後編
だが翌日から、カフェの仕事に行っても朔と出くわすことはなかった。
別に彼はカフェの常連というわけではないらしい。そう思って安心したのがいけなかった。
それから三日後、あたしは彼と再び出会ってしまったのだから。
「……あなた、これ落としましたよ」
「あ、すみません。ありがとうござい――――!?!?」
彼があたしと同じ大学の学生だとわかっていたはずなのに、気を抜いていたあたしの完全なる油断だ。
考え事をしながら大学の廊下を歩いていたあたしは、うっかりスマホを落としてしまったらしい。そしてそれを拾ってくれた親切な青年は、他ならぬ朔だった。
一瞬、時が凍りついたように感じられた。
動けなくなってしまうあたし。一方であたしにスマホを手渡そうとする彼は不審がって首を傾げ、あたしをじっと見つめて言った。
「あなた、いいや君、もしかして」
「ち、違いますっ。あたし、」
「実桜じゃないか? 久しぶりだな! そういえばこの間のカフェの新人店員さん、どこかで見た顔だと思ったら実桜だったのか。全然印象が変わってたから気づかなかったよ。まさか同じ大学だったなんて。懐かしい。ほんとに懐かしいなぁ」
誤魔化そうとしたものの、速攻でバレてしまう。
もはや言い訳の術が何もない。あたしは、今にも泣きそうになりながら一体どうしたものかと天を仰いだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その場から走って逃げ出さなかったのは、もはやそんな気力すら残っていなかったからだった。
朔に見つかってしまった。今逃げたってどの道彼とまた会うことになる。もう知らないふりをしてこの地で生きていくことはできない。
胸がドキドキする。会いたかった。いいや、会いたくなかった。違う、本当はすごくすごく会いたくて話したいことがいっぱいあったはず。
そんな相反する感情が胸の中で渦巻き、荒れ狂う。
何を言っていいかわからなくて、あたしは下を向いて黙っていた。
朔はあたしにスマホを返すと、笑顔で「元気だったか?」とか、「実桜とまた会えて嬉しい」としきりに言ってくる。
それだけではなく、あたしと離れている間に何をしていたのかも話してくれた。少し離れた街に引っ越して高校生活を頑張ったこと、そしてこの大学に受かってやって来たこと。
あまりに楽しげに語るものだから、あたしのいない間の生活は楽しかったんだろうなぁと思って悲しくなってしまった。
朔にとってはあたしは要らない存在だった。わかっていたつもりだ。引っ越しの時に未練のなさそうな顔を向けられたその時から。でも、朔がこんなにも近くにいるのに、またこうして話すことができているのに、それをまざまざと思い知らされるのは辛くて。
気づいたらあたしは、言ってしまっていた。
「あたしね、彼氏、できたんだよ」
まるっきりの嘘っぱちだった。
今でも朔のことを想い続けている。久々に感じる彼の体温に胸がときめいている。彼が好きだと心が悲鳴を上げて、頭がおかしくなりそうだ。
なのに、どうしてこんな馬鹿げたことを言ってしまったのだろう?
だが答えはすぐにわかった。わかってしまった。これは、嫉妬だ。
あたしは朔が羨ましかった。楽しそうな朔が。優しくするだけ優しくしてあたしを置いて行ったのに、勝手に一人で幸せになっている朔が、許せなかった。
だから嘘を吐いたのだ。
朔はどうせ、「ふーん。良かったな」で済ませるだろうと思っていた。
だけれど彼から返ってきた反応は予想外のもので。
「そうか。実桜にも、彼氏ができたのか。実桜、可愛いもんな」
「……か、可愛いっ!?」
「実桜に惚れない奴なんて、見る目のない男だと思ってたよ。実桜は磨けば光るだろうなってわかってたけど、まさかここまでとはな……」
可愛いなんて褒められたのは初めてで、動揺してしまった。
朔は一体どういうつもりなのだろう? あたしは彼氏がいるって今言ったばかりなのに、口説こうというのか? でもおかしい。朔ほどの好青年に彼女がいないはずがない。なら今のは、お世辞?
