が本年度最優秀小説として選ばれました!』という内容のメールが届いたのだった。
◇
「あ……あれ? 眠ってたのか……えっと、それまで何してたっけ?」
私は眠っていたようだった。それも泡を吹きながらうつ伏せに眠っていた。寝ぼけ眼で部屋の中を見渡せば、それは普段通りの私の部屋。カーテン越しの窓の外へと目をやれば、未だ日も高い時間である事はすぐにわかった。
「あ、そうだ。確か激痛に襲われたと思ったけど、ひょっとして気を失ってたって事か?」
であればそれは人生初の失神だった。本来であれば救急車を呼ぶべき状況だったのだろうが、あんな状況ではとてもではないが救急車など呼ぶ事は不可能だった。
「これが一人暮らしの弊害かぁ。おまけに防音効果のある部屋で呻いても喚いても誰も気付いてくれないだろうし。更には引き籠もり系ワーカーだから普段心配してくれるような人もいないしなぁ……」
もしかしたらあのまま死んでいた可能性もあったかと思うと、今更ながらに背筋がゾッとした。それと同時に、30代前半の自分に対して孤独死という言葉が当てはめられる可能性もあるんだなぁと呑気に感心した。
「つうか、うつ伏せで寝ていた所為か、何だか胸や腹に圧迫感があるなぁ……ん?」
何かおかしいというか変というか、何やら物凄い違和感を感じた。
「な! 何だぁ!」
私の手が……
「は、はさみ?!」
それは紛れもなくハサミ。指を動かそうとするとチョキチョキと動く、それは正しく私の手。私の両手はハサミになっていた。
「嘘だろ…………つうか、何で蟹のハサミ?! つうか体全体が蟹になってる!」
そう、私は人から蟹へと変態していた。なのでうつ伏せで寝ていたのも当然といえば当然。
「いやいや待て待て、じゃあもしも仰向けに寝てたらどうなってたんだ?…………って、違ぁぁぁぁぁうっ! 今はそんな事はどうでもいい! いやどうでも良くはないけど今考えるべきはそこじゃない!」
そう、仰向けに寝てたら起き上がれずにそのまま終了となっていたかもしれないからそれはそれで大変かもしれないが、だが今考えるべきはそこでなく、何故に自分は蟹になっているのかという事である。
「一体何で蟹に……」
そんな独り言をぶつぶつ言いながら部屋の中を見渡しながらに考える。見渡す部屋の中は特段何か変化がある訳でも無く他に誰がいる訳でもない。だが何かしらあっての今の状況なのだろうからと何か無いか何か無いかと見渡しながら必死に考える。そして時折「蟹ミソってのは肝臓だか膵臓だから脳ミソって訳じゃないよなぁ。そもそも蟹に脳なんてあるのかな?」なんて呑気な事を交えながらに考える。
「ん? あれ? そういえば……」
朧気ではあったが、私は何かに違和感を感じていた気がする。気にする必要はないだろうとやり過ごしたような気がする。だが今、その違和感が猛烈に気になってきた。
「よいしょっと」
そんな古臭い掛け声とともに私は立ち上がった……という言い方が正しいのか分からないが、とりあえず立ち上がった。
「うぉ! まじで足が8本ある! つうか足同士よくぶつからないな!」
私は足を意識せずに立ち上がったのだが、その際、8本の足同士が勝手に距離をとりつつぶつからないよう動いた事に感動した!
