前編
「……バイバイ、元気でね」
明るい笑顔であたしは彼を送り出す。
桜吹雪の中、遠のく彼の影。そして彼は振り返り――、
「ああ、行ってくる」
何の未練もなさそうな顔で笑い、あたしを置いて一人立ち去っていった。
もう二度と会うことはないだろう。そう思うと目頭が熱くなり、ジクジクと胸が痛んだ。
しかしあたしは決して彼の歩みを止めるようなことはしない。ただ、涙をこらえ、吹き荒れる桜の花びらを全身に受けながら、立ち尽くしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
恋の終わりがあの日と同じ桜の中でだなんて笑えない。
あれも桜が咲き乱れる春の日だった。小二の時、空き家になっていた隣の民家に、とある三人家族が引っ越して来たのだ。
若い夫婦と、その真ん中に立つ男の子。挨拶しなければいけないのに、あたしは彼らを前にして声が出なかった。
あたしは極度の人見知りだった。
幼稚園の頃からつまらないことでずっといじめられていて、そのせいで小学生になってもハブられっぱなし。元々性格が根暗というのもあったのだと思う。だから隣の家に新しい家族がやって来ると知った時からずっと怖くてたまらなかった。
両親が親しげに話している中、あたしはずっと下を向いて黙っていた。
早くこの時間が終わらないかな、と思っていた時、突然手を握られてビクッとなったのを覚えている。
「ねぇ、君の名前は?」
あたしにそう言ったのは男の子だった。
その当時のあたしは普段ならきっと答えなかった。答えられなかっただろう。でも少年があまりにも無邪気で輝いた笑顔を見せるので、気づいたらスッと口から言葉が出ていた。
「あ、あたしは実桜。春日実桜……」
「初めまして。俺は朔っていうんだ。あのさ、この家の近くに綺麗な桜がいっぱい見えたんだけど、一緒に見に行かない? 案内してほしいんだ」
「……え」
どうして出会ったばかりの彼にそんなことを言われるのか、さっぱり状況に理解が追いつかないでいるうちに、彼はあたしの手を引っ張って歩き出してしまう。
今考えて見れば案内してほしいというのは口実で、明らかに緊張しまくっていたあたしを気遣ってくれたからの言葉なのだとわかるが、当時のあたしはただひたすらに怯えた。そんなことを言いながら全く知らない場所に連れて行かれるんじゃないか、とか、そんなことを考えて。
でも彼があたしを連れて行った先は家から最寄りの川沿いに生い茂る桜並木の元だった。
「父さんと母さんにこの町は桜の名所だって聞いてたけど、ほんとに綺麗だなぁ」
そんなことを言いながらあたしの手を引いて散策し回る彼。
最初はただ桜を見に来ただけのはずだったのに、気づいたら町案内に変わっていて、近所の公園やら店やら学校やらを巡りに巡っていつの間にか数時間が経っていた。
こんな風に誰かと一緒に過ごすのなんて初めてで、最高に楽しかった。
桜が舞い散る中、二人で色々なことを話した。
朔がかつて住んでいた町のこと、そしてこの町のこと。それからあたしの今までについても話したりして、いつの間にか彼はあたしにとって心を許せる人間になっていた。
「……な、なんか友達みたい」
「なろう、友達。俺、実桜ともっと仲良くなれそうな気がする!」
「え、いいの?」
「当たり前だろ」
そうしてあたしたちは友達になった。
思わず握手して笑い合ったものの、すぐに恥ずかしくなってあたしは頬を赤く染めた。多分この瞬間、あたしは初めて朔に淡い恋心を抱き始めたのかも知れない。
そんな、幼い頃の思い出。
それが今、あたしの胸をギリギリと締め付けてくる。
朔とあたしは、それから毎日一緒だった。
朔が入学してきて、同じ小学校に通うようになった。帰り道も一緒。朔はこの町を探検したいと言ってあたしを毎日のように連れ回す。
中学生になってもそれはずっと変わらない。陰キャなあたしがいじめられなくなったのは朔のおかげ。中学ではいつでも一緒にいることで馬鹿にされたが、あたしたちの関係は揺るがなかった。
……そして年月を重ねるにつれ、あたしは己の恋心を強く感じるようになる。
最初はただの好意だったものが、大好きに変わって。気づいたら朔をいつでも目で追うまでに至っていた。
いつか必ず、朔に告白するんだ。
そう決めていた。なのに。
なのに中学卒業の春、朔は突然、この町から引っ越すことをあたしに告げた。
家の事情だった。それに伴い彼はあたしがまるで知らない高校に行くらしい。近くの高校に進学するって言っていたのに。だからこそあたしは勉強を必死に頑張ってそこに受かったのに。
これじゃあ、意味ないじゃん。
あまりに突然のことで、お別れ会すら開けなかった。桜吹雪を浴びながらあたしに背を向けて歩いていく朔。走ったら追いつく。今なら間に合う。でも追いかける気にはならなかった。なれなかった。
だからあたしはこの初恋を捨てる。
せめて最後に想いだけでも伝えられれば良かったと思ったが、その時にはもう朔も姿は見えなくなっていた。