中編
朔のいない毎日は、ひどく味気なく感じられた。
一人きりで自転車に乗って高校に向かう。そこで受ける授業はつまらないし、かと言って入りたい部活も見つからない。
地味で陰キャなあたしは案の定クラスの中で影のような存在になって、親しい友達はできなかった。
中学が同じだった女子生徒には朔のことで嘲笑され、軽いいじり、いじめなどされた。でもあたしは抵抗しなかった。する気も起きなかったと言った方がいいかも知れない。
初恋以来、恋愛事とは完全に無縁だ。
朔よりいい人が現れるなんて思えない。それにあたしみたいな地味女に告白してくるような物好きな男子がいるはずもなく、逆にあたしが告白することもついぞなかった。
まるで小学生の頃に戻ったみたい。
朔がいてくれたら、と思うけれど、もちろん彼があたしの前に現れることはなくて、会いたい気持ちだけが募っていく。
そして、そんな面白味のないゴミみたいな現実から逃れるようにあたしは勉強に打ち込んだ。打ち込むしかなかったのだ。
でもそんな風に高校の三年間を過ごしたおかげで、少し有名な大学に受かることができた。
実家を出て、都会で始める一人暮らし。
奨学金でも足りないお金をカフェのアルバイトで稼ぐことになった。
新生活に不安はある。というか、不安だらけだ。
本当にあたしは上手くやれるだろうか。朔のいないこの場所で、一人きりで。
「……ダメダメ、せっかくの新生活、笑顔で迎えなくちゃ」
首をぶんぶんと振りながら呟いたあたしは、ふと改めて目の前に広がる景色を眺めみた。
職場のカフェへ向かう道は、咲き始めの花びらで彩られた桜並木が広がっている。
もうすぐ満開の桜が花開く季節がやって来る。彼と出会い、別れたあの日と同じの……。
ダメだとわかっていたのに、ほろりと頬に一筋の涙が流れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
カフェの店長さんは非常にいい人だった。
鈍臭いあたしに根気よく仕事を教えてくれたし、コーヒーを奢ってくれたりした。
こうやって人間扱いされたのなんていつぶりだろう。生きていていいんだと、久しぶりにそう思えた気がした。
失敗しつつも接客にも徐々に慣れてきて、この調子ならなんとか都会でもやっていけそう――と、少し気分が上向きになった矢先、とんでもないことが起こってしまった。
――それは、働き始めて三日目のこと。
ちょうど店長がいない時間帯で、他の店員たちは手が離せなかったのであたしが初めて一人で対応する客だった。
あたしと同じ大学の制服を着た、男子学生。
カバンを机に置き、資料を広げて何やら勉強しているらしい。俯いたその姿にどこか見覚えがあったが、きっとあたしと同じ講義を受けている生徒なのだろうと思って深く気にせずに声をかけた。
だが、それがいけなかった。
「ご注文いただいたコーヒーでございます」
「ありがとう」
顔を上げ、あたしに笑顔を見せた学生くん。
ばっちり目が合った瞬間、思わず心臓が止まるかと思った。
――まさか。
記憶の中で少しだけ朧げになってきつつあった初恋の人の顔が鮮明に蘇り、全身が震える。
以前よりずっと背が高くなって、信じられないくらいかっこ良くなっている。他人の空似と言われればはっきりと否定できない。でも、わかった。わかってしまった。
目の前の学生くんが、間違いなく七年間を一緒に過ごした幼馴染であるということに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その後どうしたかよく覚えていない。
きちんと接客できただろうか。店長さんや同僚に迷惑なく帰ることができただろうか。
気づいたらあたしは一人暮らしをしているアパートの部屋のベッドにいて、うんうんと唸っていた。
新天地で初恋の人とバッタリ出会っただなんてラブコメじゃあるまいし非現実的だということはわかっている。
拗らせ女の妄想と言った方がよほど説得力があるだろう。あたしの見間違いであったという可能性も捨てきれない。でもあれは確かに朔だったのだ。
彼はあたしに気づいていなかったらしい、ということだけはぼんやりと記憶している。
そりゃあ当然だろう。あたしみたいなうっすらとした影みたいな女が朔に覚えていてもらえているわけがない。彼はあたしと違って、今頃きっと可愛い彼女でも作っているだろうから。
そう考えるだけで胸がギュッと痛む。
なぜ? あたしは彼のことをできるだけ思い出さないようにしていたのに。初恋の思い出としてそっと大事に大事に胸の奥に仕舞い込んでおくつもりだったのに。
「どうして今頃、あたしの前に現れるの……?」
明日からどんな思いで毎日を過ごせばいいのかわからない。
彼が本当に朔なのだとしたら、会って話したい。でも彼はあたしを見てくれなくなっているかも知れない。そんな風に考えると怖くて仕方なくなる。
無理だ。今度もし彼がカフェに現れたら、あたしはきっと逃げ出してしまうだろう。
そしてそんな自分がとてつもなく情けなくて惨めだった。