混乱するあたしを取り残し、朔は「また会おうな」と言って去っていく。
そして彼は最後に言った。
「彼氏と幸せになれよ、実桜。――俺のことは気にしないでいいから」
ますます意味がわからなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……どうしたんだ、浮かない顔をして」
カフェでの休憩時間、ため息を吐いたあたしを心配して店長さんが言った。
この人は非常に面倒見が良く、気配りができる人だ。
本当はバイト先の店長に恋愛相談をするのはどうかと思うところだが、すっかり心が弱り切っていたあたしは全てを吐き出してしまった。
初恋の幼馴染がいたこと。彼と再会し、同じ大学だとわかったこと。好きで好きでたまらないのに、嘘を吐いてしまったこと。そして朔の最後の言葉のことまで。
「すみません、面白くもない恋患いの話をしちゃって……」
「いやいいさ。でも青春だねぇ。想い続けてた幼馴染なんだろ、誤って告白すればいいと思うよ。当たって砕けろ、ってよく言うだろ? それに話を聞く限り、幼馴染くんの方も春日さんに惚れてると思うけどねぇ」
「そんなっ、あり得ないです! あたしみたいな地味女に彼が釣り合うはずがないんです」
「でも男はいいと思っていない女に可愛いと言ったりはしないもんだよ。本命であれ何であれ」
店長さんにそう言われ、あたしは考えた。
例えば朔は彼女と別れたばかりで寂しかったから、あたしを期待させるようなことを言った?
でも朔がそんなことをするなんて思えない。彼は優しくて、まっすぐで……。誰よりも素敵な男の子だっていうことは、あたしが一番知っているから。
ふと窓の外を見ると花吹雪が舞っていた。
もうじき桜の季節も終わる。あたしの恋が始まり、終わって、再び始まったきっかけの桜。
なぜだかあたしはそれに、背中を押されたような気がした。
店長さんの言った通り、当たって砕けろだ。恋なんて桜の花のように儚いものなのだから、楽しまなくてどうするのだ。
「――ありがとうございます。なんだか自信が出てきたかも知れません」
「そうかい。それは良かった。そろそろ再開だな」
「はい!」
あたしは決意を固め、力強く答える。
もう迷いはなかった。
カランコロン、と音がして、カフェに入ってきたのは朔だった。
最初に出会ったあの日と一緒の学生服。カバンを広げながらも、きょろきょろと店内を見回している。
ちょうどいいところに来てくれた。
胸が弾む。今までビクビクしていたのが嘘のようだった。
あたしを探しているのかな。
そうだったらいいなと思いながら、ウェイトレス姿のあたしは彼に声をかけた。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか? コーヒーですか、それともあたしですか?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
バイトからの帰り道、あたしは朔は並んで歩いていた。
彼と出会った日のことを思い出す。桜の下、困惑するあたしを連れ回す幼い朔の姿が脳裏に蘇る。
二度と戻れないと思っていたあの日に戻ってきたようで、不思議な気持ちだった。
なんとも言えない雰囲気の中、あたしは口火を切った。
「ごめんね、朔。あたし彼氏いるって言ったの、嘘なの」
「そうか。……そう、なんだな」
「うん。それでね、あたしね」
思い切って彼への想いを口にしようとしたあたし。
しかしそれは、朔の衝撃的な言葉で遮られてしまった。
「俺さ、実はずっと実桜のことが好きだったんだ」
「……」
「最初は実桜を元気づけたかっただけだったんだよ。友達みたいな感覚でさ。でもいつからだったんだろうな……実桜が可愛くて仕方がなくなってたんだ」
「…………」
「なのに引っ越さなきゃいけなくなってさ。本当に悔しかった。でも俺の気持ちなんてどうでもいいから実桜が幸せになればいいんだって思おうとしてたけど、ダメだった」
徐々に朔の言葉に熱がこもっていく。
あたしは最初何を言われたかわからなかったけれど、その意味を理解した後、急速に顔が赤くなっていった。
――朔がまさか、彼女も作らずにあたしを想ってくれていたなんて。
ああ、こんなことってあるのだろうか。
夢ならどうか覚めないでほしいと願いながら頬をつねった。痛かった。
「あたしなんかで、いいの?」
「当たり前だろ。実桜がいいんだよ。
なあ実桜、俺と付き合ってくれないか? ……もちろん嫌だったら、断ってくれていい」
真剣な目であたしを見つめる朔。
太いながらも柔らかな彼の声に、鼓膜が……いいや、全身が震える。
「あ、あたしも好きだよ。朔以外のこと考えられないくらい、ほんとにほんとに、好き」
朔の体にギュッと抱きついて、彼の首筋にキスをした。
そうしたら彼はすぐにあたしを抱え上げ、お返しの口づけをくれる。額に、頬に、そして唇にまで。
それが一通り終わってから、今更ながら朔が言った。
「……今度こそ嘘じゃないよな?」
少し不安げな顔をする朔がなんだか可愛くて、思わずぷっと噴き出してしまう。
あたしの答えはもう、彼にだってわかっているだろうに。
「うん。お持ち帰り、してください」
ハラハラと散りゆく桜があたしたちを祝福している。
桜並木の中を恋人繋ぎをして歩きながら、あたしはそっと微笑んだ。
あたしの初恋という名の花は無事に花開き、美しく実を結んだのだった。
これにて完結です。ご読了ありがとうございました。
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