「って、違ぁぁぁぁぁうっ! 今はそんな事はどうでも良い!」
そう、自分の8本の足がそれぞれぶつからないように動くのは凄い事であるのは間違いないが、今大事なのは足ではない。違和感の正体である。そしてそれは眼の前にあるローテーブルに鎮座するノートパソコンの画面の中にある。
「…………」
私は蟹になっていたが小さな蟹ではなく、甲羅の直径が凡そ1メートル程の大きい蟹であった。なので高さ50センチ程のローテーブル上のノートパソコンの画面も安々と覗くことが出来た。そしてその画面の中には、私が倒れる直前迄見ていた小説投稿サイトからのメールが表示されていた。
「う~ん。このメール、何か怪しい以外にも違和感があった気がしたんだけど。気のせい……あっ!」
私はその違和感の正体に気が付いた。そしてすぐさま私が使っている小説投稿サイトを開いた。
「うぉぉぉぉっ! 蟹のツメというか蟹のハサミでキーボード叩くの超難しいんですけど!」
人間時代は10本の指でもってブラインドタッチを駆使していたが、カニの爪では1文字1文字をそっと押すように打たないとキーボードが壊れてしまいそうで、それは最早パソコン初心者よりも断然遅いタッチであり、小説投稿サイトを開くだけなのに悪戦苦闘を強いられた。
「や、やっぱり……」
四苦八苦しながらも何とか開いたそのサイト。私が使っている小説投稿サイト。その名は「小説家になろう」…………だったはずなのだが、メールの差出人含め、今開いたそのサイトのロゴやサイト名等をよくよく見れば、それは「小説家になろう」ではなく、「小説蟹になろう」となっていた。
「…………いや、どういう事やねん!」
つまりそれは傍から見れば自らが望んで「蟹になった」と、小説家ではなく小説蟹へ自らの意思でなったという事のようで、蟹である私は両手のハサミをブンブンと振り回しながらに関西弁でもってツッコんだ。
「まじかよ……。えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……。じゃあ、あのメールは望み通り蟹になれますよ…………って事?」
そうして私は「小説家」ではなく、「小説蟹」になったのであった。
◇
蟹になって早2年。私の生活はあいも変わらず引き篭もりのままであったが、蟹になった事で大きく変わった事が3つある。そのまず1つ目が私にとって唯一の外出であったゴミ出しに関する事である。今の私にとってゴミ出しという行為はデッドオアライブ的なミッションとなった。いくら人気の無い時間を狙ったとしてもそれは絶対ではなく、万が一にも蟹の姿を見られたらコスプレという言い訳も通じず即ゲームオーバーだろう。流石にゴミ出しに命を賭ける訳には行かない。という事で、ゴミ出しが不可能になった私は全てのゴミを自分の手であるハサミで以って砕いたり切り刻んだりして小さくし、生ゴミはトイレに流し、紙類にビニール類にプラスチック類はフライパンの上に載せ、灰になるまで焼いたらその灰をトイレに流している。それは現代社会に於いてはルール違反と言える行為ではあるが、今の私は人ではなく蟹であり、人のルールには縛られない。というか他に方法が無い。とはいえ、8帖といったワンルームの中で物を燃やすという行為は非常に危険な行為であり、特にビニール類やプラスティック類に於いては大量の煙が発生したり激臭が発生する可能性もある。又、物によっては有毒ガスが発生する物も存在する訳なので、凡そ人が寝静まった時間に換気扇の下に立ち、それはそれは過剰とも言える程に換気や失火について注意を払いながら行っている。それに下手をすれば自分が焼きガニになる可能性もあり、それはそれで非常に危険なミッションであり、それを日常的に行わなければならないという宿命を私は負っている。
2つ目は食事だ。私は外見が蟹になろうとも中身は人間のままのつもりであったが、どうやら食の好みが変わったようだ。というか劇的に味覚が変わり人間の食べ物が合わなくなった。そんな私の主食はズバリ「カニの餌」。それはペットとしての蟹やザリガニ向けの餌。ペレットの形をしたそれは人間の舌には馴染まないかもしれないが、蟹である私が試しに食べてみたら結構イケてる味であり、私はそれを主食としてネットでもって定期購入している。それに付随するおかずはイカであり、主にさきいかや燻製いかやらの乾物系。あと自分へのご褒美や贅沢したいなと思った時にはイカの刺身を買っている。これは冷凍物をネット購入な訳だが、基本冷凍物は宅配BOXには入れてくれないので対面渡しになる。だが当然、私が対面でもって受け取れるはずもない。その場合には玄関インターフォンでもって「手が離せないので宅配BOXに入れといて」という事で何とか凌いでいる。とまあ、私の食事は「蟹の餌」とイカ関連というほぼ2つのローテーションでまさに1年中同じ物を食べているのだが、人間だった時には「同じ物ばかりで食べ飽きたな」なんて思う事もあったが、蟹になったからなのか全く飽きないのであった。
そして3つ目は寝床だ。人間の時には狭いながらも足が伸ばせるロフトに布団を敷いて寝ていたが、蟹である今は薄い塩水を満たした浴槽で寝ている。といっても8帖ワンルームに設置されているユニットバスの浴槽は非常に狭く、私にとって一番楽な姿勢であるうつ伏せ状態で寝る事など到底出来はしない。なので浴槽にしがみつくような姿勢でもって寝る事を強いられているのだが、まあ、安心して寝れるだけありがたいと思うしか無い。だが自分の部屋だからと安心出来ないこともある。そう、冬である。冬は常時暖房入れっぱなし。そうしないと冬眠してしまう可能性があり、もしも冬眠したら数ヶ月は寝てしまう。そうなると「この部屋の様子が変だ」なんて事にでもなりかねず、早晩、アパートの管理会社が来てしまう可能性がある。そしてマスターキーでもって部屋を開けられた日には…………
因みに人間の頃を思い出し温かい湯船に浸かった事があるのだが、その途端、体が鮮やかなまでに赤くなり、危うくボイルされてしまう所だった。中々にデリケートな体となってしまったようで大変だ。しかしそんな生活が出来ているのは生活のほぼ全てがネットで完結出来る世の中であったからに相違ない。でなければ直ぐにでも破綻し、私は早晩、水族館にでも送られるか研究として息の根を止められ解体されるか剥製にされるか、若しくは動画投稿を生業とするどこぞの輩に焼かれて「やっぱデカいと大味だな」なんて言われながら食べられて、その様子を「世界最大級の蟹でBBQ!」なんてタイトルをつけられ発信されていた事だろう。ほんとネット時代に感謝だ。
とはいえそんなネット生活も金が無ければ成り立たない。金があってのネット生活であり引き篭もり生活である。万が一にも経済的に破綻したとしたらそれら全てが破綻する。その様な場合の為に生活保護制度という手段が存在する訳だが、それは対面が必須な制度でありあくまでも人間用。どうつくろっても蟹である私が利用することは不可能である。私は人間のように保護されるような身分でなく、万が一にも見つかったら水族館行きか研究材料か動画投稿サイトのネタになるような身分。若しくは「みんなの所へおかえり」なんて気の利いたセリフと共に海に放り出されるかもしれない。それで溺れる事は無いだろうが、そもそも人間のネット社会で生きてきた私が今更海の中で生活なんて出来るとは思えない。海の底を餌を求めてひたすらに歩きつつ、疲れたら寝るを繰り返すだけの日々を、常に漁業者に見つからないよう怯えながら暮らしてゆく生活なんて想像出来ない。ネットも無い海の底での生活なんてありえない。よって私は蟹であっても現代人らしく地上で生きていかなければならない。引き篭もり生活を続けなければならない。ネット生活で生きてゆかなければならない。なので働かなければならない。人間が使うお金を稼がなければならない。だから私は働いた。今まで通りプログラマーとして10本指を駆使……いや、慣れない2本の蟹のツメで以って、プログラムを必死に書き続けた。とはいえ2年近くも蟹のツメでキーボードを叩いていればそれなりに慣れてくるもので、流石に人間の10本指のスピードには敵わないがブラインドタッチも出来るようになり、それなりのスピードで以ってキーボードを叩けるようになっていた。蟹ではあるが普通に日本語も話せる。おかげで稀に行われる電話会議も何とかこなせ、今の生活を維持出来る程度には稼げていた。その傍らで小説も書き続けていた。勿論今度は「小説蟹になろう」ではなく「小説家になろう」というサイトでもって書いている。結局の所、姿は蟹になってもやっている事は人間の時と変わらず、蟹の身分にしては十二分に平穏な日々を送れている。だがそんな中、またしても不穏なタイトルのメールが届いたのだった。
『貴殿の投稿小説の商業出版について』
自宅でプログラマーを生業としながら今や趣味となった小説投稿。そんな日々を送る中、大手である「◯◇出版」を名乗る差出人からのメール。私は2年前のそれを直ぐにも思い出した。
「おいおい、又か? 今度はエビにでもするつもりか?」
一般的に怪しいメールは開かず破棄するが鉄則だろう。私に至ってはあのメールを開いたからこそ、今の姿になったという可能性もある。その教訓を生かすべきなのだろうが、人は同じ過ちを繰り返す動物と言われるように……といっても私は甲殻類である蟹なのだが、まあ、とりあえず中身が人間であるが故に、私はそんな誘い文句的タイトルにまんまと釣られてメールを開いた。
「…………」
そのメールは以前と全く異なり、中々に硬い文章で纏められ如何にもな本物感を醸し出していた。署名に至っては聞いた事のある大手出版社名。そしてその会社の住所に代表電話番号にメールアドレスにホームページのURL。見た目的に怪しい所は全く無い。
「う~ん、限りなく本物っぽいけど……」
かといって一度失敗している訳でもあり慎重にならざるをえない。まあ、一番良いのはメールを無視して破棄する事な訳だが、万が一にもそのメールが本物だとしたら、それは商業小説家への道が開かれる可能性があるという事でもある。
「ま、まあ、確認するだけ確認してみるか……」
とはいえ単純にメール返信するのは怖い。ということでその出版社の公式ホームページを開き、そのページ内に記載されている代表電話番号に電話をかけた。そしてメールの差出人に繋げて貰った所、「連絡ありがとうございます」と、そのメールが本物である事が確認できた。その後は私の投稿小説に対する評価等で話が弾んだのだが、相手の次のその言葉で、私はハッと我に返った。
「では一度、こちらに来て頂けませんか? そこでもう少し詳細な話をしませんか?」
そう、私は対面出来ないのだ。外を歩く事など出来ないのだ。打ち合わせ程度なら電話会議で何とかなるかもしれない。だが万が一にも出版社と契約するなんて事になればきっと対面は必要だろう。だがそれは不可能……いや、若しくは弁護士に依頼するというのはどうだろうか? 対面でなく電話だけの口頭で以って弁護士を雇い、その弁護士を通して出版社と契約するなんて方法はどうだろうか? それならば人間と一切会わずに済むかもしれない……なんて事が頭を過ぎったが、そもそも弁護士を雇う金なんて持っていない。よって蟹である私が商業作家になるなど夢のまた夢。故に私は今回の話を断る事にした。
「え? 何故です? プロの小説家になれるかもしれないんですよ?」
「いや、止むに止まれぬ事情がありまして……」
「事情? 小説家になるチャンスを捨てる程の事情ですか? 何なら相談に乗りますよ?」
「いや、相談するのも憚るというか……」
相談したい内容こそが相談出来ない内容な訳であり……
「とりあえず一度、直接お会い出来ませんか?」
それこそが唯一出来ない事な訳なのだが……
「あの、その、何と言いますか、その、大変失礼な言い方になりますが、あまり人間とは会いたくないというか、大っぴらに存在を知られたくないというか、顔を見られたくないというか……」
「あぁ、そういう事ですかぁ」
「えぇ……」
「じゃあ、ちょっと禁じ手ですが、契約含め全てネット上で行うというのは如何でしょうか?」
「あ、ですからテレビ会議とかもちょっと……」
「全然良いです、問題無いです、おーるおっけーです。会議にしても今みたいな電話会議とか出来れば大丈夫です」
「本当ですか?」
「えぇ、ぶっちゃけ現役反社の人でなければ全然良いです」
「あ、そういうのは無縁ですので大丈夫です」
流石はネット社会と言うべきか。そうして私は自分の姿を隠したままに出版社と契約する事になり、更に話はトントン拍子に進んでゆく。
「じゃあ、まずは今迄に投稿した小説を校正し、オムニバス形式で纏めた物を出版するというのでどうでしょうか?」
「は、はい、お願いします」
「ペンネームはどうしますか?」
「今、使っている物でお願いします」
「しかしそのペンネームは微妙に勘違いされそうな気がするのですか」
「いえ、それはそれで私の小さなこだわりというか」
「そうですか、分かりました。ではペンネームは今まで通りという事で」
「はい、お願いします」
引き籠り系である私は本名を使って投稿した事は一度もなく、当初からペンネームを用いていた。最初、つまり「小説蟹になろう」の時には深く考えないままに、自身の引き篭もりを揶揄するようにして「ひきもり」としていた。次のサイト、つまりは「小説家になろう」の時にして今のペンネームは「小説クラブ」。確かにそれはペンネームとしては多少違和感も持たれるかもしれない。だがそれは音で聞いて想像するような「クラブ」では無い。
そう、私のペンネームは「小説CLUB」ではなく「小説CRAB」。音は同じでもスペル違いのクラブであり、それは正にこだわりのペンネームである。そういえば私が最初に利用していた「小説蟹になろう」というサイト。蟹になって暫く後に再び開こうとしたが、既にそのサイトは消えていた。結局あれば一体何だったんだろうかと常日頃思いつつも始まった小説家人生……いや、小説家蟹生と言うべきだろうか。いずれにしても始まったその生き方。半年後の出版を目指し蟹のツメで執筆を続ける私の、そんな本当の姿を知る者は誰もいない。
2023年09月10日 初版
※画像は「いらすとや」より引用
※当たり前ですが全てフィクションです。色々な事が対面しないままにネット上で完結出来る様になってきてはいますが、少額な物であればいざしらず、一度も対面せずに契約とかなんて、果たして出来るのか含めてフィクションです。